第15話「忘れられていた順番」
川下への道は張られた縄をたどって行く。
雪は腿の半ばまで来ていた。椀の替わりの蓋つきの手桶を背負子に括り、パウルの書いた届け先の紙を懐に、俺は朝のうちに村を出た。配達は4軒。いちばん奥がゲルダ婆さんの小屋だった。
1軒目は咳の長引いていた寝たきりの婆さまの家だ。届けを出した隣の男が、ちょうど婆さまの戸口の雪を搔いていて、俺の手桶を見ると台の上の空の椀と取り替えてくれた。産婆の置いていった塗り薬の貝殻が枕元に伏せてある。咳は峠を越したらしい。2軒目と3軒目は炭と粥を置くだけで済んで、どの家でも、戸を開ける前から囲炉裏の煙のにおいがした。煙の立つ家は生きている家だ。煙のひとつも立たないこの谷を峠から見下ろした日のことは、いまでも時々、夢に出る。
小屋は思っていたより小さくて、思っていたよりきちんとしていた。
土間は掃き清められ、壁には乾した薬草の束が丈の順に下がり、囲炉裏の灰は綺麗に均してある。婆さんは戸口の灯り取りのそばに座って、手を動かしていた。古着をほどいた毛糸で、指なしの手袋を編んでいる。脇の籠には編み上がったのがもう5組。
「ご苦労なこったね、騎士様が手桶担ぎとは」
「割り振りの紙に書いてあった。文句は紙に言ってくれ」
「言うもんかね。紙さまさまだよ」婆さんは粥を椀に移して、囲炉裏の鉤に掛けた小鍋の湯を、欠け碗に注いで寄越した。松葉のにおいのする、薄い緑の湯だった。「飲みな。冬の血には松が効く」
外は雪明かりばかりで、小屋の中は囲炉裏の火と、婆さんの手元の小さな景色しかない。編み棒の音は火の爆ぜる音より細かくて規則正しい。
壁の薬草の束の下に、欠けた木の杯がふたつ、伏せて並べてあった。誰のかと目で訊くと、婆さんは編み棒を止めずに答えた。連れ合いと下の倅のだよ。連れ合いは石切り場の山崩れでもう30年も前。下の倅は流行り風邪でその5年あと。上の倅は街道の景気のいい時分に荷運びについて出てって、便りは最初の2年だけ——婆さんの一代記は、椀に粥をよそうあいだに終わってしまう長さだった。長く生きるというのは、見送りの数が増えるということと、ほとんど同じ意味らしい。
「寂しかないよ」と、訊いてもいないのに婆さんは言った。「杯はふたつとも、ちゃんとここにある。忘れちゃいないって印さ。……忘れることと忘れられることなら、あたしゃ忘れられる方が、よっぽど怖いね」
それから少し間を置いて、婆さんは手を止めずに言った。
「あのお人はね、騎士様。あたしを助けちゃくれないよ」
出し抜けだった。湯を持ったまま顔を上げると、婆さんは編み目を数える目のまま続けた。
「鍋が空になりゃ、あたしより先に子どもに食わせる。流行り病が来りゃ、あたしより先に若いのに薬をやる。紙にそう書いて、広場に貼ってある。第4の順。あたしの番は、後ろから2番目さ」
「……怖くは、ないのか」
「怖い?」婆さんは編み棒から目を上げた。「騎士様。あたしゃ飢えを三度くぐってる。教えてやろうかね、年寄りが飢えの冬にどうやって死ぬか」
囲炉裏の火が小さく爆ぜた。
「順番なんか、来やしないんだよ。誰も決めないんだから。ただね、椀がだんだん薄くなる。婆さまは食が細いから、ってね。誰が決めたんでもない。皆がちょっとずつ目を逸らして、そのちょっとが集まって、冬の終わりに年寄りがひとり、眠ったまま起きない。誰のせいでもない顔で、皆で埋めるのさ」
編み棒が止まっていた。
「……あたしもやったんだ。若い時分、先の先の飢えの冬に。連れ合いの母様の椀を、ちょっとずつ薄くした。あの人は何も言わなかったよ。言わないまま、春の手前でいなくなった。誰もあたしを責めなかったよ。皆、自分の家で同じことをしてたからね」
「……あんたのせいじゃない。飢えの冬の話だ。誰だって」
「そうさ。誰だって、だ」婆さんは俺の慰めを、編み目ひとつぶんの手早さで畳んだ。「だからこそ性質が悪いんだよ、騎士様。誰のせいでもない殺し方ってのが、この世にはあるのさ。刃物も毒もいらない。ただ、順番を決めずに、目を逸らすだけでいい。……あのお人が紙に書いて貼ってるのはね、つまり、その殺し方の口を塞いでるんだ」
俺は何も言えなかった。手の中の松の湯が、ゆっくり冷めていく。婆さんはまた編み棒を動かし始めて、その音に紛れそうな声で言った。
「順番を言われたのはね、騎士様、生まれて初めてなんだよ。今までは黙って忘れられてた。あのお人は、あたしを後ろにすると、あたしの目を見て言ったんだ。紙に書いて、誰でも見られるところに貼った。——後ろでもいいのさ。後ろってのは、列の中ってことだからね。列の外で目を逸らされて消えるのとは、わけが違う」
火がひとつ爆ぜた。
「皆はあのお人を、冷たいの薄気味悪いのと言うがね。あたしに言わせりゃ逆さ。目を逸らさないってのが、どれだけ高くつくか。安く済ませたけりゃ、忘れるのがいちばんなんだ。あたしらは皆、そうやって安く済ませてきた。あのお人だけが、高い方を払ってる」
長居をしたらしく、椀の粥はとうに婆さんの腹に納まっていた。暇を告げて立ち上がると、婆さんは編み棒越しに、上目でこちらを見た。
「騎士様。あんたの目は、迷ってるね」
「……何の話だ」
「剣の目ってのはね、守る物が決まってると据わるもんだ。あんたのは、まだきょろきょろしてる。王都とこの谷の間あたりをさ」婆さんは編み目をひとつ拾った。「別に責めちゃいないよ。けどね、迷ってる目ってのは、剣より先に人に気づかれる。覚えときな」
「……あの人の目は、どうなんだ。据わってるのか」
「あれはね」婆さんは少し考えて、編み棒の先を火の方へ向けた。「据わってるんじゃない。最初から、よそ見の仕方を知らない目だよ。ああいうのは生まれつきじゃ、ない。よそ見をした罰を、どこかでよっぽど高く払った目さ」
図星というのは防ぎようがないから図星という。そして婆さんの見立ては、俺の見立てと薄気味悪いほど同じ場所を指していた。俺は返事の代わりに椀の礼だけ言った。婆さんは編み上がりの籠を顎で指して、ついでにこれを上へ持っていけ、と寄越す。それから、戸口で俺を呼び止めた。
「枝沢の奥に、ふたり居る」
「……ふたり?」
「炭焼きの寡婦と、その兄さ。先の代官の取り立てで山に逃げて、それっきり里に下りない。帳面にも載ってないはずだよ。あの兄妹は、貴族の名前を聞くだけで戸を閉める。——けど、この雪だ。薪が続いてるかどうか」
「なぜ、それを俺に」
「列の外に居る者の名前なんざ、あたしくらいしか覚えてないからね」婆さんは編みかけに目を戻した。「忘れられるってのがどういうことか、あたしゃ知ってるんだ。覚えてる側に回るくらいの罪滅ぼしは、させてもらうよ」
その日の夕方、ゲルダ婆さんは届けを出しに、自分の足で館まで来た。
執務室での談判を俺は壁際で聞いた。婆さんは編み上がりの手袋を机に並べ、これは座り仕事の届けで、編んだ日は第1の順をもらうと切り出した。挨拶もなければ、世辞もない。代官の机の前で背筋ひとつ縮めない第4順の婆さんを、ブレヒトあたりが見たら卒倒したことだろう。彼女は手袋をひとつ取り、編み目を窓明かりに透かして引っ張り、裏を返した。検分は商人のそれで、応じる側も売り手の顔だった。この部屋でこういう商談の空気になるのは、思えば、ハイラムを雇ったあの溜まり場以来かもしれない。
「目が詰んでいますわ。夜番の指は、これで凍えずに済みます」
「だろうとも。糸はほどき糸だ、元手はかからないよ。その代わり、手間賃は弾んでもらう」
「30組で、編んだ日数分の第1順。糸が尽きたら古着の供出を触れに出します」
「40組と言いたいところだがね。婆の手は30がいいとこさ。なに、手は増やすよ。川下に、編み棒の持てる婆がほかに5人いる。揃って届けを出させるから、紙の支度をしときな」彼女が頷くより先に、婆さんは付け足した。「——それと、教えときな。枝沢の兄妹の分は、勘定に入れてないよ。あれはあたしの罪滅ぼしだ」
「いいえ、入れますわ」彼女は帳面を開いた。「ゲルダ。あなたが覚えていた名前は、2人。私の帳面から漏れていた名前も、2人。この帳面はあなたに借りができましたの。——届けの教えひとつ、銅貨1枚。エルゼの時と同じ相場です」
婆さんはしばらく彼女を見ていた。それから、皺の底の目で笑った。
「銅貨1枚で、婆の三十年の覚えを買うってかい。安い買い物だねえ」
「ええ。この冬いちばんの、安くて高い買い物ですわ」
翌日、枝沢へ入ったのは、ハイラムの配下がふたりと橇に乗ったゲルダ婆さん本人だった。
貴族の使いが行けば、あの兄妹は山の奥へ逃げる。だから戸を叩くのは婆さんの杖で、最初の声も婆さんの声だ。あたしだよ、機織りのエルゼの里の谷から嫁に来た、ゲルダだよ——戸の隙間が指二本ぶん開くまでに四半刻かかった。開いた隙間に麦の袋を見せてからは早かったという。
寡婦と兄は薪はあったが麦が尽きかけていた。すり鉢で松の皮を挽いていた跡があったと、付いていった傭兵が低い声で言った。松の皮の粥は飢えの最後から二番目の段だ。あとひと月遅ければ、枝沢の奥で、誰の帳面にも載らない盛り土がふたつ増えていた。
帳面には名前がふたつ増えた。生者の側にふたつ。兄妹は里に下りることをまだ承知しないので、配給は婆さんの小屋を継ぎ場にして、編み物の籠と一緒に橇で運ばれることになった。山の上の意地にも椀は届く。届け方を考える者さえいれば。
雪道を戻りながら、考えていた。彼女の帳面は谷の名前を全部数えたつもりで、それでも2人漏れていた。漏れた名前を拾ったのは、忘れられる側を三度生き延びた婆さんの覚えだ。帳面というのはああやって、人の覚えに継ぎを当てられながら太っていくものらしい。
それにしてもと思う。第4の順に置かれた婆さんが、第4の順の名前を拾って、帳面に売りに来る。仕組みのいちばん割を食う側が、仕組みのいちばん良い目付けになっている。恩でも忠義でもない。順番を言われたのは初めてだ、という、そのひと筋で。あの人は領民の心をひとつも買おうとしないのに、勘定だけで人がこうやって動き出すのを、俺はこの冬何度も見ている。心を買わない者のところにだけ、心の方から歩いてくることがある。ひねくれた理屈だが、この谷ではそれが通り相場になりつつあった。
村の入り口で、パウルが転がるように駆けてきた。
「騎士様、お客です。詰所に——旗を立てた馬が、3頭」
旗、と訊き返す前に、詰所の方からハイラムの濁声と聞き慣れない笑い声が風に乗ってきた。よく肥えた笑い声だった。この谷の冬はああいう声の出る肺をまだ取り戻していない。馬装の旗は王都のものではない。赤地に交わした槍の徴——南方の、戦の口入れ屋の旗だ。
兵を買い付けに来た者がいる。売り物にされる側の8人を、この谷は今、夜眠るための柱にしている。柱の値段を、よそ者が銀貨で訊きに来たということだった。




