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うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


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第0話「全部やりましたわ」

罪状の朗読は四枚目の羊皮紙に入っていた。


王宮の大広間。公爵令嬢ディートリンデ・フォン・アルテンブルクを裁く査問の場で、俺は警備の末席に立っている。末席というのは謙遜じゃない。正面扉の脇、来賓の外套が並ぶ衣紋掛けの隣だ。式典槍を持って動くな、というのが命令のすべてで、つまり俺の役目は衣紋掛けとだいたい同じである。


レンツ・カルステン、19歳。叙任から2年の騎士。家格の低い騎士家の三男ともなれば、王宮警備で回ってくる持ち場は決まってこのあたりだった。


「——同年、収穫祭の夜会において、男爵令嬢イレーネ嬢の杯に毒を盛り——」


文官の声が続いている。中庭の階段からの突き落とし。仕立屋への圧力。男爵家の荷馬車の差し止め。偽の恋文。窃盗の濡れ衣。婚約者であるルーペルト王子に近づいた男爵令嬢を、ありとあらゆる手で潰そうとした、という筋書きだ。兵舎でもさんざん噂になっていた話で、目新しいものはひとつもない。


目新しいのはそれを聞かされている本人の立ち姿のほうだった。


壇の下、磨かれた大理石の床にたった一人。藍色の旅装に近い簡素なドレス。背筋は垂直。前で組んだ手は手袋の上から見ても揺れていない。朗読が始まって三時間になるのに、彼女は一度も姿勢を崩していない。足を動かした気配すらない。


大広間には貴族が300人は詰めている。香油と汗のにおいが扇で掻き回されて、熱気は見世物小屋の天幕の中みたいだ。それなのに床の冷えだけは別で、軍靴の底からじわじわ膝へ這い上がってくる。立ちっぱなしの俺が言うのだから間違いない。あの細い靴であの床に三時間というのは、判決の前にもう刑が始まっているようなものだと思う。


壇のすぐ下、原告側の席にはイレーネ嬢本人もいる。栗色の髪の、噂どおり可憐な人だ。ただその人は朗読のあいだじゅう膝の上のハンカチを握ったり広げたりしていて、罪状がひとつ読まれるたび、被告ではなく壇上の王子のほうを窺っていた。怯えているのか、確かめているのか。末席からでは分からない。分からないことは、この大広間に多すぎる。


朗読がようやく終わって、証人の番になった。


最初の数人は型通りだった。夜会で倒れたイレーネ嬢を介抱した侍医。差し止められた荷馬車の御者頭。調書を読み上げられ、相違ないかと問われ、相違ないと答えて下がっていく。


四人目が小間使いの娘だった。


十五かそこらだろう。証言台の縁を両手で掴んで肩で息をしている。アルテンブルク家で被告の身の回りに就いていた娘だと、文官が経歴を読み上げた。


「では問う。夜会の前日、毒物を商人から受け取り、被告に渡したのはお前だな。お前は脅されて従った。相違ないか」


「わ……わたし、は……」


娘の目が泳ぐ。調書と違うことを言えば偽証の罪。調書どおりに言えば、育ててもらった主を売ることになる。どっちへ転んでも娘の足元は崖だ。末席の俺にも分かる。分かった上で、壇上の誰も止めない。むしろ娘が泣き崩れるのを、300の扇が息を詰めて待っている。


止めたのは被告だった。


「その娘を、下がらせて差し上げなさい」


三時間黙り通した人間の声とは思えない、大広間の隅まで通る声だった。ざわめきが布を裂くみたいに止む。


文官が眼鏡を押さえる。「ひ、被告の発言は許可されて——」


「時間の無駄ですもの」


彼女はそこで初めて顔を上げて、壇上を見た。


「ええ、全部やりましたわ」


一瞬、何を言われたのか分からなかった。


聞き間違いだろうと思った。否認するんじゃないのか。あるいは泣き崩れて命乞いか。この場の300人が賭けていたのはその二択のはずで、俺もぼんやり後者に張っていた。それが——全認。釈明なし。涙なし。声の高さすら、麦の値段でも言うように変わらない。


大広間が今度こそ爆ぜた。扇の陰の囁きが波になって壁際まで届く。壇上でルーペルト王子が身を乗り出した。


「……罪を、認めるのだな。ディートリンデ。悔いる言葉のひとつもないのか」


「事実の確認は、もう終わりまして?」


王子の頬に血が上るのが遠目にも分かった。欲しかったのはこれじゃないんだろう。泣いて許しを乞う元婚約者と、それを正義の顔で見下ろす王子様。その絵姿のために組まれた舞台の上で、主役のひとりが台本を畳んで帰ろうとしている。


「下がらせなさい」と誰かが言う前に、小間使いの娘は係の者に支えられて証言台を降りた。降りる瞬間、娘が一度だけ被告を振り返って、何か言いかけて、言えずに口を閉じたのを俺は見ていた。


判決はそれから四半刻もかからなかった。


「——よって王命により、被告ディートリンデ・フォン・アルテンブルクを辺境ヴェルデン領の代官に任ずる。即日王都を発ち、任地に赴き、領の経営をもって罪を償うべし」


処刑じゃない。流刑でもない。代官任命、という聞き慣れない沙汰に、大広間の空気が一拍遅れて緩んだ。温情だ、王家は寛大だ、という声。だがその下で、別の囁きが床を這う。衣紋掛けの隣というのは、外套を取りに来る連中の独り言がよく聞こえる持ち場なんだ。


「ヴェルデンだぞ。三年続けて麦の枯れた谷だ」


「飢えた領地に、内政など齧ったこともない小娘か。冬までもつまいよ。手を汚さずに済むわけだ」


「それより、当主の娘が罪人となれば、アルテンブルクの鉱山は王家が預かることになるな。あの山ひとつで南方の戦費が——」


最後のは白髪の侯爵が外套を肩に掛けながら連れに落とした声だった。鉱山。政治に疎い三男坊の俺にも、それが断罪の筋書きよりよほど生臭い話だということくらいは分かる。分かったところで、衣紋掛けにできることは何もない。


その晩、兵舎へ戻る前に隊長に呼ばれた。


「カルステン。明朝発のヴェルデン護送、お前が就け」


「……自分が、ですか」


「お前は独り身で、三男で、いなくなっても式典警備に穴が開かん」


ひどい言われようだが、ひとつ残らず事実なので言い返す場所がない。隊長は辞令の写しを机越しに寄越した。護送の項の下にもう一行ある。


『護送ののち当地に留まり、護衛、ならびに王都への月次報告の任に当たるべし』


護衛で報告役。要するに見張りだ。流された令嬢が任地で何をしているか、毎月書いて王都へ送る係。貧乏くじの柄に、もう一本細い貧乏くじが結わえてあった。


「自分は、いつ王都へ戻れますか」


「追って沙汰がある」


沙汰なんて来ないんだろうな、というのは隊長の目尻に書いてあった。


兵舎に戻ると、同部屋の連中が送別の安酒を奢ってくれた。同情半分、安堵半分の顔ぶれだ。


「ヴェルデンって、どこだ」


「南の山あいだ。昔は街道の宿場で食ってたらしいが、塩の専売が王家に締められてからは素通りされる谷さ。そこへ三年の不作だろう。親父の代の戦友がいたが、去年の冬に村ごと出てきたと聞いた」


「つまり何もないってことか」


「何もないなら、まだいい」年かさの槍兵が杯を置いた。「飢えた土地には、飢えた人間がいる。物がないところで人だけ残ると、どうなると思う」


誰も答えなかったし、誰も代わるとは言わなかった。当然だ。俺だって言わない。


安酒の杯がもう一巡して、誰かが景気づけに俺の背中を叩いた。叩いた手がそのまま少し申し訳なさそうに離れていく。隣の寝台のヨルクは、使い込んだ砥石と油布を黙って寄越した。餞別と呼ぶには辛気くさいが、行く先を思えば、これほど実のある餞別もない。


翌朝、夜明け前の中庭で、初めて間近にあの人を見た。


中庭は吐く息の見えるほど冷え込んで、馬柵の方から蹄の音と、御者たちの低い遣り取りが流れてくる。篝がふたつ、荷積みの手元だけを照らしていた。


旅装に着替えた彼女は、査問の場で見たより小さかった。当たり前だ。17の娘なんだから。護送指揮として名乗りを上げた。彼女は俺の顔を——というより、腰の剣と、その後ろに並んだ荷馬車を順番に見ていく。


「レンツ・カルステン。あなたが報告役ですのね」


「……護衛です」


「両方でしょう。どちらでも構いませんわ。書くことは、ありのままに書きなさい」


ありのままに。監視される側が監視役に言う台詞じゃない。返す言葉を探しているうちに、彼女は荷馬車へ歩み寄って、積んである麦袋のひとつを手袋の上から押した。指の沈み方で中身を確かめる、商人みたいな手つきで。


「ヴェルデンまで、何日ですの」


「街道が乾いていれば、10日かと」


「では麦をあと3袋、塩を1箱、積み増しなさい。費用は私の手回り品から出します。出立は半刻遅れて構いませんわ」


「……護送の糧食は、規定の量を積んであります」


「私たちが食べる分の話はしておりませんの」


それだけ言って、彼女は次の馬車の幌をめくった。車軸を覗き、御者のマルテン爺さんに替えの蹄鉄の数を訊く。爺さんが指を2本立てると、4本にしておきなさい、と返す。山道で馬が転べば積み荷ごと失いますわ、と。流刑される側の人間が、護送隊の点呼みたいなことをしている。マルテン爺さんが俺を見て、眉だけで笑った。妙なお姫さんだ、という顔で。


命乞いひとつしなかった女の、流刑地へ向かう朝の最初の指示が麦と塩と蹄鉄。何か言いかけて、やめて、俺は倉庫係を叩き起こしに走った。走りながら、ゆうべの安酒がまだ頭の後ろで揺れているのを感じていた。


倉庫係は寝ぼけ眼で出てきて、俺の顔と辞令の写しを三度も見比べてから、ようやく錠を開けた。麦袋というのは1袋で式典槍よりよほどの目方がある。担いで荷台へ上げるたび、霜の降りた踏み板が軋んだ。彼女は積むそばから袋を手袋で押して回り、塩の箱は封を検めて、角の湿った1箱を突き返す。倉庫係が値を言う前に、銀貨が数えて渡された。1枚多かったらしく、係が口ごもると、「朝の手間賃ですわ」とだけ返ってくる。流刑へ発つ罪人が、夜明け前の倉庫係に手間賃を払う。どこから驚けばいいのか、俺にはもう分からなかった。


積み増しを終えた荷馬車が2台、彼女の乗る古い箱馬車が1台。見送りはひとりも来なかった。公爵家の人間も昨日まで彼女に頭を下げていたはずの連中も誰も。門をくぐるとき、彼女が一度だけ振り返るかと思って見ていた。だが幌の奥の横顔は前を向いたまま、膝の上には早くもヴェルデン領の古い地図が広げられていた。朝の冷気に、インクと羊皮紙のにおいがかすかに混じる。


あとになって思えば、だ。


あの査問の場で「全部やりましたわ」の一言が落ちた瞬間、崖っぷちに立たされていた小間使いの娘は用済みになって、解放された。偽証もせず、主も売らずに済んだ。あの一言がなければ、娘はどちらかの罪を背負って残りの人生を歩いたはずだ。


あれを慈悲と呼ぶのかどうかこのときの俺にはまだ分からない。


分かっていたのは、ヴェルデンが三年続けて麦の枯れた土地だということ。飢えた土地には飢えた人間がいる、という年かさの槍兵の言葉。それから、半刻後にそこへ向けて発つ、ということだけだった。


街道はまだ暗い。10日の道のりの、これが1日目になる。

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