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うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


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第14話「飢えない、という異常」

広場の隅で、子どもが取っ組み合いの喧嘩をしていた。


橇の順番がどうとか、雪玉が顔に当たったとか、そういう類のくだらない喧嘩だ。引き剥がしに行きかけて、俺は途中で足を止めた。妙なものを見ている気がしたからだ。妙さの正体に気づくまで少しかかった。


着任したころ、この谷の子どもは喧嘩をしなかった。


泣きもしなかった。戸口の框に座って、大人の持つ袋の膨らみを目だけで追っていた。喧嘩というのは力が余って初めてできる遊びだ。雪の上で団子になって転がっている二人を、俺は結局引き剥がさずに、母親たちが襟首を掴みに来るまで眺めていた。引きずられていく片方が、悔し紛れに投げた雪玉が俺の胸当てに当たって、母親が青くなって詫びた。詫びられる筋のものか、これが。


橇はグンナルの細工だった。


防柵にした棺板の、長さの足りない端材が鍛冶場の隅に積んであった。それを削って曲げ、鉄の滑りを打ちつけた。死人のための板の余りで、子どもが雪の坂を滑る。罰当たりだと眉をひそめた年寄りに、大男は鼻を鳴らして返したそうだ。板に訊いてみな。怒ってるかどうか——坂の方からは、朝から晩まで、怒っているとは思えない悲鳴が聞こえ続けている。


割り込みで叱られて、鍛冶場で人が変わって、いまや子どもの橇まで打つ。あの大男の冬もずいぶん遠くまで来たものだった。橇の順番待ちで揉める子どもらに、グンナルは怒鳴った。並べ。順番だ。届けを出した奴から先だ——届けも何もない遊びの列で、子どもらは妙に素直に並び直した。順番という言葉が、この谷ではもう、誰の口から出ても効く。


同じ週に、村のパン窯に火が入った。


広場の隅の共同の窯は、ふた冬使われないまま、煙道が崩れて雨ざらしになっていた。直したのはグンナルと石工あがりの年寄りで、窯の床の石は、グンナルが鍛冶場の火で乾かしてから組み直した。配給が挽き割りの粥から、五日に一度の固いパンに変わる。たった五日に一度でもこれは大きい。粥は腹に入れば終わりだが、パンは懐に入れて持ち歩ける。畑仕事の戻りに齧れる。子どもに半分割ってやれる。食い物が「持てる」ようになるというのは、暮らしの背丈がひとつ伸びるということだった。


焼きの日の朝は広場じゅうが窯のにおいになる。最初の焼きが窯から出たとき、並んでいた年寄りの何人かは、パンより先ににおいの方に頭を下げていた。ふた冬ぶりに嗅ぐにおいだったのだという。彼女はその朝も列のいちばん後ろで、いちばん端の焼きの、いちばん固いところを受け取った。


塩売りは約束どおりに戻ってきた。


今度は塩だけじゃない。針と糸、鍋がふたつ、それから飴がひと瓶。荷を広場に広げると、人垣は配給の列より厚くなった。銭のある者は銭で、ない者は縄や繕い物や削り物で払う。テオは木匙を1ダース持ち込んで針と糸に替えた。ヴィムの組の綯った縄は、塩売りの方から名指しで買われた。街道筋で売れるのだという。座り仕事の縄が峠を越えて銭になって戻ってくる。その勘定を聞いた年寄り連中の背筋がまた少し伸びた。


飴の瓶の前には子どもの列ができた。買える子はほとんどいない。いないのに列は崩れず、塩売りが根負けして、ひと粒ずつ舐めさせる代わりに雪搔きの手伝いをさせることで話がついた。商人というのはああいうところで先々の客を育てるものらしい。


彼女は触れで市の刻限と場所だけ決めて、あとは口を出さなかった。物々の値切り合いの怒鳴り声が半日広場に響いた。あれは飢えた村の音ではない。腹の足りている人間だけが、針1本の値段で半刻も粘れる。


「驚きましたよ、騎士様」と塩売りは荷をまとめながら言った。「峠のこっち側だけ、別の国だ。よその谷は今ごろ、どこも戸を閉めて黙りこくってまさ。麦の値も、聞いたことのない上がり方をしてる。……ここの話は、街道筋じゃもう噂です。ヴェルデンに行けば飯が食える、ってね。春までに、人がもっと流れてきますぜ」


飯が食える、というだけのことが噂になって街道を歩く。それがこの冬の、峠の向こうの相場だった。


異常というなら、こちら側の方が異常なのだ。俺がそれを思い知らされたのは、賄い場の隅で、ベルタの末の子が泣いているのを見た日だ。


椀を抱えたまま、フリッツはしゃくり上げていた。粥がもらえなかったのかと思えば、逆だった。お代わりを訊かれたのだという。鍋に余りが出た日で、量り役が、まだ食えるかいと訊いた。たったそれしきの問いに、5つの子どもは椀を抱えて泣き出して、母親のベルタは泣くんじゃないよと言いながら自分も泣いている。お代わりという言葉が信じられない腹を抱えて、親子は峠を越えてきたのだった。


俺は気の利いた言葉を持ち合わせず、結局、フリッツの椀に粥が注がれるのを横で見届けるだけの役をやった。子どもは泣きながら食って、食いながら泣き止んで、椀の底が見えるころにはけろりとして兄姉のところへ走っていった。子どもの立ち直りの速さというのは大人を少し救う。ベルタの方はしばらく立ち直らないままだったが、あれは悲しみの涙ではないから、放っておいていい類のものだった。


似たようなものは、村のあちこちに残っている。


配給のパンの耳を、袖の中に隠す年寄り。食いきらずに、必ずひと欠片だけ床板の下に仕舞う女房。明日も椀が来ると、頭では分かっている。分かっていても手が先に動く。隠したことを隠すから、誰も互いのそれを口にしない。口にしないまま、ある寄せ合いの晩のことだ。囲炉裏端で二人の婆さまの袖から同時にパンの耳が落ちて、座が一瞬凍って、それからどちらからともなく笑い出したという話を俺はテオから聞いた。笑いながら、二人とも耳を拾って、また袖に戻したそうだ。


教会の火の番をしながら、ヴィムが言っていた。飢えってのはな、騎士様、腹が治っても手に残るのよ。わしらの手はまだ当分、嘘をつけん——。


彼女はその手たちを叱らなかった。代わりに、帳面に何かを書き足していた。後で知ったが床板の下の欠片の嵩まで、配給の傷みの見積もりに入れたらしい。人の弱さを直すのではなく、弱さごと勘定に入れる。あの人のやり方はいつもそっちだ。


揉め事もあった。屋根葺きマルコの女房が身ごもって、マルコが自分の椀を女房に回しているのが量り役に知れた。


「お腹の子は、もう頭数に入っていますわ」と彼女は言った。身ごもった女は第2の順。腹の子の分は、順とは別の上乗せで女房の椀に乗る。「あなたの椀をあなたが食べないなら、その上乗せの意味がありません」


「で、ですが、女房は腹が減ると言うんで……俺は男だ、一食くらい」


「一食くらい、を冬のあいだ続けた男がどうなるか、教えて差し上げます。立ち眩んで屋根から落ちますの。落ちた亭主は、働きに出られない者——第4の順。女房の順と腹の子の上乗せはそのままでも、世帯の椀の元がひとつ、いちばん細い椀に替わりますわ」彼女は帳面を繰った。「マルコ。あなた、雪下ろしの届けをまだ出していませんわね。明日から出なさい。屋根の上の仕事はあなたの本職。働いた分は、第1の順。——夫婦で2杯と半分になります。回すのではなく、増やしなさい」


マルコは口を開けて、閉じて、頭を掻いて帰っていった。翌朝から、雪下ろしの列に屋根葺きの梯子が混ざるようになった。胸を痛めて土を担いでいた秋の男が、いまは自分の本職で、自分と女房と腹の子の3人分を稼いでいる。自分を削る男に、削らずに済む算段を渡す。優しさという顔は一切しないまま、勘定の形だけで渡していく。受け取る側も礼の言い方が分からないから、仕事の出来で返す。マルコの落とした屋根の雪は、村のどの男のより四角く揃っていた。


夜の教会では字の教室が始まっていた。


言い出したのはパウルで、束ねているのはヨーゼフ司祭だ。配給の板が読めない、と悔しがる大人が思いのほか多かった。週に二度、晩の祈りのあとに、聖句と自分の名前と数字の読み方。彼女は教室の届けを受け取ると、祭壇の蝋燭の割り当てを2本から4本に増やした。蝋も冬の物資だと言い切った人がだ。理由を訊いた司祭に、答えはひとことだった。


「読み書きは、冬に蒔ける唯一の作物ですの」


通っているのは年寄りと女房連中が多い。ベルタもいる。石板代わりの炉灰の盆に指で自分の名前をなぞっている横顔を見ると、峠でぽかんとしていた物乞いの顔は、もうどこにも見当たらない。教える側のパウルは、生徒の半分が自分の倍も歳上という塩梅で、最初の晩は声が裏返りどおしだったらしい。3晩目には綴りを間違えた粉挽きの女房に、容赦なく書き直しを命じる小先生ぶりだったという。


見回りのついでに一度だけ覗くと、教室のいちばん後ろの席で、ヴィムが炭片を握っていた。あの硬い指で、自分の名前を何度も何度も。書けてどうなる、と冷やかす連中に、年寄りは振り向きもせずに答えていた。帳面に載るんだ、自分の名前くらい、自分で読めにゃあ字に申し訳が立たんだろうが——。


申し訳の立て先が字だというのが、いかにもこの谷の冬らしかった。みんな、帳面と暮らすことに決めたのだ。決めたからには読む側に回りたい。あの教室の炭片の音は、つまりそういう音だった。


月が変わる晩、俺は気づいてしまった。


着任からつけている自分の手控えに、この半月、書くことがほとんどない。賊も出ない。行き倒れも出ない。弔いの鐘を、そういえばひと月聞いていない。墓地の30の穴は、雪を被ったまま、まだひとつも口を開けていない。


何も起きない、ということが、こんなに書き残しにくいものだとは知らなかった。騎士の手柄は起きたことの中にしかない。賊を斬った、火を消した、誰かを救った。だがこの谷でいちばん大きな手柄は、起きなかったことの側に積んである。出なかった行き倒れ。鳴らなかった弔いの鐘。開かなかった墓穴。起きなかったことは誰の目にも見えなくて、帳面の数字の中にだけ、ちゃんと残る。


王都の兵舎で聞いた、飢えた土地には飢えた人間がいる、という言葉の続きをいまなら書ける。飢えない土地には、喧嘩する子どもと、値切り合う女房と字を覚える年寄りがいる。当たり前のものを並べただけの目録を、この谷はふた冬、丸ごと取り上げられていたのだ。


ただ、夜眠れるという流行り言葉に、俺はまだ全部は乗れずにいる。


この静けさは彼女の帳面の上に立っている。帳面は彼女の細い肩の上に立っている。そして王都にはその肩を狙う理屈を探している連中がいて、俺は毎月、そいつらに紙を送っている。飢えない、という異常が長く続くほど、王都の机の上では別の何かが不自然に見え始めるはずだ。罪人の谷だけがなぜ無事なのか、と。静けさの底のそういう勘定を数え出すと、囲炉裏の火がいくら爆ぜても、足の先が温まりきらなかった。


翌朝、ブレヒトが配達の割り振りを持ってきた。夜のうちに雪がまた深くなって、川下の年寄り連中が配給まで歩けない。椀を運ぶ番が要る、ついては騎士様にもひとつ、と村長は揉み手で言った。護衛の俺に手桶を担がせる遠慮のなさも、この谷ではすっかり当たり前になっている。


割り振りの紙のいちばん上に俺の名前があった。


行き先は川下のいちばん奥。ゲルダ婆さんの小屋だった。

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