第2話「名前を数えなさい」
谷を下る道すがら、最初に気づいたのは音だった。
犬が吠えない。
山あいの村に馬車が3台も入っていけば、普通は犬が真っ先に騒ぎ、子どもが二番目に騒ぐ。ヴェルデンの主邑グラウデンの入り口で俺たちを迎えたのは、そのどちらでもなく、道の両脇に立ち並ぶ大人たちの沈黙だった。
立っている、というのも正確じゃない。壁にもたれ、戸口の框に座り込み、立っていられる者だけが立っている。頬のこけ方が全員同じで、目だけが馬車の荷台の幌の膨らみを追っている。麦が入っているかもしれない膨らみを。
子どもはいた。母親らしき女の腰にしがみついた幼子の、腹だけが妙に膨れているのが見えた。飢えの腹だ。話には聞いていたが、目にするのはこれが最初だった。見れば一生忘れないということも、このとき知った。
道の脇には犂が一挺、置き去りになっていた。刃に赤錆が浮いて、柄には冬枯れの草が絡みついている。耕す力の尽きた畑は、道から見える限り、谷の奥までずっと続いていた。
風向きが変わると村のにおいがした。煮炊きの煙でも堆肥でもない。土と、煮た草と、その下に沈んでいる甘ったるい何かのにおい。後で知ったがあれは村はずれの墓地の土が浅すぎるにおいだった。
「ようこそお出でくださいました、代官様……!」
代官館の前で出迎えた村長は、ブレヒトという名の禿頭の男だった。50がらみだが飢えた50は王都の70に見える。膝が落ちそうなほど深く腰を折って、出てきた言葉は涙声の挨拶とその続きだ。
「蔵には、もう、何も……どうか、王都からの、お慈悲の積み荷を——」
「積み荷は麦が18袋、塩が1箱、種薯が2箱ですわ」
馬車を降りた彼女は、旅塵を払いもせずに言った。
「王都の慈悲はそれで全部。あとは私の私物です。——下がって結構よ。配り方は私が決めます」
ブレヒトの顔が希望と困惑の中間で固まった。18袋。後で勘定したがこの谷の人口でまともに食えば10日と保たない量だ。
代官館は半分死んでいた。
前任の代官は2年前の秋、徴税の上がりを持って王都へ戻ったきり帰らなかったという。空き家になった館の東翼は冬の失火で焼け落ち、梁が黒い肋骨みたいに空へ突き出ている。残った西翼も窓板は外れ、廊下には鳥の巣。執務室と呼べそうな部屋には、埃をかぶった机がひとつと、徴税記録の綴りが鼠に齧られて散らばっていた。
彼女は部屋を一周して、机の埃を手袋でひと撫でし、ブレヒトに言った。
「結構。雨漏りしない部屋が2つあれば足ります」
それから護送隊の精算をした。ドルフとカイ、若い御者には約定の賃金に上乗せをして、王都への帰りの路銀を渡す。ドルフは銭を数えてから、もらいすぎだという顔で俺を見て、それから声を落とした。
「騎士様よ。あんた一人で残るのか、ここに」
「辞令だからな」
「……そうかい」でかい図体が、もぞもぞと動いた。「まあ、なんだ。死ぬなよ」
護衛として10日雇われただけの男の、それが餞別だった。馬車が2台、来た道を戻っていく。砂埃が峠の方へ消えてしまうと、谷は元の静けさに戻った。俺と、罪人の代官と麦18袋が残った。
荷解きも後回しにして、彼女は村の蔵を検めに歩いた。
共同の穀物蔵は戸を開けるまでもなかった。錠が壊れたまま放ってあるのは、守る中身がないからだ。床に散った麦殻を彼女は指でつまんで、鼠の糞の混ざり具合を見て、天井の梁の高さを目で測った。
「蔵そのものは生きていますわね。屋根と錠を直せば使えます」
「直しても、入れるものが」とブレヒトが力なく言う。
「入れるものは、これから作るか、買うか、取り返すかします。器を先に直すのです。麦が手に入った日に雨ざらしにする間抜けにはなりたくありませんもの」
屋根板は東の半分が浮いていて、見上げると梁の隙間から夕方の空の色が覗いた。彼女は修理に要る板の数と釘の数をその場でブレヒトに言わせ、村長が言えないでいると、自分で数えて言わせ直した。錠前は鍛冶が直せるか。鍛冶場の主はどこか。ブレヒトの答えは「火が落ちて久しゅうございます」。帳面に、また空欄がひとつ書き足される。埋まる当てのない空欄を、それでも先に作っておく人だった。
次は教会だった。谷でいちばんましな石積みの建物で、ヨーゼフ司祭は中の長椅子を二列ほど壁に寄せて、動けない病人を寝かせていた。教会の炊き出しは先月で底をついたという。それでも司祭は湯だけは沸かし続けていた。白湯を配るだけでも、人は並びに来るからと。
「神の家に蓄えはもうありません」と司祭は言った。穏やかな声の底に、こちらを測る響きがあった。「代官様。あなたの蓄えは、いかほどです」
「麦18袋と、母の形見がいくつか」彼女は隠さなかった。「それから、帳面の付け方をひとつ」
司祭の白い眉がわずかに上がった。皮肉と取ったのか、本気と取ったのか。このときの俺には、本気の方だとはまだ分かっていない。
館に戻る道で、彼女は種薯の箱に手を掛けたブレヒトを止めた。芽の出かけた薯を、配給に混ぜるつもりだったらしい。
「種薯は配りません」
「で、ですが、あれも食えるもので……」
「春に植える分を食えば、来年もこの冬が来ますわ。私は同じ冬を二度やる気はありません」
ブレヒトは箱から手を離した。離してから、自分の手を少し見ていた。食えるものから手を離す、ということ自体に体が逆らう。そういう離し方だった。
その日の夕刻、彼女は村の主立った者を館の前に集めた。ブレヒト、粉挽きのザンクト、昼に会ったヨーゼフ司祭。集まった顔ぶれは皆、最初の命令を待っていた。配給はいつか、誰からか、どれだけか。誰の頭の中にもそれしかないのが、痛いほど分かる空気だった。
彼女の最初の命令は違った。
「死者の数を、数えなさい」
沈黙。ブレヒトが聞き間違いを確かめる顔で瞬きをした。
「……死者、で、ございますか」
「この秋から今日までに、この谷で死んだ者の数。名前も、ですわ。歳と、死んだ日と、死に方も。村ごとに、漏れなく」
「あ、あの、代官様、それより麦を……皆もう、今夜の——」
「麦の配り方を決めるのに、生きている者の数が要ります。生きている者の数を数えるには、死んだ者の数から始めるのが速い」彼女はそこで初めて、集まった全員の顔を順に見た。「それと、これは命令ではなく約束ですけれど。今日から後、この谷で人が死んだら、私は必ずその名前を知ります。黙って消える者は、もう出しません」
誰も何も言わなかった。言葉の意味が腹に落ちるには、皆飢えすぎていたんだと思う。
配給はその晩から始まった。
館の前に大鍋を出し、麦を挽いて薄い粥を炊く。一人につき椀に1杯。子どもは半杯を2回に分けて。彼女は鍋の前に立って、量る柄杓を自分の目で確かめた。
挽き臼は教会から借りた手回しで、回す係には腕の残っている男を2人、彼女が帳面から名指しした。湯気の立つ鍋の周りだけ、ふた冬分の冷えがわずかに緩む。列は声もなく長くて、進むたび、空の椀同士の触れる軽い音だけが続いた。器は家それぞれの欠け椀やら木皿やらで、器のない家には教会の聖餐の杯まで駆り出されている。司祭が黙ってそれを認めたと聞いて、俺は白湯を配り続けたという話を思い出した。
騒ぎになったのは、二巡目を求める列ができたときだ。ブレヒトが恐る恐る進み出た。
「代官様、お慈悲を。皆、ふた月ぶりのまともな食い物で……袋は、まだ17残っておりましょう。今夜だけでも、腹いっぱいに」
列の方々から、すがる声が重なった。彼女は柄杓を鍋の縁に置いて、声を張りもせずに言った。
「今夜全部配れば、10日後に全員が死にますわ」
声の調子は橋が落ちていると言ったときと同じだった。
「ふた月飢えた腹に、いきなり詰め込めばそれだけで人は死にます。それを抜きにしても、次の麦の当てができるまで、この18袋が命綱。私は今夜の満腹のためにそれを切る気はありません。——恨んで結構。恨んだ者も、明日の椀は同じ量です」
列は静かになった。納得した静けさじゃない。計算はできなくても、「全員が死ぬ」という言葉の重さだけは、この谷の人間は骨で知っている。そういう静けさだった。
俺は列の端で剣の柄に手を置いたまま、暴れる者が出たら、と身構えていた。出なかった。代わりに、椀を持った老婆がひとり、粥に口をつける前に彼女の方を長いこと見ていたのを覚えている。後にゲルダという名だと知る婆さんだ。何の目だったのかは、このときは分からなかった。
配給が終わったのは、月が出てからだった。
彼女は鍋の底に残った分を自分の椀に注いで立ったまま飲んだ。俺にも同じものが回ってきた。薄い。米のとぎ汁の方がまだ味がある、と王都育ちの舌が文句を言う。黙れ、と腹の方が答えた。並んだ連中はこれをふた月ぶりの食事と呼んだのだ。椀の温みが手袋越しに掌へ移ってくるのを、しばらくそのまま持っていた。
「レンツ。あなた、犬を見まして?」
出し抜けに訊かれて、椀から顔を上げた。村の入り口で吠え声がなかったのは覚えている。だが言われてみれば、それきり姿も見ていない。一匹も。
「……いえ。声どころか、影も」
「ええ。猫も、鶏も」彼女は椀を置いた。「つまりこの谷は、食べられるものを食べ尽くす段階を、もう過ぎていますの。帳面が要りますわ。急いで」
夜、執務室の燃え残りの机で、彼女は死者の記帳を始めた。
ブレヒトと司祭が記憶を寄せ集める。彼女が書く。新しい帳面の、最初の頁。
「トゥーレ家のヨハン、62。秋の終わり、衰えて。その妻マルガ、58、夫の七日後に。炭焼きのペーター、41、山で倒れて……」
途中で、ブレヒトの記憶が揺れた。川下の小屋の婆さんの名が出てこない。ずっと一人暮らしで、いつ死んだのかもはっきりしない。雪の前か、後か。
「名前の分かる者は」
「……いえ、その、皆『川下の婆さま』としか……」
ペン先が止まった。何かを言うかと思ったが、彼女は帳面に『川下の老女、名は追って』と書いてブレヒトに言った。
「思い出した者に、銅貨を1枚出します。触れを回しなさい」
数えは夜半までかかって、47人になった。47。この谷の三年の不作が、紙の上でようやく数字になった。彼女は最後の名前の下に線を引いて、誰にともなく、確認するように読み上げた。あの事務的な声でひとつずつ。俺は壁際で聞きながら、弔いの祈りより長い名簿というものを生まれて初めて聞いた。蝋燭は残り少ないからと一本きりで、彼女の手元だけが明るかった。声が読み上げる名前のほかには、ペン先の走る音と、焼け残った梁が夜気に縮む軋みしかない。
翌朝。館の前に行列ができていた。
配給の刻限にはまだ早い。並んでいる連中は椀も持っていない。先頭の男は帽子を握りしめて、俺が誰何するとおずおずと言った。
「……死んだ者の、名前を届けに来た。うちの娘の名が、まだだと思うんで」
列は午までに30人を超えた。
パンを求める列より先に、名前を届ける列ができた領地を、俺はほかに知らない。




