第9話「俺の剣は誰のものか」
処刑から7日経って、谷に塩売りが来た。
何でもないことのように聞こえるなら、それはこの谷を知らないからだ。ブレヒトに言わせると、行商人がヴェルデンに足を向けるのは、実にふた冬ぶりだという。売る相手のいない谷に商人は来ない。来る途中で身ぐるみ剝がれる街道なら、なおさらだ。
塩売りは北の辻の楡の下で足を止めて、しばらく枝を見上げていたらしい。縄はもうない。それでも何があったかは峠の向こうまで歩いて伝わっている。賊の群れがひと晩で消えて、頭目は楡に吊られた、と。噂は商人の足より速く、商人は噂の検分に足を運ぶ。塩はその口実半分だったのかもしれない。
「おかげさんで、久しぶりに山越えの間、夜にぐっすり眠れましたよ」
塩売りは広場でそう言って笑った。荷の塩は彼女が相場で買い上げて、次は針と糸と鍋を持ってくるといい、と注文までつける。塩の升を量るあいだ、広場には人だかりができていた。買えもしないのに、量り売りの手元を見ているだけの連中だ。物が動くところを見るのは、ふた冬ぶりなのだという。升からこぼれた塩を、子どもがひと粒まで指で拾って舐めて、母親に小突かれていた。商人は手帳に書き付けて、ほくほくと帰っていった。春にはあれが2人になり、3人になる。彼女の言っていた「襲う値打ちのある土地」は、商人にとっては「商う値打ちのある土地」と同じ意味だった。
あの晩の縄が谷の外から人を連れてくる。そういう算盤を、俺は今まで知らずに生きてきた。
ヴェンツェルの組は、溝の拡張に回されていた。
7日前まで賊だった6人が、鶴嘴を振るって村の守りを掘っている。村の連中は最初、道具を貸すのも嫌がった。それが今では休憩のときに同じ火で手を炙るくらいにはなっている。早かったのはヴェンツェルの仕切りのせいだ。男は組の連中に命じていた。村人と口を利くな、目を合わせるな。ただ黙って人の倍働け、と。口で信用を買おうとするな、汗は嘘をつかねえ、と。
実際、組の連中の掘る溝は、村の男たちのより目に見えて深くて速かった。張り合う気が村の側に湧いて、休憩のたびに、溝の深さを巡るくだらない自慢が始まる。憎まれていた連中が張り合う相手に格上げされるまで7日。彼女はその7日も、たぶん最初から勘定に入れていた。
「賊の頭をやるより、性に合ってるか」と、見回りのついでに訊いたことがある。
ヴェンツェルは鶴嘴を止めずに答えた。
「賊の頭なんてのはな、騎士様、群れがでかくなるか、飢えるかしたら、必ず後ろから刺される稼業だ。ここの主は、俺が規則を守る限り、後ろから刺さねえ。破ったら正面から吊るす。……どっちから来るか分かってるってのは、夜眠れるってことなんだぜ」
夜眠れる、はこの谷の流行り言葉になりつつあった。塩売りも同じことを言っていた。
教会には報告の前の晩に寄った。
ヨーゼフ司祭は病人のいなくなった藁の寝床を畳んでいた。火のそばの兄妹を最後に、寝たきりはみんな自分の家に帰ったのだ。教会が空になるのはめでたいことです、と司祭は言って、それから声を落とした。
「騎士殿。わしは、あの朝から祈りの言葉がうまく出ません」
「……楡の、ですか」
「5人に祈りました。祈りながら、考えてしもうた。この5人が生きて帰れば、次の冬、わしはもっと多くの弔いをすることになる、と」老人は畳んだ藁を、強く縛った。「そう考えた時点で、わしの祈りはもう、あのお方の帳簿と同じ算術をしておる。神に仕える身が、です。……あのお方は、谷を生かしながら、わしの祈りの形を変えていきよる。それが救いなのか、罠なのか、わしには」
司祭は最後まで言わずに首を振った。俺は慰めの言葉を持っていなかった。持っていたら、自分に使っている。
夜、傭兵の詰所で、ハイラムと薄い麦酒を飲んだ。
配給扱いの、酒と呼ぶのが申し訳ないような代物だが、火のそばで飲めば一応それらしい味になる。ハイラムは戦のあった晩からずっと、何かを腹に溜めている顔をしていて、その晩ようやくそれを出した。
「騎士様。あんた、あの夜の布陣、どう見た」
「……どう、とは。勝った布陣だろう」
「そういうことじゃねえ」傭兵は杯を置いた。「歩哨の間隔よ。声の届く距離で、互いの持ち場の継ぎ目が重なるように立ててあった。火矢の合図はひとつじゃなく、三つ。攻め用、退き用、火壁用だ。退き口は二本、勝ってる時用と負けてる時用。極めつけは、戦のあとよ。あの人、何をしたか覚えてるかい」
「……手当ての順を、決めた」
「その前だ。教会の閂を開ける前に、中の声を確かめさせた。中に賊が紛れてる場合を潰したのさ。それから人数。92が97になるのを数えてから、次に動いた」
ハイラムは指を折りながら並べて、折り終わった手で酒を呷った。
「いいか、騎士様。ひとつひとつは、知恵の回る奴なら思いつく。だがな、全部を、あの順番で、夜中に、声ひとつ荒らげずにやるってのは——ありゃ、染みついてる人間の手際だ。何十回も夜襲を食って、何十回も生き残った人間の体に、染みついてるやつ」
火が爆ぜた。
「俺は20年、いろんな指揮官の下で戦った。貴族の坊ちゃんの初陣も、歴戦の古狐も見てきた。だからこそ言うがな」傭兵の声が、一段落ちた。「ありゃ、貴族の小娘の指揮じゃねえ。あれは軍隊の……それも、負け戦ばっかりの軍隊の指揮だ。どこの戦場で覚えたんだ、ってのを、俺は雇われてからずっと考えてる。考えて、答えが出ねえ」
「……十七だぞ、あの人は」
「ああ。十七だ」ハイラムは頷いた。「だから、気味が悪いって話をしてるのよ」
俺は杯の底の濁りを見ながら、自分の溜めてきたものを数えた。
橋が落ちていることを、修繕費の帳面から言い当てた。賊の数を、斥候の質問の数から割り出した。病人の額に手の甲を当てる、あの淀みのない手順。倒れる男を、倒れる4日前に座らせる目。そして、黒タグ。司祭も知らない、どこの国の言葉でもない言葉。
ひとつひとつは聡い、で済む。聡い令嬢は王都にもいるだろう。だが全部を束ねると、別の形が浮かんでくる。飢えと戦と、死体の数を、帳面が擦り切れるまで数えてきた誰かの形が。その形はどう撫でつけても、十七年では足りない。
あの目は十七歳の目じゃない。
思ってしまってから、慌てて打ち消した。打ち消して、打ち消しきれずに、麦酒と一緒に飲み込んだ。
月が変わって、二度目の報告を書く晩が来た。
机の上に、紙と、封蝋とひと月分の出来事。ペンを持ってから、最初の一行まで長くかかった。
書くべきことは決まっている。賊の襲来。防戦。死者22。捕虜14。うち5名を翌朝処刑、6名を雇用。2名を放逐、1名を頭格として登用。代官は処刑に際し、王都の裁可を仰いでいない。
仰いでいない。その一語の重さを、俺はこの晩まで本気で量ったことがなかった。
辺境の代官に、賊をその場で討つ権はある。だが捕えた者を裁いて吊るすのは、本来、王の法と王の裁きの領分だ。少なくとも王都の法服どもがその気になれば、そういう理屈は立つ。立てた理屈の先に何があるかは考えるまでもない。彼女を流したのと同じ連中が、彼女の終わらせ方を探している。俺の月次報告はその連中の机に届く。
つまり、この紙は剣だ。
書きようひとつで彼女の首に届く剣。俺は王都から、剣をもう一本持たされて、この谷に来ていた。腰の一本は彼女を守るための剣で、机の上の一本は彼女を刺すための剣だ。両方を、同じ手で握れという辞令だった。
ぼかして書くことはできる。処刑を「賊の処分」と書き、数を曖昧にし、裁可の一語に触れない。読み流される報告にすることは、多分、できる。
ペンを置いて、目を閉じて、楡の木を思い出した。
名を訊かれて、名乗った男たち。コルツ。イェノ、17。それを一字も漏らさず帳面につけた人。死んだ賊の守り袋と女物の櫛と、乳歯の小箱まで検めて、名前の代わりを書き留めた人。殺した数を忘れる人間は、いずれ数えずに殺すようになりますの——。
あの人は自分のやったことを、一度も誤魔化していない。
誤魔化すとしたら、俺の方だ。
俺はありのままに書いた。処刑も裁可のないことも、それから——それだけを書くのは嘘になる気がして、続きも書いた。賊の襲来時、領民の死者なし。処刑の後、街道に行商が戻ったこと。配給は一日も欠けていないこと。着任からこのかた、この谷で飢えて死んだ者は炭焼きのアルノを最後に、一人も出ていないこと。
事実だけを並べた紙は、読みようによって告発状にも弁明書にもなる。どちらに読むかは、王都の机の上の話だ。俺の机の上ではこれはただの、ありのままだった。
封をしに行くと、彼女はまだ執務室にいた。
「報告を出します。……処刑のことも、裁可のないことも、書きました」
「結構ですわ」
帳面から、顔も上げない。それがいつものことで、いつものことのはずなのに、その晩の俺はなぜか一歩踏み込んだ。
「あなたの首を絞めるかもしれない紙ですよ」
「ええ」ペンの音は、止まらない。「ですから、正確に書いてくださいまし。歪んだ証言がいちばん高くつきますの。——あなたの報告書も、私の帳簿と同じですわ、レンツ。数えたものだけが、いつか誰かを守りますのよ」
誰を守るんですか、と訊きかけて、やめた。訊いても麦と塩の声で、はぐらかされるに決まっている。
自室に戻って、寝台に剣を立てかけて、長いこと眺めた。
騎士に叙された日、俺はこの剣を王と正義のために抜くと誓った。あの峠の楢の下では、この剣を彼女のために抜く日は来ない、と思った。その考えは変わっていない。変わっていないはずだ。だが、王都へ向かう封筒の中の剣と寝台のこの剣が同じ主のものだと言い張るのが、月を追うごとに難しくなっていく。
俺の剣は誰のものか。
王のものだと答えた騎士は、楢の下に御者を埋めた。騎士道のものだと答えた騎士は、楡の下で目を伏せた。答えはまだ、どちらの木の下にもない。
確かなことがひとつだけある。あの人が誰かを「数に入れる」とき、その数から漏れた者を、俺はこの谷でまだ一人も見ていない。そして俺自身が今、どちらの帳面に載っているのか——守る側の頁か、見張る側の頁か——それを確かめるのが怖いということだ。
翌朝の配給で、俺は妙なものを見た。
列のいちばん後ろ、ゲルダ婆さんのさらに後ろに、見慣れない一家が並んでいた。土埃にまみれた母親と子どもが3人。背負い袋の括り方が、夜逃げのそれだった。峠向こうの谷の者だと、並びながら小声で答えた。ヴェルデンでは働けば食えるそうだと聞いて——。
子どもの一人が列の前のゲルダ婆さんの肩掛けを物珍しそうに見ていて、婆さんが半歩、場所を詰めてやった。いつかの大男にやったのと同じ半歩だ。
帳面に、まだ名前のない手が、空の椀を差し出している。
鍋の前の彼女が柄杓を持ったまま、その手を見た。




