第1話「躊躇の値段」
護送が始まって4日目には、俺は奇妙なことに慣れ始めていた。
護送される側が護送する側より道に詳しい。
「次の橋は去年の春に流されていますわ。レーンタールの渡しに回りなさい」
「……地図にはそう書いてありませんが」
「地図は3年前のものでしょう。橋脚の修繕費を王都が削った記録のほうが新しいの」
箱馬車の窓から顔も出さずにそういうことを言う。実際、半日進むと橋は本当に落ちていて、俺たちは渡しに回った。マルテン爺さんは手綱を握ったまま、また眉で笑う。この4日で爺さんとはだいぶ仲良くなった。雇われ御者が2人に雇われ護衛が2人、爺さんと若いの、図体のでかいドルフに無口なカイ。それに俺。護送隊と呼ぶには侘しい頭数で、王都がこの任務に掛けた本気のほどがよく分かる。
彼女は走る馬車の中で一日じゅう書き物をしていた。休憩のたびに俺を呼んでは、ヴェルデンの井戸の数や粉挽き小屋の数を訊く。司祭の名前も、冬の最初の雪はいつ来るのかも。俺がひとつも答えられないでいると、責めるでも呆れるでもなく、次の質問に移る。あれは多分、俺に訊いているんじゃない。自分の頭の中の帳面に、空欄がどこにあるかを確かめている。
5日目に通った宿場町は、街道沿いだというのに店の半分が板を打ちつけて閉まっていた。彼女は宿の主人を呼んで麦の値段を訊き、主人が答えると、続けて去年の値段と一昨年の値段を訊いた。主人が指を折りながら答えるたび、帳面に数字が並んでいく。
「倍々ですわね」
「へえ。南の谷の不作のせいで。うちらも塩の専売が締まってからは荷が素通りで、麦が高いのに買い手の懐は軽くなる一方でさ」
「ヴェルデン向けの麦を、この宿場で扱う商人は」
「……あの谷に売る奴はもういませんや。売っても、払えるものがねえ」
主人は気の毒そうに言って、それから馬車の紋に気づいて口をつぐんだ。罪人の護送だということは、もう街道じゅうに知れている。彼女は礼を言って銀貨を1枚多く置いた。情報の代金、という顔で。
宿の食堂は暖炉に薪をけちって泥炭を焚いていた。煙いし、目に染みる。出てきた晩飯は豆の煮たのと黒パンで、噛むと奥歯に砂のような感触が残る。樫の皮の粉が混ぜてあるんでさ、麦の高い年の味で——と教えてくれたのは若い御者だ。彼女は同じものを文句も顔にも出さずに平らげて、食べ終わるとまた主人を呼んだ。パンに混ぜ物の入る年は粉屋と宿のどちらが先に音を上げるのか、と訊く。帳面がまた1行太った。
夜、火の番をしながらドルフが言った。
「なあ騎士様よ。あの姫さん、ほんとに人を毒で殺しかけたのかね」
「裁きの場で、本人が認めた」
「へえ」ドルフは薪をつついた。「俺ぁ字も読めねえし貴族様の裁判も知らねえが、商人の値切りは間近で見てきた。ありゃあ、自分の銭の使い道を知ってる人間の目だぜ。毒だの恋路だのって目じゃねえ」
無口なカイまでが、火の向こうで小さく頷いたのが癪だった。
6日目の夕方、山道に入った。
ヴェルデンへ抜ける峠の手前で、彼女が初めて自分から馬車を止めさせた。
「レンツ。鳥が、戻りませんわね」
「……は?」
「半刻前に谷の右の斜面から飛び立った群れが、まだ戻っていません。それから、風に松脂の煙が混じっていますわ。猟師の焚き火は朝に焚いて夕に消すもの。夕方に焚き始める火は、夜をここで過ごす人間のものでしょう」
言われて風のにおいを嗅いだ。分からない。俺の鼻には湿った落ち葉のにおいしかしない。それでも爺さんが手綱を握り直したのは見えた。年寄りの勘は彼女に賛成らしい。
「予定の野営地は使いません。半里戻って、岩場を背にしなさい。火は小さく、馬は繋いだまま」
護衛のドルフがあからさまに面倒くさそうな顔をした。罪人の指図で半里戻るのか、という顔だ。俺は一瞬迷って——結局、彼女の言うとおりにさせた。理由は説明できない。橋の一件が頭にあったからかもしれない。
そして夜半、奴らは来た。
岩場の陰で火を絞っていなければ、こっちの位置はもっと早く知れていただろう。闇の中で枝を踏む音がして、カイが口笛を短く吹いて、それからは音の塊だった。影が3つ。狙いは馬と荷だったらしく、雄叫びも何もない、静かで手慣れた夜盗のやり口。
俺は2人目を斬った。重さで分かる。骨まで届いた。叙任から2年、賊の討伐には出たことがある。だが人を斬るのはこれが最初で、その実感は妙に遅れてやってきた。来たときには、3人目が転がっていた。ドルフが棍棒で殴り倒したのだ。若い。多分、俺より年下だ。手にした山刀はとっくに落として、地べたを後ずさりながら、命乞いの言葉にもならない声を漏らしている。
「殺しなさい」
背後から、声がした。
振り向くと、彼女が箱馬車の踏み板の上に立っていた。夜目にも白い顔は、走ってきた俺たちの誰よりも落ち着いている。
「逃がすと、二度来ます」
蹄鉄を4本に、と命じたのと同じ、事務の声だった。
俺は剣を握り直した。切っ先を少年の喉元へ向けて——そこで止まった。
投降した者を殺すのは騎士の作法にない。武器を捨てた相手を突くために、俺は剣を授かったんじゃない。頭の中で誰かがそう唱えていて、それが教本の文言の棒読みだということにも半分気づいていた。
切っ先が下がる。少年は四つん這いで闇に消えた。
彼女は何も言わなかった。踏み板を降りて、転がっている2つの死体をしばらく見下ろし、それから爺さんに馬の無事を確かめさせた。俺を責める言葉はひとつもない。それが妙に、皮膚の内側に残った。
死体を検めたのも彼女だった。手袋のまま懐を探り、山刀の刃こぼれを月にかざし、靴底の減り方を見る。
「足元は擦り切れた革靴、得物は鉈の打ち直し。流れの夜盗ではなく、食い詰めた土地の者ですわ。懐に銅貨が3枚。……飢えて、出てきたばかり」
「分かるんですか、そんなことまで」
「飢えてから日の浅い賊は、まだ手際が荒くて、まだ命が惜しいの」彼女は立ち上がって、汚れた手袋の指先を見た。「日が経つと、逆になりますわ」
埋めなさい、と彼女は言った。賊をか、と訊き返す。ええ、浅くてよろしいから、と。理由は言わなかった。ドルフとカイがぶつぶつ言いながら土を掘った。
賊に墓たぁ騎士様のとこの作法かい、とドルフがぼやくので、俺の指図じゃないと答えた。彼女は理由を言わない。ただ——骸を道端に転がしたまま発てば、戻ってきた仲間に「ここで死んだ」と教える立て札になる。掘りながらカイがぼそりと言ったのが、たぶん一番近いのだろう。無口な男ほど、勘定が合っている。
二晩後。峠まであと半日という最後の野営で、奴らはもう一度来た。
今度は3人じゃない。十幾つの影が月のない闇の三方から湧いた。最初の矢が幌を貫いた瞬間、彼女の声が飛んだ。
「荷馬車を1台、切り離しなさい! 麦を2袋落として、馬車ごと置いて引きなさい! 人は全員、岩場へ!」
「荷を——」
「荷は買い直せます。さっさとなさい!」
ドルフが車軸の鎖を叩き落とし、俺たちは岩場へ走った。賊どもは置き去りの荷馬車に群がる。読みどおりだ。読みどおりにいくはずだった。
弦の音がした。
遅れていたマルテン爺さんが声もなく崩れた。
最初、何が起きたのか分からなかった。爺さんがつまずいたのだと思ったのだ。駆け寄って抱え起こした。脇腹に立った矢羽根を見て、それでもまだ、どこかで違うと思っていた。さっきまで手綱を握っていた手だ。蹄鉄を4本にしておけと言われて、へいへいと頷いていた爺さんだ。
息がひとつ、長く漏れて、それきりだった。
賊は麦2袋と馬車1台で引いた。こっちの損害は御者が1人。
夜が明けてから、俺たちは街道脇の楢の根元に爺さんを埋めた。
土を掛ける段になって、若い御者が泣いた。爺さんとは親子ほども歳の離れた、相棒というより弟子だったらしい。ドルフが黙って肩を叩き、カイが帽子を脱いだ。俺は祈りの文句を口にしながら、自分の声が他人のもののように遠いのを聞いていた。蹄鉄は4本、ちゃんと替えてある。馬は一頭も転ばなかった。転ばないように手を打った当の本人がいま土の下にいる。
彼女は埋葬のあいだ一度も口を開かず、十歩離れた場所に立っていた。祈らず、泣かず。目は盛り土ではなく、爺さんが最後に倒れていた街道の方を向いていたと思う。埋め終わると若い御者を呼んで、爺さんの未払いの賃金と弔いの金を遺族へ届ける手配を指示した。妻はいるのか、子は何人か、住まいはどこか。若いのが洟を啜りながら答えるのを全部帳面に書き取って、金額まで自分で決めて、手回り品の中から宝石をひとつ持たせた。
「多すぎまさ、こんな」
「御者をもう1人、王都で雇い直す予定でした。その分が浮きましたの」
嘘の下手な計算だった。浮いた金で人の死は買い戻せない。それでも若いのは、それで少しだけ背筋が戻った。施しなら受け取れなくても、勘定なら受け取れる。そういう渡し方を選んだのだとしたら——いや、考えるのはよそう。あの人の中身を推し量るのは、この道中でもう懲りた。
それから、俺のところへ来た。
「あなたを責めはしませんわ。荷を囮にすると決めたのは私で、殿の足の遅れを数に入れなかったのも私。今夜の分は、私の見積もりの甘さです」
「……あの晩の賊と、同じ連中でした」
逃げた少年がそこにいた。岩場から見えたのだ。荷馬車に群がる影の中で、あいつだけが荷ではなくこちらを指差して、何かを仲間に伝えていた。こちらの人数を。得物を。あの晩、闇に消える前に数えていったものを全部。
「ええ」と彼女は言った。「ですから、覚えておきなさい」
声は変わらない。麦と塩の声のままだ。
「次は、あなたの躊躇が人を殺します」
俺は何も返せなかった。騎士の作法は教本のどの頁にもあるのに、楢の根元の盛り土に返す言葉はどの頁にもない。
馬車が動き出してから気づいた——彼女はあの晩、俺に「殺しなさい」と一度しか言わなかったのだ。二度目を言う代わりに、結果を俺に見せた。それが教え方というものなら、ずいぶん高くつく授業だ。月謝を払ったのは俺じゃなく、爺さんだったが。
剣の柄に手を置いて、考える。この剣は正しいもののために抜くと誓った。困っている者のため、弱い者のため。だからあの少年に振り下ろせなかったことを、間違いとは思いたくない。思いたくないが間違いでないなら、爺さんはなぜ楢の下にいる。
ひとつだけ、はっきりしていることがある。
俺の剣は王国のものだ。騎士の誓いのものだ。少なくともあの人のものじゃない。あの人のために、俺がこの剣を抜く日は来ない。
来ないはずだ。
昼過ぎに峠を越えた。眼下に、ヴェルデンの谷が開けた。
灰色の山肌に挟まれた、細長い谷。川が一本、屋根の群れが三つ、四つ。一見、どこにでもある山あいの領地だ。隣で若い御者が手庇を作って、それから怪訝な声を出した。
「……煙が、ねえな」
夕餉の刻限だった。あれだけの屋根があって、立ちのぼる炊事の煙が、数えるほどしかない。
煮炊きをしない村というものを、俺はこのとき初めて見た。




