第3話「聞いたことのない言葉」
名前を届けに来る行列は三日続いた。
三日目には列の中身が変わり始めた。死んだ者の名前ではなく、まだ生きている者を連れてくる。背負われた病人、戸板で運ばれてくる年寄り。帳面に名前が載れば何かもらえるらしい、という噂が谷の枝村まで歩いたのだ。噂の中身は間違っているのに、起きていることはあながち間違いでもない。彼女は運ばれてくる全員の名前を書き取らせ、ついでに各戸の人数や働ける者の数、鍬と鋸の数まで聞き出していった。死者の帳面の隣に、生者の帳面が太っていく。
書き取りの机は館の戸口に出しっぱなしで、寒いからと、小さい火鉢がひとつ脇に付いた。並ぶ者は火鉢で手を炙りながら順番を待つ。名前を届けに来て、ついでに温まって帰る。それが目当てで二度来る年寄りがいることも、彼女はたぶん知っていて、何も言わなかった。
「数えてどうなるんです」と俺は訊いたことがある。
「数えていないものは、守れませんもの」
それが答えだった。分かったような、分からないような顔をしていると彼女は付け足した。「あなたの隊で矢が何本あるか数えていない隊長に、ついて行きたくて?」
行きたくない。それは分かる。分かるが矢と人を同じ調子で数える隊長にも、ついて行きたいかどうか。
枝村は谷の上流に2つ、下流に1つある。彼女は着任の週のうちに、3つとも自分の足で回った。護衛は俺ひとり、供は道案内のブレヒトだけ。上流のホルバッハ村では、村の衆が誰も出てこなかった。前の代官の取り立てを覚えていて、貴族の馬を見ると隠れる癖がついている。彼女は構わずに井戸を覗き、水車の壊れた軸を見て、薪小屋の戸の隙間から中の嵩を目で測った。
「水車はいつから止まっていますの」
物陰から答えたのは結局子どもだった。ふた冬前から、と。彼女は子どもに礼を言って、銅貨ではなく、固く焼いた持参のパンの欠片を渡した。手を出すかどうか子どもは物陰の母親を二度振り返ってから、ひったくるように取った。
井戸は生きていた。釣瓶の縄が腐りかけているだけで水の面は高い。彼女は釣瓶を一度上げさせ、水を手袋の甲に受けて、においを確かめてから捨てた。水のある谷は立て直せますわ——物陰の連中に聞かせるでもない声量で、けれど確かに届く声で彼女はそう言った。
「軸の替えは木挽きがいれば作れます。挽くのは、水車が直れば水がやってくれますわ。——人手が要るのは最初のひと押しだけ。どこも同じ」
帰り道、馬上で彼女はそんなことを言った。独り言なのか、俺に向けたのか、どちらとも取れる声で。ブレヒトが後ろで、水車が直ったら粉挽き賃はどうなりましょう、と恐る恐る訊いた。取りません、その代わり挽いた量は帳面につけます、と即答されていた。何でも帳面につく領地になっていく。それが息苦しいのか頼もしいのか、このときはまだ、村の連中も決めかねていたはずだ。
四日目、彼女は教会に運び込まれた病人を検めに行った。
ヨーゼフ司祭の教会には、寝たきりが14人まで増えていた。壁際に藁を敷き、長椅子を寝台代わりに並べて、それでも足りずに祭壇の近くまで使っている。司祭は反対しなかったそうだ。神の家がいちばん広くて、いちばん壁が厚い。それだけのことです、と。
彼女は寝ている者を、ひとりずつ見ていった。
手袋を外して、額に手の甲を当てる。手首の脈を取る。瞼の裏と、舌と、足首のむくみを見る。それから枕元の家族に訊く。いつから食べていないか、湯は飲めるか、便はどうか。淀みのない、聞き慣れた手順をなぞる者の手つきだった。少なくとも刺繍と舞踏を習って育った深窓の令嬢の手つきではない。
「この子と、その子。火のそばへ移しなさい。麦湯に塩をひとつまみ。匙で、少しずつ、休みながら」
熱で頬の赤い兄妹だった。母親が何度も頭を下げる。
兄の方が朦朧としながらも、妹の椀を先にと掠れた声を出す。彼女は順番は私が決めます、とだけ返した。それでも匙を持つ母親には、先は妹の方、と低く言い直した。理屈は同じでも子どもの願いの形だけが、椀の順に残ったことになる。
次の藁の上に、炭焼きのアルノがいた。
41の働き盛りだと、帳面で読んだ名前だ。その帳面の歳と、目の前の男が結びつかない。頬がそげ落ちて、目だけが大きい。皮膚は蝋のようで、呼びかけに薄く目を開けるが、焦点がこちらまで届かずに途中で落ちる。妻のリーゼがその手を両手で包んで温めていた。
彼女は脈を取り、瞼を見る。足首に親指を沈め、その窪みが戻らないのを見た。
それから、ほんの少しだけ間を置いて、誰に言うともなく呟いた。
「……黒タグ、ですわね」
「は?」
聞き慣れない言葉だった。黒、タグ? タグというのがまず分からない。荷札のことか? 思わず訊き返した俺に、彼女は一拍遅れてこちらを見た。その一拍は彼女にしては珍しい長さだった。
「——こちらの言い方ですと、『手当ての順から外す』ですわ」
「外す……?」
「火のそばの場所と、白湯は差し上げます。ですが、回復のための食は、回る見込みのある方から」
リーゼが顔を上げた。
言葉の意味が滲みていくのが、傍で見ていて分かった。最初はただの困惑、それから手の中の夫の手を見て、それから――悲鳴に近い声になった。
「見捨てるのか! 代官様、あんた、この人を見捨てるのか!」
「見捨てません。最後まで、ここで、温かくしています」
「飯を回さねえのが、見捨てるってことだろうが!」
彼女は目を逸らさなかった。
「奥さん。ご主人の胃はもう、食べ物を受けつけません。無理に流し込めば、苦しみが増えるだけ。そして同じ一椀で、あちらの兄妹は二人とも戻ります」
「だったら、うちの人は、何のために——」
「何のためでもありません。順番の問題です」
リーゼの手が振り上がって、振り下ろされる前に司祭が間に入った。彼女は避けもせずに立っていて、司祭の腕の中でリーゼが泣き崩れるのを最後まで見てから次の藁へ移り、その手は何事もなかったように次の病人の脈を取っていた。
14人を見終わると、彼女は司祭に段取りを残していった。火のそばに移す者が4人。麦湯に塩の者と麦湯だけの者。日に二度、誰かが脈を確かめて、変わったことがあれば帳面に書く。書く係には字の書ける司祭の手伝いの少年が充てられた。少年は仕事をもらったのが嬉しいのか怖いのか、何度も頷きながら炭片を握りしめていた。
「師よ。祭壇の蝋燭、夜は2本までになさい。蝋も冬の物資ですわ」
「……神の御前の灯りまで、帳面につけるおつもりか」
「つけます。神様は暗くても見えるでしょうけれど、夜に病人を看る人間の手元は、そうはいきませんもの」
司祭は何か言いかけて、結局、祭壇の燭台から2本だけ残して灯りを移した。病人の枕元が少しだけ明るくなった。ああいう口の利き方を、俺はほかに知らない。神を立てもしないし、無駄に蹴りもしない。勘定の中に神まで入っている。
その晩、教会の軒下で、ヨーゼフ司祭と並んで立った。
「騎士殿。あなたの主は、神を恐れぬお方だ」
「……俺の主は王です。あの人は、護衛対象で」
「ではあなたは、神を恐れぬ護衛対象をお持ちだ」司祭は疲れた声で笑って、すぐ笑いをやめた。「人の命に順番をつけるのは、神の仕事です。人がやれば、それは傲りという」
「でも、師よ。あんたはあの兄妹に麦湯が回るのを止めなかった」
司祭は長いこと黙って、軒の向こうの暗い谷を見ていた。
「……止めなかった。それを夜ごと、どう祈ればいいのか、まだ分からんのです」
軒先から、夜気が入り込んでくる。山の冬の近さが肌の上でもう分かる冷たさだった。教会の中では火のそばの兄妹の寝息と、誰かの浅い咳が交互に続いている。あの寝息の数を保つために、藁の上の誰かから一椀が引かれた。その勘定の上に、この静かな夜が載っている。
アルノは六日目の夜明けに死んだ。
最期は静かだったと、夜番をしていた司祭の少年が言った。リーゼはずっと手を握っていて、息が止まってからも、しばらく誰にも報せに来なかったと。
彼女は帳面に名前を移した。『アルノ、41、炭焼き。飢えにて』。それから葬列に半刻だけ加わって、墓地の浅い土に新しい土が盛られるのを見届けた。リーゼは彼女を見ず、彼女も声を掛けなかった。
墓地には新しい盛り土が列をなしている。秋からの47に、ひとつ足された勘定だ。掘り返した土のにおいは妙に甘く、村に入った日に風が運んできたものの正体を、俺は嫌でも思い出した。
同じ日の夕方、火のそばの兄妹の熱が引いた。妹の方が粥の椀を両手で抱えて、生意気にもお代わりを要求して、母親に泣き笑いで叱られている。配給の列でその声を聞いたとき、列の何人かが、つられたように少し笑った。この村で笑い声を聞いたのは、着任から初めてだった。
リーゼは翌日の配給に来なかった。
その次の日、列の最後に並んだ。番が来て椀を差し出して、注がれるあいだ、鍋の前の彼女をじっと見ている。彼女も手を止めずに見返した。どちらも何も言わない。注ぎ終わった柄杓が鍋に戻って、リーゼは椀を持って帰った。それだけのやり取りを、列の全員が息を詰めて見ていた。
赦したわけじゃない。あれは多分、一生赦さない。それでも食いに来た。食いに来られる場所がある。俺はそのことを、報告書にどう書けばいいのか分からないまま、何日も持て余すことになる。
俺は考えないようにしていたことを考えた。
あの一椀がアルノに行っていたら。兄妹のどちらかが、今ごろ帳面の左側の頁にいた。算術としてはそれだけの話で、けれど算術としてしか言えないことがこの谷には多すぎる気がして、頭の中で言葉が続かなかった。
夜、報告書の下書きを前に、ペンが進まなかった。
『代官は病人の手当てに優先順位を設け』——ここまで書いて、続きを考える。王都の連中はこれをどう読む。冷酷な罪人の所業と読むか。それとも。
ふと、昼間の言葉が引っかかり直した。
黒タグ。
手当ての順から外す、というのが訳だとして、じゃあ元の言葉は何語なんだ。この王国の言葉じゃない。隣国の言葉でもないと思う。神学の言葉なら司祭が知っているはずで、訊いてみたら、司祭は聞いたこともないと首を振った。
タグ。荷札。死にゆく男の足元に荷札。
どこの国の、どこの戦場の言葉だ、それは。
訊けばよかったのかもしれない。だがあの一拍の間を思い出すと、訊いてはいけない気もした。あの人が言葉を探すのに一拍かかるところを、俺はあれ以外に見たことがない。
ペンを置いたとき、扉が叩かれて、彼女が顔を出した。手には例の帳面。
「レンツ。明日の朝、村の広場に板を立てなさい。にかわと、大きな紙も」
「……何を貼るんです」
「配給の順番ですわ。全員の」
そう言って、彼女はもう行ってしまった。全員の、順番。生者の帳面の数字が頭に浮かんで、それが順に並べられるところを想像して、俺は背中が薄ら寒くなった。
順番をつけるということは、最後尾を決めるということだ。
それを貼り出す。全員の目の前に。




