第16話「ハイラムの賭け」
旗の客は詰所の上座で配給の麦酒を舐めて、露骨に顔をしかめた。
「相変わらずひでえ酒だな、傭兵の冬ってのは」
身なりのいい、よく肥えた男だった。南方の戦の口入れ屋。名はバルドゥル。ハイラムとは古巣の傭兵団からの顔見知りで、今は剣を売る側から、剣を買い集める側に回ったのだという。供は2人、馬は3頭とも、この冬のどの馬よりも毛艶が良かった。飢えの冬のさなかに肥えた人間と肥えた馬を見ると、人はまず、感心より先に警戒をする。詰所に呼ばれもせず集まってきた村の男たちが、戸口の外で雪搔きの手を止めたまま動かないのが窓越しに見えた。
「南で、春から本式の戦が始まる。国境の砦をふたつ取り合う、何年がかりの大口だ。王家も今度ばかりは金を惜しまねえ。何でも、どこぞの公爵家から没収った鉱山が、まるごと戦費に化けるって専らの噂よ」
俺は壁際で、危うく声を出すところだった。没収された公爵家の鉱山。その家の娘が誰で、いまどこで何をしているか、この肥えた男は知らずに喋っている。彼女の生家から剝ぎ取った銀が、回り回って、彼女の雇った傭兵を買い戻しに来た。王都という場所の金の流れ方は、時々、人の悪い寓話みたいな筋を描く。
「歴戦の槍なら日当は倍、分捕りは公認、お前さんなら旗持ちの隊長格だ。——なあハイラム、聞いた時ぁ俺は耳を疑ったぜ。あの『生き残り』のハイラムが、こんな雪の底で、薄い粥と半値の日当で小娘の番犬をやってるとはな」
詰所の中の空気が、薪の爆ぜる音ごと止まった。配下の傭兵が7人、それぞれの場所で手を止めている。バルドゥルはその顔ぶれを順に見回して、商人の目つきで笑った。
「お前らもだ。腕に覚えがありゃ買う。春までに南へ来な。……どうせこの谷の雇いは、雪解けまでなんだろう?」
ハイラムは革砥で剣を撫でる手を止めなかった。
「酒がまずくて悪かったな。今夜は泊まってけ。返事は明日だ」
その晩、傭兵の詰所では遅くまで火が落ちなかった。
俺は見回りの行き帰りに、切れ切れの議論を拾った。倍の日当は嘘じゃねえ、バルドゥルは値だけは正直だ。だが南の戦は本式だぞ、本式ってこたぁ、こっちも本式に死ぬ。分捕り公認たぁ聞こえはいいが、要は払いの当てが薄いってことよ。それによ——ここの粥は薄いが量りは狂わねえ。狂わねえ量りの飯ってのを、お前、よそで食ったことがあるか——。
声の輪の外で、ヴェンツェルが石段に腰掛けて、聞くともなしに聞いていた。あんたはどう見る、と訊くと、元賊は肩をすくめた。
「俺たちゃ声が掛からねえからな、気楽なもんさ。賊あがりは正規の戦じゃ売り物にならねえ」白い息が、ゆっくり立ち上る。「だが騎士様、賭けの行方なら見えてるぜ。バルドゥルの売ってるのは、倍の日当と、それに見合う倍の死に易さだ。ここの主が売ってるのは、安い日当と、死なねえ算段。どっちを買うかは、その傭兵があと何年生きるつもりかで決まる。若いのは南を買う。年寄りは——まあ、見てな」
声の輪の真ん中に、ハイラムはいなかった。隊長は隅の寝台で、明日も雪搔きがあるみたいな寝息を立てていたという。
翌朝、ハイラムは一人で執務室に上がった。
返事を聞きに来たバルドゥルより先にだ。俺は護衛の立場で壁際にいて、だから一部始終を見ることになった。古傭兵は机の前に立つと、懐から油紙の包みを出して、帳面の上に置いた。
「ザルテンの両替商の、預かり証だ。20年分ある」
彼女は紙を検めた。眉も動かさなかったが、検める時間は、いつもの倍かかった。額面は俺の立ち位置からは見えない。見えなくても傭兵が20年命を張って貯めた数字だということだけは分かる。
「これを、どうしろと」
「春の買い付けに使え。種麦と、来年の蔵の元手だ。あんた、雪解けに市へ出るつもりだろう。形見の石ころも、もう残り少ねえはずだ」ハイラムは顎の無精髭を撫でた。「貸しだぜ、お頭。利子は取る。証文は2通、字の読める立会い付きでな」
「……私に証文の口上を返すために、ひと晩考えましたの?」
「半晩だ。残りの半晩は寝た」
彼女は預かり証を置いて、ハイラムの顔をまっすぐ見た。長い検分だった。雇いの溜まり場で、留め具を繕う男の手元を見ていたときと同じ長さの。
「バルドゥルの口を先に聞きましょうか。倍の日当と、隊長格。断る理由を、私はあなたに差し上げられませんわ。うちの払いは相場の半分で、飯は配給。春が来ても、それは変わりません」
「分かってるよ」
「南の戦は長引きます。長引く戦は傭兵の相場を吊り上げ続ける。あなたの腕なら、3年で隠居の金がもう一山できますわよ」
「お頭。あんた、俺を口説いてるのか、追い払ってるのか、どっちだ」
「値札を読み上げていますの。私の買い物は、いつもそこからですわ」
ハイラムは喉の奥で短く笑った。この男の笑い声を、俺はそれまで聞いた覚えがなかった。
「条件を言いなさい」と彼女は言った。
「三つ。雇いを雪解けで切るな、年で結べ。払いの半分は秋の刈り入れから現物でいい。それと——俺の墓は、あの30の列の端でいい。掘り賃は前払いしとく」
最後のだけ、勘定の形をした別のものだった。傭兵の墓は街道の脇か、戦場の土饅頭と相場が決まっている。名前を数えてくれる谷の、帳面の届く場所に骨を置きたいという話を、この男は掘り賃の話に化かして言った。化かし方まで含めて、いかにもこの谷の流儀だ。彼女はそれには答えず、紙とペンを引き寄せて、証文の条文を書き始めた。利率、期日、立会い。それから、ハイラムの言わなかった条文をひとつ、書き足した。
「——私が職を解かれた場合、あるいは刑に服した場合、この貸しは谷の蔵に対する先取りの権利として残る。返済の責は私個人ではなく、代官職を継ぐ者に引き継がれる」
読み上げを聞いて、ハイラムの眉がやっと動いた。
「……縁起でもねえ条文を書くじゃねえか」
「あなたの20年を預かるんですもの。私の首より長持ちする紙にしておきますわ」彼女はペンを置いた。「私を流した連中が、この谷の上出来を喜ぶとは限りませんの。賭けるなら、そこまで見て賭けなさい」
「見てるさ」古傭兵は、にやりともせずに言った。「だから貸すんだよ」
壁際で、俺は自分の息が浅くなっているのに気づいていた。自分の首が飛ぶ場合、と彼女は言った。帳面の数字を読み上げるのと寸分違わない声で。冗談でも覚悟を売る台詞でもない。あの人の頭の中の帳面には、最初からその欄があるのだ。谷の蔵の出納や墓穴の数と同じ列に、自分の首の勘定が、ずっと前から書き込まれている。証文の判が捺される乾いた音を聞きながら、俺は王都へ送った自分の紙の束のことを、考えないわけにいかなかった。
バルドゥルは昼前に発った。
連れて行ったのはひとり。槍の組のいちばん若いのが倍の日当に頷いた。井戸端で娘をからかって日当を半分取られた、あの若いのだ。彼女は引き留めの上乗せを一切しなかった。競りはしませんの、値の上がった忠誠は、次も売りに出ますわ。未払いの日当を1枚まで数えて渡し、契約の解き証文に判を捺し、餞別代わりに3日分の麦を持たせる。あの放逐の朝と同じ寸法の麦袋を、若いのは複雑な顔で受け取っていた。
出がけに、若いのはハイラムの前で直立した。世話になりました、と言いかけたのを、古傭兵は手で払った。
「言うことはひとつだ。前金は使い切るな。逃げ足の路銀に、最後の1枚は縫い込んどけ」
「……隊長は、来ないんで」
「俺ぁもう、隊長じゃねえ」ハイラムは顎で南を指した。「行け。死ぬんじゃねえぞ。死んだら、ここの帳面に載りに戻って来い」
冗談の形をした、冗談ではない餞別だった。若いのは笑っていいのか分からない顔で笑って、馬の尻について峠へ歩いていった。
「考え直すなら今だぜ、ハイラム」鞍上から、バルドゥルが最後にもう一度だけ言った。「南じゃ一稼ぎできる。こんな谷で薄い粥を啜ってたって、誰も歌にしちゃくれねえ」
「歌になんぞされてたまるか」ハイラムは馬の尻を叩いてやった。「歌になるのは、死んだ傭兵だ」
馬が3頭と1人、白い街道を小さくなっていく。並んで見送りながら、俺は昨日から喉に溜まっていた問いを出した。
「……いいのか。倍の日当と、隊長格だぞ」
「騎士様よ。俺ぁ20年で、雇い主を11人取り替えた」ハイラムは煙草に火を点けた。「気前のいい雇い主も、武勇の誉れの雇い主もいた。んで、そいつらの下で、俺の同輩がどれだけ死んだと思う。気前のよさってのはな、兵の命の値段が安いってことなのよ。払いが良けりゃ良いほど、使い方が荒くなる」
煙が冬の白い空へ細く立った。
「あのお頭は逆だ。死なれると高くつく、と来た。雇われてからこっち、夜襲をまるごと潰して、こっちの死人はゼロ。配給は最後尾で、椀の量りは一度も狂わねえ。……いいか、俺の歳になるとな、探すのは稼げる戦場じゃねえ。寝床で死ねる雇い主だ。ああいう指揮官の下なら、死なずに済む。20年探して、初めて見つけた」
「それで、虎の子まで貸すか」
「金ってのはな、いちばん死なねえ場所に置くもんだ」傭兵は煙草の灰を雪に落とした。「両替商の蔵は固えよ。固えが、利子を生まねえ。南の戦は利子はでけえが、俺の体ごと元本が飛ぶ。あの人の帳面は——な、騎士様、考えてもみろ。飢えた谷をひと冬で立て直す頭と、配給を最後尾で食う性根と、貸し借りを神様相手にまで証文にする筆まめさだ。あれより固い貸し先が、この国のどこにある」
「……王家の金蔵、とか」
「王家はな」ハイラムは煙と一緒に吐き捨てた。「忠義に倍の値をつけて買い上げて、戦が終わったら踏み倒す側だ。俺ぁ11人の雇い主で、それを11回見た」
賭け、と男は言わなかったがあれは賭けだ。20年分の銀と、残りの寿命を、17の流刑人の帳面に張る。王都の誰が聞いても正気を疑う賭けで、そして俺は、笑う気がまったく起きなかった。笑えない理由を突き詰めると、自分も似たような場所に立っている気がしてくるからだ。俺が張らされているのは銀ではなく、毎月の報告の一字一句で、賭け金の出どころが違うだけで卓は同じなのだった。
証文の写しは例によって広場の板に貼られた。領兵頭ハイラム、年雇い。貸し付け、利率、返済の期日。傭兵の隠居金を代官が借りたという話は半日で谷を回って、回り終わったころには、妙な落ち着きが村に降りていた。20年人の戦場を見てきた男が、銀ごとこの谷に腰を据えた。それが何の見立てなのかくらい、誰でも読める。あの貼り紙は谷が自分で自分を信じるための、担保みたいなものになった。
その晩から、季節はずれの南風が吹いた。
軒の氷柱が昼のうちに溶けて落ち、夜にまた凍る。屋根の雪が重くなったと、マルコが雪下ろしの列を増やした。生ぬるい風は3日続いて、谷の連中は、春の先触れだと言って少し浮かれた。
浮かれなかったのは、ハイラムと彼女だけだった。
「お頭。この風、好かねえな」
「ええ」彼女は蔵の方を見ていた。「雪より、解けた水の方が、壁にはこたえますの」




