第11話「冬の前に、墓を数える」
霜の朝、墓地に鍬が4本立った。
雇われの墓掘りたちに出された新しい仕事はふたつ。秋からの浅い土を、凍る前に掘り直して深くすること。それから、誰も死んでいないのに新しい穴を30、先に掘っておくこと。
「……空の墓を、でございますか」ブレヒトの声が裏返った。「だ、代官様、それは、あまりに縁起が」
「縁起で土は柔らかくなりませんわ」彼女は墓地の端から端へ、手袋の指で線を引いた。「ひと月後には、ここの土は鉄になります。鉄に穴を開けるには、焚き火で地面を解かしながら、男が3人がかりで2日。冬のさなかに、その薪とその人手を、死んだ者のために割く余裕はこの谷にありません。——掘るなら、今ですの」
「で、ですが、30とは。そんなに死なせるおつもりで」
「死なせないための算段は、別にやっています。これは、外れたときの算段。備えは、外れる方に合わせて作るものですわ」
墓掘りたちは顔を見合わせて、それでも鍬を入れた。日当は配給の第1順。死人の出る前から墓を用意する村なんて聞いたこともない、と年かさのひとりがぼやいて、隣の若いのが返した。聞いたこともねえが、墓掘りが冬を越せる村も聞いたことがねえ——。
霜の入りかけた土は、上のひと刃ぶんだけ硬く、その下はまだ鍬を受けた。男たちは交代で掘り、掘った土は風下に低く積んで上から藁を被せた。埋め戻しの土まで凍らせない用心だという。これも彼女の指図で、墓掘りたちは半信半疑のまま従った。夜の冷え込みがふた晩続いた後、藁の下の土だけが崩せるのを確かめてからは、文句を言わなくなった。道具の手入れの仕方まで指図する雇い主は、嫌われるか、頼られるかのどちらかだ。この谷では後者に転がる者の方が多い。理由は単純で、指図がいちいち当たるからである。
掘り直しの方は俺も手伝った。
秋からの盛り土は48ある。彼女は帳面を持って畝のあいだを歩き、土のひとつひとつに頁の名前を当てていった。トゥーレ家のヨハン。その妻マルガ。炭焼きのアルノ。村に入った日に風が運んできた、あの甘ったるいにおいの正体たち。深く掘り直して、土を厚く被せ直すと、においは土と霜のものに変わっていく。
ひとつだけ、名前の当たらない土があった。
「『川下の老女、名は追って』」彼女は帳面を読み上げた。「触れを出して、ふた月。銅貨はまだ、誰も取りに来ていませんわね」
そばで枯れ草を払っていた手が止まった。ヴィムだ。座り仕事のはずの年寄りが、墓地の草むしりの届けを出してここにいる。意地の使い道を変えたらしい。
「……川下の、独りの婆さまか」ヴィムは盛り土を見て、長いこと黙った。「エルゼだ。若い時分に、隣の谷から嫁に来た。連れ合いが死んでから、誰とも口を利かんようになったが——わしの女房の、機織り仲間だった。冬の手前にうちの戸を叩いて、糸を貸してくれと言ったのが、わしの覚えてる最後だ。糸はやった。やったきり、訪ねなんだ」
年寄りの声は途中から、盛り土ではなく自分に向かっていた。訪ねなんだ、のところで言葉が切れて、それからは誰も急かさなかった。
「エルゼ」彼女は繰り返して、その場で帳面を開いた。『川下の老女』の行に線が引かれ、隣に名前が書き入れられる。「歳は」
「……生きとれば、74か、5か」
「エルゼ、74。冬の前に、間に合いましたわ」
ペンが仕舞われて、銅貨が1枚、ヴィムの手に握らされた。年寄りはそれを断ろうとして、断りきれず、結局ずっと掌の上に載せて眺めるばかりだ。帳面の最初の頁の、最後の空欄が埋まった。誰も見ていなければ、誰も気づかない勘定の締め方だ。俺は見ていたから、書いておく。
空の墓の列は3日で掘り上がった。
黒い長方形が30、霜の降りた草地に並ぶ眺めは、正直なところ夜の夢に出る類のものだった。村の連中は墓地の前を通るとき、目を逸らす者と、わざわざ立ち止まって数える者に分かれた。数える方の気持ちは俺には少し分かる。あれは脅しではなく、見積もりだ。30で済むと、あの人は踏んでいる。何もしなければ、30では済まないということでもある。
穴の列の前で、配給帰りの子どもがひとり、母親の袖を引いて訊いていた。あれ、だれの? 母親は答えに詰まって、子どもの手を引いて足を速めた。通りかかった彼女が、すれ違いざまに答えていった。
「誰のでもありませんわ。——誰のものにもしないための、穴です」
子どもは分かったような顔で頷いて、母親の方が、しばらくその場から動けないでいた。大人にだけ通じる言い方というものを、あの人は時々、子ども向けの顔で言う。
ヨーゼフ司祭は掘り上がった日の夕方に墓地へ来た。
空の穴を前に、老人はしばらく途方に暮れていた。死者のない墓に上げる祈りなど、聖典のどこにもないという。それでも司祭は結局、穴の列に向かって短い祈りを上げた。どうかこの穴がひとつでも多く、春まで空のままでありますように——。聖典になければ、作ればいい。あの祈りはたぶん、彼女の帳面と同じ棚に並ぶ類のものだ。
「例年の冬、この谷の弔いはいくつです」
夜の執務室で、彼女がブレヒトに訊いていた。村長は指を折って、年寄りと冬の病と産で——10か、せいぜい12と答えた。
「では30掘って、使うのが12なら、上出来ですわ。それを超えた分は——」
彼女はそこで、聞いたことのない言い回しをした。超過死亡。例年より余計に死んだ分、という意味らしいと前後から拾った。黒タグ。超過死亡。あの人の頭の中の棚には、そういう言葉の並んだ一段がある。どこの国の棚なのかは、相変わらず分からない。
「秋からの48は、ほとんどが飢えと、飢えの上に乗った病ですわ。飢えを断てば、冬の死は例年の数字まで戻ります。戻らなければ、それは私の帳面のどこかに穴があるということ」
ブレヒトには半分も通じていない顔だったが、俺には嫌になるほど通じた。あの空の墓は30の弔いの支度であると同時に、彼女が自分に課した上限なのだ。31人目を埋める日が来たら、それは谷の不運ではなく、彼女の計算の負けになる。誰に言われたわけでもないのに、そういう賭け方をする。
越冬の点検は墓と並んで進んだ。
薪は各戸の積みを検めて束の数を帳面に載せ、足りない家には川ざらいの流木を回した。文句は出たが表に書かれた束数の前では長続きしない。
囲炉裏の寄せ合いはもっと揉めた。独り住まいと年寄り世帯は、冬のあいだ近くの家に移って火を共にしろという指図だ。薪の節約には違いないが、他人と冬を越すのは薪より神経が減る。ヴィムは三度断って、四度目に彼女から「では、あなたの薪の割り当てを倍にします。その分、誰かの家が寒くなりますけれど」と言われて、五度目の朝に隣家へ寝床を移した。寒さの貸し借りを目の前に並べられると、人は意地の置き場をなくす。
寄せ合いが済むと、夜回りの景色が変わった。灯りの漏れる窓の数は減って、残った窓のひとつひとつが明るくなった。戸の前を通ると、ひとつの囲炉裏を囲む二家族ぶんの話し声がする。揉める声も半分は混ざっているが、揉め声というのは、凍えた家からは聞こえてこない類の音だ。窓の数を数えて歩くだけで、薪の帳尻と人の生き死にが読める。そういう冬の歩き方を、俺はこの谷で覚えた。
家々のあいだには縄が張られた。吹雪の日に、壁伝いで井戸と隣家へ行けるように。ゲルダの婆さんたちの綯った縄が、村を蜘蛛の巣みたいに繋いでいく。杭を打ちながらテオが、こいつを使う日にゃ鼻の先も見えねえってことですかい、と言う。そういう日のための縄だと答えると、木挽きは黙って、杭をもう一寸深く打ち直した。
塩と蝋燭と薬草は、教会の手伝いの女房ふたりが棚卸しをやらされた。塩漬けの樽の塩加減まで指で検めさせる念の入りようだ。樽がひとつ、塩の回りが浅いと知れて、その魚から先に食う順に回された。腐らせてから気づくのと、腐る前に食ってしまうのとでは、同じ樽でもふた月ぶんの違いになる。帳面というのはつくづく、先回りのための道具なのだった。
仕上げは吹雪の総稽古だった。
風のない晴れた朝に、いきなり鐘が二つ鳴った。賊の合図ではなく、新しく決めた吹雪の合図だ。年寄りと子どもは火の集め先へ、男衆は雪紐を伝って点呼の場所へ。パウルが砂時計を返しながら人数を数え、刻限までに揃わなかった持ち場が、その晩の軍議ならぬ打ち合わせで割り直される。二度目の稽古では、揃うのが半分の時間になった。ハイラムが感心とも呆れともつかない顔で言った。夜襲の稽古をやらせる雇い主は見たことがあるが、吹雪の稽古は初めてだとよ——。賊は来ないかもしれないが吹雪は必ず来る。来るものから順に備える。当たり前のことを当たり前の順でやる領主を、傭兵は20年やって、ほかに知らないのだそうだ。
夜、俺は月次報告の下書きの隅で自分の勘定をした。
着任の日、この谷で秋から死んでいた者、47。あれから増えた死者は、炭焼きのアルノ、1。殺した賊が22に吊るした賊が5。峠へ向かう街道の楢の下にマルテン爺さん。帳面の左側はそれで全部だ。
右側の生者の帳面は1,781。流民が4組と、雇われた賊が7人、新しく加わってまだ増えている。蔵には麦と豆と塩漬けの魚。傭兵が8人。囲炉裏は寄せ合い、墓は30、空のまま。
煮炊きの煙が数えるほどしか立たない谷に降りてきたのはふた月前だ。あの谷といまの谷が同じ場所だということを、数字を並べて初めて、腹の底から信じられる気がした。死んだ者と生きている者を数え終えて、これから死ぬかもしれない数の穴まで掘って、それでこの谷の秋は終わった。
報告の本文には空の墓の件も書いた。書きながら、王都の机でこれがどう読まれるかを考えた。領民の死を先回りして数える冷血、と読む者もいるだろう。冬を見越した周到な備え、と読む者もいるかもしれない。どちらに転ぶかは読む側の腹ひとつで、書く側にできるのは数字を正確にすることだけだ。30。例年の弔いが12。その差の意味を、紙の向こうの連中が正しく量れるとは、正直思っていない。あの数字の冷たさの底にあるものを量るには、この谷の秋を、初めから終わりまで見ている必要がある。
報告の最後の行を書きあぐねていると、窓の外で音が変わった。
風が止んで、世界が綿で包まれたような、あの静けさ。窓板を開けると、闇の中を白いものが斜めに流れていた。
初雪だった。
広場では彼女が松明を持たせて、板に新しい紙を貼らせていた。冬の配給の刻限と量りの取り決め。いちばん下の行には、見なくても分かる名前がある。にかわの刷毛が走るそばから、紙の上に雪が落ちて、染みになって消えた。
俺は外套を引っかけて、広場まで下りた。松明の火の粉と雪が、同じ闇の中で逆向きに流れていく。白い杭の頭にも空の墓の底にも、いまごろ同じ雪が積もり始めているはずだった。数え終えたものの上に、等しく蓋をするように。
「積もりますわね」と彼女は言った。空を見上げた顔に、雪が触れて解ける。
「ここからが、本番ですの」




