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うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


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第13話「取り立てに来させなさい」

教会の裏手にその蔵はあった。


石積みの低い建物で、扉には鎖と、緑青の浮いた古い錠。鎖の結び目には鉛の封印が垂れている。司教座の紋の入った封だ。十分の一税の蔵——谷の者が神の麦と呼ぶ場所だった。三年の不作で王都への運上が止まり、それでも納めの分だけは別に量って、この蔵に入れて封じてきた。道が賊で塞がって、荷が出せないまま、ふた冬。屋根には雪が分厚く載って、軒の氷柱だけが妙に立派で、人の出入りというものを忘れた建物の顔をしていた。検めの帳面づくりで谷じゅうの納屋を数えたとき、ここだけが空欄のまま残された。彼女が忘れていたのではないことを、いまになって俺は知る。空欄というのはあの人の帳面では、消した字ではなく、取ってある席なのだ。


つまり、飢えた村のど真ん中に、麦の詰まった蔵が封をされたまま建っていたということだ。誰も破らなかった。あの楡の縄より、この封の方が、谷の連中には怖かったのだろう。縄は体を吊るすだけだが、封は魂の側の話だから。


中身の麦を納めたのは、ほかでもない、この谷の連中だ。ブレヒトに訊くと、村長は雪の上で目を伏せた。不作の年でも納めの升だけは別に量るのが先祖からの習いでございまして——自分の蒔いた麦を、自分の手であの蔵に運んで、封がかかるのを見届けた。それから空きっ腹を抱えて冬に入ったのだという。秋に死んだ47人の幾人かは、間違いなく、自分の納めた麦の数歩先で力尽きた。それを聞いたとき、俺は背中の冷えとは別のものを感じたが、彼女が同じ話を聞いて何を感じたのかはいつも通り顔からは読めなかった。読めたのは翌朝の行動だけだ。


雪の朝、彼女はその扉の前に立った。後ろには俺と、ハイラムの配下が4人、空の橇を曳いて。


ヨーゼフ司祭は報せを受けるより早く出てきていた。外套も羽織らず、扉を背にして立っている。立ち方で、もう全部分かる立ち方だった。


「代官様。ここは、お検めの帳面には載せられませんぞ」


「載せに参りましたの」彼女は懐から紙を出した。「蔵の中身を検めて、麦を借り受けます。利息は1割。返すのは秋の刈り入れの後。証文はこの通り、2通」


「借りる、と仰るか」司祭の声は静かで、静かなまま硬かった。「相手はどなたです。わしではない。この麦はわしの物ではない。司教座の物でも、突き詰めればない。納めた者の手を離れた日から、これは神の物だ」


「結構。では宛名は神に」


「……戯れを」


「戯れではありませんわ」彼女は証文を司祭の方へ向けた。墨の字で、貸し手の欄にほんとうにそう書いてある。「借りた物は返します。期日と利率を決めて、紙に残して、証人を立てて。私が神に対してできる礼は、これが全部ですの」


「神の物を、人が勝手に借りられるとお思いか」


「お貸しいただけないのでしたら」証文は、下ろされなかった。「では、神に取り立てに来させなさい。私は逃げも隠れもしません。期日に返さなければ、利息ごと取り立てればよろしい。——債権者の居場所が天で、債務者の居場所がこの谷というだけの、ただの貸し借りですわ」


「礼ですと」司祭の声が、そこで割れた。「封を破ることがか。これは納めた者の信心だ。飢えた年に、それでも神へ捧げた者たちの——」


「その信心が、いま雪の下で腹を空かせていますわ」


「……信心と腹は、別の帳面の話だ」


「いいえ、同じ帳面ですわ。師よ、あなたがいちばんよくご存じのはずです。ふた冬、この蔵の前で祈ってこられたのでしょう。祈りながら、中の麦の袋数を、一度も数えなかったと言えまして?」


司祭の顎がわずかに引けた。図星を刺す側の人間が、刺される側に回る瞬間というのを俺は初めて見た。


風がふたりのあいだの雪を低く払った。


「師よ。勘定の話をします。蔵の麦をこのまま春まで封じておけば、配給は18日分足りません。18日分の飢えは、まず年寄りと病人の体を削って、それから子どもの番です。墓地の空の穴を、私は30で見積もりましたけれど、あれが足りなくなる」彼女の声は、上がりも下がりもしない。「封を守って30人埋めるか、封を破って誰も埋めないか。神がどちらをお望みかは、私には分かりません。分からないことは、しません。私がするのは、谷の者を死なせないこと。それだけは、分かっていることですから」


「……あなたは、神を恐れんのか」


「恐れていますわ」即答だった。「ですから、盗まずに借りますの」


司祭は長いこと彼女を見ていた。それから俺を見て、橇を見て、最後に扉の封を見る。老人の白い息だけが、その間ずっと動いていた。


「報告いたしますぞ。春になり、道が開けば、司教座へ。封を破られた仔細を、洗いざらい」


「報告なさい。ありのままに」彼女は頷いた。「数字が要るなら、帳面を写して差し上げます」


ありのままに。俺が王都へ書かされているのと同じ言葉だった。この人は自分を裁く側の紙を、いつもこうやって、自分で揃えて渡す。


司祭は動かなかった。動かないまま、ひとつだけ条件を出した。


「封を破る手は、わしのものでなければならん」


彼女は黙って、半歩下がった。


老人の指は寒さと歳でずいぶん覚束なくなっていたが、誰の手も借りずに鉛の封を外し、鎖を解いた。扉が軋んで開くと、中から夏の名残りみたいな、乾いた麦のにおいが溢れ出す。雪の朝には場違いなほど、生きもののにおいだった。司祭はそのにおいの中で目を閉じて、聞き取れないほど低く、短い祈りを言った。麦にか、神にか、自分にか。多分、全部だ。


検めは半日かかった。麦が44袋、豆が6袋、蜜蝋がひと箱。彼女は1袋ずつ量らせて、員数を証文に書き足し、写しを村の広場の板に貼らせた。神の麦がどれだけあって、どれだけ借りて、いつ返すのか。全部、誰でも見られる字で。


「隠れて運べば、盗みの噂になりますわ」と彼女は言った。「隠さなければ、借りの帳面になりますの」


運び出しの日、橇を曳いたのはヴェンツェルの組だった。


ところが最初の袋のところで仕事が止まった。組の連中が袋に手を掛けたまま動かない。元賊の荒くれどもがだ。ヴェンツェルが理由を言いに来た。盗みなら平気でやってきた連中なんだがね、騎士様。神様の蔵ってのは、稼業の外なんだとよ——。


膠着を解いたのは、ヨーゼフ司祭だった。老人は蔵に入ると、いちばん手前の袋を自分の肩に載せ、よろけながら橇まで運んで降ろす。それから埃を払って、突っ立っている男たちに言った。


「最初の一袋は、わしが運んだ。罰が下りるなら、まずわしに下りる。……お前さんたちは、二袋目からでよい」


二袋目からは仕事が早かった。パウルが蔵の口で袋を数え、ヴェンツェルの組が橇に積み、村の男たちが館の蔵で受ける。雪の道に、麦の粉のこぼれた白い点々が続いて、後から来た鵞鳥どもがそれをつついて回った。神の麦も鵞鳥にかかれば、そこらの麦だった。


貼り紙の前で、村の連中の顔は二度変わった。蔵の中身の多さに一度。それが配給に回ると知って、もう一度。罰が当たる、と呟いた年寄りに、ブレヒトが貼り紙を指で叩いて返した。借りだそうだ、利息つきの。神様相手に踏み倒しはできめえ、だから春はいやでも豊作にせにゃならん——理屈になっているような、いないような理屈だった。年寄りは妙に納得した顔で頷いていた。返すために蒔く。飢えないために食う。あの紙一枚で、神の麦は祟りの種から、春の約束に変わった。


橇が三往復して、麦が代官館の蔵に移された晩、彼女は出納の帳面を引き直した。82日分が110日分に伸びる。100日の冬に10日の余り。返しの段取りも同じ晩のうちに紙になった。秋の刈り入れから、利息の1割を上乗せして44袋と豆6袋。春の作付けの割り振りに、神様への返済の畝、という名目の欄がひとつ増えた。名目に文句をつける者は誰もいなかった。畝の名前がどうであれ、種を蒔く理由がひとつ増えるのは、ふた冬ぶりのことだったから。


ペンを置いた彼女に、俺は昼間から喉に引っかかっていたものを訊いた。


「もし司祭が、体で扉を塞いでいたら。あなたは、どうするつもりでした」


「退かせましたわ。縄は使わずに、ですけれど」彼女は帳面の砂を払った。「ですから、ああならないように、紙を先に書いて行きましたの。人がいちばん退けないのは、力ではなく、筋ですわ」


「……神の物だ、というのも筋でしょう」


「ええ。立派な筋です」彼女は手を止めて、珍しく、付け足した。「隠した蓄えと、隠れた配りが何を呼ぶか、私は見たことがありますの。善意の男でしたわ。弱った者にこっそり多く回そうとして、配る順を隠した。隠した順は、贔屓の噂になりますの。噂は三日で火になって——配給所ごと、焼かれましたわ。並んでいた者ごと」


続きはなかった。配給所。この国にない言葉ではないが、この国のどこにも、そんなものが焼かれた話はない。善意の男、と言ったときだけ、声の置き方がほんのわずかに低かった気がするが確かめる術はない。どこの話です、と訊く隙を測っているうちに、彼女はもう次の帳面を開いていた。訊かせない速さだった。


順番は隠さず、全員に貼り出す。着任の週からあの人が判で捺したように守ってきた手順の根っこに、焼け落ちた建物が一棟、埋まっているらしいことだけが分かった。あの几帳面な貼り紙の習いを、俺はこの晩から、少し違う目で見るようになった。


数日後の配給で、粥が少しだけ濃くなった。


挽き割りの嵩が戻って、椀の底に匙が立つようになった、その程度の濃さだ。それでも列の進みが半歩ぶん軽くなるのが見ていて分かる。年寄りの何人かは、椀を受け取る前に、教会の方へ小さく十字を切った。誰に教えられたのでもない。神の麦を食う者の、それが精一杯の作法だった。


ヨーゼフ司祭は配給の列の脇に立って、椀を受け取っていく一人一人に、いつも通りの祝福を短く与えていた。神の麦で炊いた粥に神の祝福。筋は通っているのだろう。司祭は彼女とは目を合わせず、彼女も司祭に声を掛けず、同じひとつの列を別々の場所から見ていた。ふたりのあいだには、たぶんこの先も橋は架からない。架からないまま、同じ谷の同じ列を、両岸から見張っていく。それで人が生きるなら、橋などなくてもいいのかもしれなかった。


「……不思議なものですな、騎士殿」


帰り際、司祭が俺にだけ、ぽつりと言った。


「ふた冬のあいだ、わしはあの蔵の前で祈ってきた。神よ、この麦を生かす道をお示しくだされ、と。——示されたのが、よりにもよって、あのお方とはな」


「春には、司教座へ報告するんでしょう」


「するとも。一字も曲げずにな」老人は外套の前を掻き合わせた。「曲げずに書くと、どうなると思うかね。封を破った女の谷で、誰も飢えて死ななんだ、と書くことになる。……わしはそれを、どんな顔で書けばよいのか」


老人は答えを待たずに歩いていった。雪の上の足跡が教会まで真っ直ぐに続いた。


そしてその晩から、谷は飢えの話をしなくなった。


代わりに始まったものを、俺はまだ、何と呼べばいいのか知らなかった。

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