第12話「列の最後尾」
雪は3日降って、谷の音を全部変えた。
足音は軋みになり、水車は氷の歯を噛んで止まり、井戸の釣瓶は朝ごとに凍りついた縄を解かすところから一日が始まる。屋根の雪は朝のうちに落とし、雪紐の杭を確かめ、夕方には踏み固めた道がまた埋まる。雪というのは降る物というより、毎日生えてくる仕事なのだということを、王都育ちの俺はこの冬に思い知った。冬の配給はそういう朝の、決まった刻限に始まった。
挽き割りは前の晩のうちに量って俵に分け、上流の枝村へは橇が立つ。ホルバッハと川下へは隔日、枝沢の奥へは婆さんたちの編んだ背負い袋で週に二度。運び手は仕事の届けの第1順で、橇の出と着の刻限まで帳面に載る。雪で半日遅れた橇がひとつあって、運び手が震えながら詫びに来たが、彼女が検めたのは男の落ち度ではなく道の方だった。翌日からその道筋には杭が3本増えた。人を責めても雪は減らない。杭を増やせば、遅れは減る。叱られると思って縮んでいた運び手は、杭の場所を訊かれて、急に背筋が伸びた。
主邑の鍋の前に立つのは、新しい紙の取り決めで量り役だ。ブレヒトの女房と、粉挽きのザンクト、パウル。柄杓の量りは皆の見ている前で検められ、帳面と突き合わされる。彼女はもう、鍋の前にいない。
列のいちばん後ろにいる。
初めてそれを見た朝のことはよく覚えている。
雪まじりの風の日だった。刻限どおりに列ができて、刻限どおりに鍋が出て、それから彼女が館の方から歩いてくる。誰もがいつものように列の先頭の脇へ向かうと思っていた。彼女はそのまま列に沿って歩き、最後尾のゲルダ婆さんのさらに後ろで止まって、前を向いた。外套の肩がみるみる白くなっていく。気づいた者から順に列が静かになった。あの紙のいちばん下の行を、誰もが知ってはいた。知ってはいたが鍋の前で柄杓を握る人と、雪の中で列の尻に立つ人とでは、目に映るものがまるで違う。
最初に気づいたのは、すぐ前のゲルダ婆さんだった。婆さんは振り返って、彼女の頭の天辺から爪先までを一度だけ見て、それから何も言わずに前へ向き直った。あの婆さんが何も言わない、というのが、どれくらい珍しいことか。列の空気がそれで決まった。
最初に動いたのは、列の中ほどの年寄りだった。場所を譲ろうと半歩出て、彼女に見られて、止まった。
「お戻りなさい。あなたの番が、あなたの場所ですわ」
「で、ですが代官様、こんな後ろに……」
「順番は私が決めた法です。法は、作った者から守るものですの」声は風に削られもせずに通った。「私が前に出る日は、この谷の順番が壊れた日。そんな日は、来させません」
年寄りは自分の場所に戻った。戻ってから、前を向いたまま、もう一度だけ振り返る。列の全員が多かれ少なかれ同じことをした。振り返って、確かめて、前を向く。あの朝の列はいつもより静かで、いつもより真っ直ぐだった。
グンナルのやり方は、もう少し不器用だった。
大男は自分の椀を受け取ると、列を離れずに最後尾まで歩いてきて、無言で彼女の前に突き出した。湯気の立つ粥をそっくりそのまま。割り込みで叱られた男なりの、たぶん精一杯の筋の通し方だ。
「あなたの椀ですわ、グンナル」
「……あんたが食うまで、あと小半刻ある。冷える」
「ええ。私の番は、そういう番ですの」彼女は椀を押し返した。「気持ちは帳面につけておきます。中身は、あなたが食べなさい。鎚を振る腕が冷えると、鏃が曲がりますわ」
大男は耳まで赤くして、自分の粥を一息に呷って、鍛冶場へ戻っていった。施しは受けない。働きには払う。その物差しが自分自身にまで通っているのを、列の連中は雪の中で毎朝見せられた。魔女と囁いた粉挽きの女房が、いつからか、配給の板の雪を頼まれもせずに払うようになっていた。
揉め事がなかったわけじゃない。
ある朝、川下の男が椀をふたつ出した。隣の寝たきりの婆さまの分だという。量り役のザンクトが困って彼女を見ると、列の最後尾から答えが飛んだ。
「代理の届けは」
「と、届け? 隣の婆さまの椀を運ぶだけで」
「届けなさい。今日は私が証人になります。明日からは紙で」
男はむっとした顔を隠さなかった。善意で運んでやるのに紙だの届けだのと。聞こえよがしの舌打ちに、彼女は最後尾から動かずに続けた。
「届けのない代理は、椀の消える穴ですの。運び手が雪で転んでも、誰も気づかない。婆さまが床から起きられなくなっていても、誰も気づかない。——川上のヴィムがどうやって見つかったか、聞いていまして?」
男は黙った。椀の欠けが3つで明かりが出た話は、もう谷じゅうが知っている。その日の夕方、男はちゃんと紙を出しに来て、ついでに婆さまの咳が長引いていることまで届けていった。翌朝には産婆が川下へ回された。届けというのは面倒の皮を被った縄なのだ。雪の下で人と人を繋いでおく、あの吹雪の日の縄と同じ。
似た筋の届けはそれから次々に出た。寝込んだ亭主の代わりに女房が並ぶ届け。橇の番で列に立てない男の届け。出産の近い嫁の届けは、産婆の見立ての紙つきで出てきた。帳面の脇に、人の暮らしの形がそのまま積もっていく。パウルは綴じ紐を二度も替えて、綴じながら、嬉しそうだった。字を覚えた者の目には、あの紙の山は、村がまるごと書き写されていく途中に見えるらしい。
月が細くなったころ、量りの狂う朝があった。
上流のホルバッハから来る挽き割りの橇が、夜の雪で道を塞がれて遅れた。鍋はいつもの嵩の七分で炊かれ、そのことは炊く前に板へ貼り出された。今日の鍋は七分、量りも七分、明日の橇で埋め合わせる——例の調子の言い訳のない文面で。
列はいつもより無口だった。量り役のザンクトの柄杓が、貼り紙のとおり、いつもより浅く椀を回っていく。粉挽きは根が几帳面な男で、浅い量りを浅く揃えるのは、満杯を揃えるより神経を使う仕事らしい。列の進みと一緒に、覗き込まれる椀の時間だけが長くなる。文句は出なかった。文句の代わりに、誰もが一度は、列の最後尾へ目をやる。今日の浅さがどこまで律儀に最後尾まで届くのか、確かめる目だった。
最後の椀は彼女の分だった。
鍋肌を浚って、半杯に足りない。彼女はそれを受け取って、いつもの場所で立ったまま飲んだ。湯気がほとんど立たない粥だった。飲み終えて量り役に椀を返し、橇の遅れの始末を指図して、それから何事もなかったように館へ歩いていく。雪を踏む足音は行きと同じ調子だった。
翌日の橇は昼前に着いて、夕の椀は貼り紙のとおり、きっちり三分増しで埋め合わされた。昨日の七分と今日の三分増しで、勘定はちょうど元に戻る。列の中で誰かが指を折ってそれを確かめ、合ってる、と隣に囁くのが聞こえた。書いた数字がその通りになる。その小さなやり取りが何十回も積み重なって、この谷の冬の床板になっていく。床板というのは踏んでいるあいだは誰も思い出さないものだ。
「見たかい、騎士様」
詰所の軒下で、ハイラムが白い息と一緒に言った。
「俺ぁ長いこと傭兵をやってるがな、兵糧が細った日にいちばん薄い椀を呷るお頭ってのは、初めて見る。普通は逆だ。上から食って、下が削れる。それが世の中の出来ってもんで、誰も文句は言わねえ。言わねえが——忘れもしねえのよ、下の連中は」
煙草の先がちりりと鳴った。
「昔、兵糧奉行が上前をはねてる隊にいたことがある。バレやしなかったぜ、帳面の上はな。だが兵の舌ってのは帳面より正直でよ、粥が薄くなった分だけ、夜駆けの足が鈍くなった。負けたよ、その戦は。誰のせいかも分からねえまま、緩んで、崩れて、負けた。——軍隊ってのはな、騎士様、椀の底から腐るんだ」
「……この谷の連中は、何を忘れないんだろうな」
「さあな。だが賭けてもいい。今朝の半杯を見てた連中はな、この先あの人がどんな無茶を言っても、量りだけは疑わねえ」
疑わない、というのがどれほどの元手になるのか、このときの俺はまだ正しく量れていなかった。量れたのはもっと小さいことだ。王都の宮廷で、列のいちばん後ろに立つ貴族を、俺は一人も見たことがない。礼拝堂の席次ひとつで決闘沙汰になる連中だ。あの査問の大広間で、三時間立たされていた藍色の背中を、囲んで嗤っていた連中でもある。あの人たちが今朝の最後尾を見たら、正気を疑うだろう。罰として立たされた場所より、ずっと後ろに、あの人は自分から立っている。正気を疑われるやり方で、この谷は今のところ、誰も飢えていない。
その晩、執務室に呼ばれた。
部屋は火鉢ひとつで、吐く息がうっすら白い。薪はここでも帳面どおりで、執務室の割り当ては病人の部屋より下に置かれている。机の上には帳面が3冊、開いて並んでいた。蔵の出納、配給の量り、それから日数の書き付け。蝋燭は1本きりで、彼女は算盤も使わずに、ペンの尻で数字の列を辿っていく。時折、手袋の指先に息を吹きかけながら。
「レンツ。雪解けの市が立つまで、あとどれくらいと見まして?」
「……例年なら、峠が開くのが春先。ザルテンの市が本式に立つまで、100日というところかと」
「ええ。100日」ペンの尻が、蔵の出納の最後の行を叩いた。「いまの量りで配って、蔵の麦は82日分ですわ」
差し引きの18日が、部屋の寒さと一緒に背中へ載った。配給を削れば日数は延びるが、削った分は人の体から削れる。冬の体は削れた分だけ病に食われる。82と100のあいだの溝は、帳面の上では2寸ほどの空白でしかない。その空白の中に、墓地の空の穴が30、並んでいるのが見える気がした。
「いつから、分かっていたんです」
「秋の買い付けの晩からですわ。麦12袋では、足りても際どいと」彼女はペンの尻で、出納の頭の方を指した。「宝石の半分を剣に替えましたもの。あの8人がいなければ、蔵ごと奪られて、勘定はとうに終わっていました。守りを買って日数が欠ける方を、私は取りましたの。——欠けた分を埋める算段ごと、ですわ」
つまりこの18日の穴は、見落としではなく、最初から帳面の隅に書き込まれていた数字だということだ。聞いて楽になる話ではない。穴があると知りながらふた月黙って、埋める段になってようやく口にする。その止め方も含めて、あの人の帳面なのだった。
「買い足しは、峠が」
「閉じていますわね。橇の通れる日を拾っても、商人は冬に麦を手放しません。手放すとすれば、足元を見た値段」彼女は帳面を一冊ずつ閉じていった。「ですけれど、峠のこちら側に、まだ手をつけていない蔵がひとつありますの」
「……この谷に、ですか。どこの」
俺は谷の納屋という納屋を頭に並べた。どこももう、検めと供出が済んでいる。残っている扉なんて——そこまで考えて、ひとつだけ残っていることに気づいた。検めの帳面に、一度も載らなかった建物。
「明日の朝、教会に参りますわ」
彼女は立ち上がって、窓板の隙間の雪明かりを背にした。
「神様と、勘定の話をして参ります」




