第10話「選ばれなかった手」
粥の湯気の向こうで、柄杓が止まっていた。
差し出されているのは縁の欠けた木の椀で、持ち主は土埃の染みついた女だ。腰の後ろには子どもが3人、藁束みたいに身を寄せ合っている。峠向こうの谷から、ふた晩かけて歩いてきた一家。帳面のどの頁にも、まだ載っていない名前が4つ。
歩いてきた道のりは姿を見れば分かる。末の子は母親の背に括られ、上のふたりは自分の足で立っていた。靴の代わりに布を何重にも巻いた足。霜焼けで赤くなった耳。子どもらの目は配給の鍋に吸いついたきり動かないのに声ひとつ立てない。騒ぐ力を峠のどこかに置いてきた、そういう静かさだった。
列の連中も黙っていた。黙ったまま、誰もが成り行きを見ている。よその飢えた口が、自分たちの鍋の縁に立っている。ふた月前なら、石くらい飛んだかもしれない。いまは誰も石を投げない。投げない代わりに答えを待っている。鍋の前のあの人が、これをどう数えるのかを。
「お名前は」
「……ベルタと、申します。子は上からヨーン、リナ、末がフリッツで」
「ベルタ。今朝の鍋は、届けのあった頭数で割ってあります。あなたたちの分は、入っておりませんの」
女の肩が落ちた。子どもの誰かの腹が、返事の代わりに鳴る。列のあちこちから目だけが集まって、誰も口を開かない。自分の椀の中身がこれから減るのかどうか。皆、それを量っている。
「ですから今日の分は、私の椀から出しますわ」
柄杓が動いた。子ども3人に半杯ずつ、母親には鍋肌を浚った残り。注ぎ終えると、彼女は自分の椀を伏せて鍋の脇に置いた。慈悲は資源だと言う人の、あれが使い方なのだろう。余りがなければ、自分の取り分から出す。他人の椀には指一本触れずに。
「食べ終わったら、戸口の机で名前を届けなさい。それから、7日のあいだ寝起きは村はずれの検めの小屋ですわ。火と配給は届けさせます」
「け、検め……?」
「流民の入る谷には、熱病も一緒に入りますの。7日経って誰も熱を出さなければ、村の中へ。——流民を検めずに入れた谷を、ひとつ知っています。春には、村の名前しか残りませんでしたわ」
どこの谷の話かは誰も訊かない。訊いても答えない言い方だと、この村はもう知っている。
記帳の机では司祭の手伝いの少年が炭片を構えた。記帳の仕事をもらってからこちら、皆にパウルと名前で呼ばれるようになった子だ。頭数と歳、元の村、働ける者の数。母親は問いのひとつひとつに躓きながら答えて、いちばん深く躓いたのは、頭数のところだった。
「5人——いえ。……4人、です」
炭片が止まる。母親は空になった椀を見たまま、平らな声で続ける。連れ合いの父が一緒だった。峠の手前で足が利かなくなり、ひと晩待ったが雪雲が出た。行け、と言ったのだという。子どもらの足なら、まだ間に合うから、と。
「……じいさまの名前は」とパウルが小声で訊いた。「書いた方が、いいですか」
「書けません」
彼女だった。いつの間にか机の脇に立って、帳面を覗き込んでいる。
「この帳面に載るのは、この谷で生きる者と、この谷で死ぬ者だけ。峠の向こうは、私の帳面の外ですわ」
母親が顔を上げた。唇が動いて、言葉にならない。彼女はパウルに続けた。
「ただし、ベルタの頁の隅にこう書き添えなさい。『父を峠に残し、子を3人連れて入った』。それがこの一家の、ここでの最初の記録です。——背負ってきたものごと、書いておきなさい」
母親は泣かなかった。泣くだけの水気が、もう体に残っていなかったのだと思う。代わりに深く頭を下げて、その頭は、しばらく上がらなかった。
ザルテンの市の隅をふと思い出した。働ける者は何人かと問い返されて、ぽかんとしていた物乞いの母親。来るなら冬の前になさい——あの言葉が施しの銅貨より重いのか軽いのか、あのとき俺には量れなかった。答えはこうして歩いてくる。峠を越えて、子どもの手を引いて。
検めの小屋は村はずれの炭小屋を急ごしらえで直したものだった。
火床がひとつ、藁の寝床、水瓶。配給は俺かパウルが朝晩に運ぶ。初日の夕方に手桶を提げて行くと、ベルタは小屋の前に吹き溜まった枯れ葉を、借り物の箒で掃いていた。誰に言われたわけでもない。掃かずにいられない性分の手というものが世の中にはある。
「あの……騎士様。仕事の届けは、いつから出せるんでしょうか」
「8日目からだ。熱が出なければ」
「7日も、ただ食べるんですか」女の眉が曇った。施しを受ける側の顔だった。「働かせてください。縄でも繕い物でも、この小屋の中でできることなら」
結局、翌日からほどき糸の籠が小屋に届けられることになった。検めの小屋の中で編まれた靴下は、戸口の外の籠に置かれ、パウルが数えて帳面につける。隔ての規則は破らずに、働きの方だけが垣根を越えていく。そういう抜け道が、届けを出したその日のうちに整った。帳面が勝手にそう動いた、という顔を彼女はしていたがどうだか。
7日目の晩、一家の誰も熱を出さなかった。8日目の朝、ベルタたちは順番の列のいちばん後ろに並び、宛がわれた住まいへ荷を運んだ。トゥーレ家の空き家だった。秋に老夫婦が相次いで死んで、帳面の左側へ移った家だ。戸口の框を直し、煙出しの煤を払う。その晩、あの家の煙突からふた冬ぶりに煙が立った。死んだ者の家に、生きている者の火が入る。配給の列から煙を見上げていた年寄り連中は、何か言いたげで、結局何も言わなかった。言葉にすると壊れる種類の眺めというものもあるのだと思う。
その週のうちに、さらに3組が杭の前に立った。荷を解かせ、熱を検め、名前を書かせて小屋で7日。8日目の朝に、列のいちばん後ろへ。白い杭は賊には縄の立て札で、流民には門になった。
片耳の欠けたヤンの話を運んできたのは、南から峠を越えてきた荷車屋だった。
水汲み場で馬を休ませながら、男は誰にともなく喋った。南の谷で、領主様の穀物蔵を破った流れ者が吊られた。片耳の欠けた若いのだったと。あの谷の領主様は蔵の中身を誰にも教えんでな、飢えた連中は、あると思って忍び込む。月にひとりは吊られとるよ——。
楡の朝の選別で谷を出る方を選んだ、あの2人の片割れだ。3日分の麦を背負って峠へ送られていった背中を俺は覚えている。
執務室で伝えると、彼女は賊の頁を開いた。手袋の指が名前の列を下りて、ひとつの上で止まる。ヤン。選別の朝に彼女自身が書いた字だ。しばらくそれを見て、彼女は何も書き足さずに帳面を閉じた。
「……書かないんですか」と俺は訊いた。「あなたは、殺した敵も、間に合わなかった病人も数える人だ」
「ヤンは、南の谷の帳面に載りましたわ。あちらの領主の手で、罪状つきでね」紐が結ばれる。「私が数えるのは、私の管理の内で生きる者と死ぬ者。峠の向こうで男が何を選ぶかは、私の領分ではありませんの」
「3日分の麦は、市場まで届く量だと言っていた」
「届いていますわ。もう1人は、ザルテンで荷運びの口を得たそうですから」
同じ朝に同じ量の麦を背負って出て、1人は市場で働き、1人は蔵を破って吊られた。袋の中身は同じだったのに。
「あなたの線は、命を分けますね」
「分けません」彼女は帳面を棚に戻した。「線の内側を保つだけ。外で何が選ばれるかまでは、私の手の届く話ではありませんわ。——手の届かないものを届くように言う者を、何と呼ぶか知っていまして? レンツ」
「……いえ」
「嘘つき、ですわ」
それでも俺はもうひと押しした。あの朝の選別ごと疑う言い方になると分かっていて、訊かずにいられなかった。
「放逐は、失敗でしたか。麦を持たせて放した片割れが、ひと月で縄にかかった」
「いいえ」即答だった。「選ばせたことを、悔やみはしませんわ。選んだ先の責めまでこちらが背負うようになると、人はやがて、選ばせること自体をやめますの。全部を決めてやる方が、楽ですもの。——そうやって全部を決められた者たちがどんな顔で並ぶか、私は見たくありません」
楽ですもの、のところで、彼女の指が帳面の背を軽く撫でた。癖なのか、何かの拍子なのか。撫でられた帳面の中には、選ばせて、選ばせた通りに死んだ男の名前がある。あの人の言う「悔やまない」が、痛まない、と同じ意味なのかどうか。それを確かめる方法を、俺はまだ持っていない。
翌々日の夕方、量り上げで彼女の手が止まった。
配った椀の数を順位ごとに突き合わせていた指が、第4順の欄で戻った。川上のヴィム。木地師あがりの独り住まいで足の悪い年寄りだ。3日続けて椀を取りに来ておらず、代理受け取りの届けもない。
「レンツ。明かりを持って行きなさい。パウルを連れて。——担ぎ手も2人」
川上の小屋は戸を叩いても返事がない。押すと、冷え切った闇の中で囲炉裏の灰だけが白い。寝床のヴィムにはまだ息があった。担ぎ起こした骨と皮の軽さの底で掠れた声が言う。
「……椀を、人に運ばせるようになったら、わしも終いだと思うてな」
その意地ごと、戸板に載せて教会へ運んだ。火のそばで白湯を含ませると、体は震えを思い出したように震え始めた。冷えの抜けていく震えだと産婆が言う。
報せを聞いた彼女は、教会の寝床の脇まで来た。
「終いかどうかを決めるのは、あなたではありませんわ」手袋の指が、ヴィムの節くれた手を指した。「その手はまだ縄を綯える。明日から座り仕事の届けを出しなさい。配給は運ばせます。——意地は、椀より高くつきますのよ」
ヴィムは何か言い返しかけて、咳になって、結局頷いた。
椀の欠けが3つで、夜道に明かりが出た。その晩の話は翌日には尾鰭をつけて谷を回った。気味が悪いと言う者と、ありがたいと言う者の割合は、秋とはもう逆さになっている。粉挽きの女房は水汲み場で、わざわざ俺を捕まえて確かめた。ほんとうかい、騎士様。椀を3日取りに来ないだけで、代官様が人をやったってのは。本当だと答えると、女房は首をすくめて、それから自分の家の方を見た。うちの姑も椀の届けを出しといた方がいいかねえ——。
出しておけ、と俺は答えた。帳面に載った名前のところにだけ、この谷の明かりは届く。
帰り道、俺は雪の気配のする夜気の中で勘定をしていた。ヴィムは数えられていたから、椀の欠けが3つで見つかった。峠の舅は誰の帳面にもいなかったから、雪の下にいる。選ばれるかどうかの前に、まず、数えられているかどうかがある。杭の内側は椀ひとつの欠けでも夜道に明かりが出る。外側は素通しの冬だ。俺はこの谷に来て初めて、物差しの縁に立って、外の暗さを見た気がした。
館に戻ると、彼女は執務室の窓板を細く開けて、北の尾根を見ていた。雪雲の腹が夜目にも分かるほど低い。
「ブレヒトに伝えなさい。明日の朝、墓掘りの4人に新しい仕事を出します」
「……墓を、掘らせるんですか。誰の」
「冬の前に、墓を数えますの」彼女は窓板を閉めた。「死んだ者の分と——これから死ぬ者の分を」




