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うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


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第17話「鍋の底が見える日」

蔵の異変はにおいで知れた。


南風の4日目の朝、開けた扉の奥から、麦のにおいに混じって酸いものが流れてきた。蔵番が青い顔で奥の列を崩すと、北の壁に寄せた袋の尻が、軒並み黒く湿っている。解けた雪の水が古い石壁の継ぎ目を伝い、夜の冷えでまた凍り、壁の内側に染みを広げていた。修理で直したのは屋根と錠で、壁の中身までは誰も見ていない。袋を裂くと、青黒い黴の斑が、麦の山の芯まで届いていた。


検めには半日かかった。


彼女は報せから四半刻で蔵に入って、袋という袋を自分の手で開けさせた。鼻と、素手の指の腹と量りで1袋ずつ。蔵番が震える声で詫びるのを、途中で一度だけ遮った。あなたの落ち度は壁を見なかったことではありませんわ、壁を見ろと言わなかった私のですの——詫びの行き先まで帳面どおりに片づけて、検めは続いた。駄目になった袋、30。


「……穴は、いくつになります」と俺は訊いた。


「蔵の残りが66日分。峠の市が立つまで75日」彼女は検めの帳面を閉じた。「9日、足りませんわ」


9日。そして駄目になった袋は30——墓地の空の穴と同じ数だった。あの黒い長方形の列が、雪の下でこちらに寝返りを打った気がした。


救えるものは救うことになった。湿りの浅い袋は中身を広げて、黴の粒をひとつずつ手で選り分ける。広場に帆布が広げられ、雪明かりの下で、女房連中と年寄りと手の空いた者全部の選り分けの列ができた。ゲルダ婆さんの組も、ヴィムも、字の教室を休みにしたパウルも顔を並べている。彼女もその列にいた。いちばん風上の、いちばん冷える端に座って、素手で麦を捌いていく。手袋では黴の湿りが分からないのだという。


凍れた麦は小石と同じで、指の熱を片端から奪っていく。四半刻も捌くと指がきかなくなり、交代で囲炉裏の火に手を浸しに走る。彼女だけが交代に立たなかった。立たないことに気づいた隣のゲルダ婆さんが、何か言いかけてやめて、代わりに自分の番の火あたりを短く切り上げてくる。選りながら、誰もが同じことを考えていた。考えていることは、誰も口にしなかった。帆布の上の選り跡だけが、悪い麦の山とまだ食える麦の山に、黙って分かれていく。


口にしたのはその晩のブレヒトが最初だった。


「代官様。お願いがございます」村長は机の前で、揉み手のまま頭を下げた。「明日の触れでございますが……つなぎの麦の手配がもう付いとる、と。そう言ってくだせえまし。嘘も方便と申します。9日の穴なぞ、皆が知れば、村は」


「断ります」


「け、けど代官様、ふた冬飢えた連中ですぞ。蔵が欠けたと聞けば、何をしでかすか」


ハイラムも珍しく村長の側に立った。兵糧の負け数は兵に伏せる、それが兵法の初歩だと。ヨーゼフ司祭までが、雪の中をわざわざ上がってきて、遠回しに同じことを言った。すべてを告げぬことは、必ずしも嘘とは違いましょう、と。


3人を前に、彼女は帳面から顔を上げた。


「外への嘘は、道具です。私はいくらでも使いますわ。ですけれど——」声は、いつもの事務の声のまま、半音も動かなかった。「領民には、嘘はつきません。内側への嘘は、内側を腐らせますの。あの壁の中の水と、同じに」


「は、腐ると仰っても、嘘で防げる騒ぎなら」


「防げますわ。今夜は」彼女はペンを置いた。「では、つなぎの麦が来ない日には、何と言いますの。次の嘘ですか。その次は。——嘘で建てた静けさは、嘘がばれた日に、利息をつけて崩れます。私は、その崩れ方を知っていますの」


知っている、の一言に3人とも黙った。あの言い方をするときのこの人は、聞いた者が二の句を継げない何かを、声の底に沈めている。


翌朝、広場の板に新しい紙が貼られた。


駄目になった袋の数。蔵の残りの日数。市までの日数。穴の大きさ、9日。そして当面の手当て。量りは今日から2割減、全部の順で最後尾も含む。蔵への売り麦は相場で買う。買い出しの隊を雪の峠越えで出す。


読み上げの場で、彼女は人垣の前に立って、同じことをもう一度自分の声で言った。麦と塩の声が凍った広場の隅々まで通った。


「数字は、いま読まれた通りです。隠しごとはありません。問いのある者は、いまここで」


短い沈黙のあと問いは出た。最初はブレヒトの女房だった。2割減って、いつまでで。市が立つまでと彼女は答えた。長引けば。長引いた日数ぶん、減らしたまま延ばします。子どもの分もかい、と別の声。子どもは1割減に留めます、その分は第4順と私の椀から先に削る——答えはどれも即でどれも数字だった。最後にヴィムの嗄れ声が訊いた。


「……それで、足りるのかね。代官様」


「足りる算段を、今夜から始めますの。算段がつき次第、この板に貼ります」彼女は板を平手で一度叩いた。「貼っていないことは、まだ決まっていないこと。貼ってあることは、必ずその通りにすること。この板の決まりは、今日も変わりませんわ」


人垣はそれで散った。静かだった。静かというのがいちばん怖い返事の場合もある。


その日から、村の空気は底冷えのする方へ傾いた。


床板の下のパンの欠片がまた増え始めた。届け出ていた手持ちの豆を、出し渋る家も出てくる。夜の見回りで、納屋の陰の囁き声を二度聞いた。蕪の袋と、嫁入りの指輪の交換。咎める法はない。ないがああいう取引の値は、不安の高さの目盛りでもある。指輪ひとつで蕪ひと袋という値は、ふた月前の落ち着いた谷なら、誰も払わない値だった。


検めの小屋を出たばかりのベルタは、夜の水汲み場で荷の紐を握りしめていた。また峠を越える算段を、半分していたのだと思う。一度裏切られた土地から逃げ出した足は、裏切りの気配に誰より早く反応する。声を掛けると、女は紐から手を離して、言い訳みたいに笑った。板に貼ってあるんですよね、ほんとの数字が。前の谷じゃ、領主様の蔵は最後まで一度も開かなかった。開かないまま、あたしらだけが減っていった——ここは数字を貼る。だから、もう少しだけ待ってみます。そう言って、女は桶を提げて戻っていった。貼り紙一枚が引き留めた足が、あの晩、ベルタひとりだったとは思わない。


3日目の朝には川向こうの2家族が谷を出た。


合わせて12人。峠向こうに縁者がいるという。彼女は止めなかった。雪の街道の入り口で名前を順に読み上げさせ、帳面に線を引き、杭のところまで見送る。出ていく荷橇の上から、家の女房が一度だけ振り返って、何か言いかけてやめた。線を引かれた12の名前の頁を、彼女はその晩、いつもより長く開いていた。インクが乾いてからもずっとだ。


「……嘘をついていれば」と、俺は言ってしまった。「今夜のところは、誰も出ていかなかった」


「ええ」


「板の前の騒ぎも、納屋の取引もなかった。ブレヒトの言う通りだ。嘘なら、ただで済んだ」


「ただではありませんわ。後払いなだけ」彼女は頁を閉じた。「レンツ。私は領民に二つしか配れませんの。麦と、正確な数字と。麦が欠けた日に数字まで欠かせたら、この谷には何も残りませんわ」


買い出しの隊はヴェンツェルが率いた。


冬峠の道を知っているのが、皮肉なことに元賊のあの男だった。賊の冬は雪の峠の越え方を知らなければ始まらない稼業だからだ。供は3人、橇2台、綱と杭と雪洞を掘るための鋤。出立の朝、ヴェンツェルは段取りを一度だけ確かめた。行きは空荷で3日、ザルテンで1日、帰りは荷を曳いて2日半。日数を過ぎたら、と問うた彼女に、男は事もなげに答えた。過ぎたら俺たちは雪の下だ、二番手を出してくれ——その二番手の名簿まで、出立の前に紙で決まった。死ぬ場合の段取りを死ぬ本人と詰める雇い主と、詰められて顔色ひとつ変えない元賊。似た者同士というのは、ああいうのを言うのだろう。


路銀にはハイラムの預かり証が崩された。20年の銀は春の種麦になるはずだったのが、ひと冬早く火を噴いた勘定だ。彼女は形見の首飾りの残り半分と、最後に残った指輪も袋に入れた。検めの場でそれを見ていたハイラムが、煙草を咥えたまま言った。


「……石ころまで全部かい。春の元手はどうする」


「春までに、別の手を考えますわ。いまは9日の方が先」


「俺の銀に、利子はつくんだろうな」


「1割と、証文に書いてあります」


「なら文句はねえよ」古傭兵は、出ていく橇の尻を叩いた。「賭けた金だ。賭け場の采配は、胴元が決めな」


ヴェンツェルは6日目の夕方に戻った。


峠の見張りが先に旗を振って、報せは橇より早く谷を駆け下りた。広場に出てみると、配給の刻限でもないのに人が湧いて、雪の街道の上の黒い点をみんなで数えていた。橇が2台、人が4人。出ていった数と同じ数。橇の上の袋は麦が28袋。冬の峠値で、夏の倍はふんだくられたという。両替商は預かり証を渋り、宝石は石の目利きを呼ばれて半日待たされ、それでも最後は麦になった。ふんだくられても、麦は麦ですわ——員数を検めながら彼女が言って、ヴェンツェルが珍しく声を出して笑った。


9日の穴は埋まった。量りの2割減は市まで続けることにして、帳面の上の冬は、ようやくまたつじつまが合った。


合わなかったものを、俺は指を折って数えてみる。


母の形見が全部消えた。ハイラムの20年が、春を待たずに崩れた。谷を出た者、12人。全員の椀がこれからふた月あまり2割軽くなる。彼女の指は選り分けの帆布の上で何日も凍れた麦を握って、手袋の上からでも分かるほど、強張っている。正直の値段を全部足すと、ざっとそれだけになる。嘘なら、ひと言で済んだ。損もなく。今夜のところは。


そして、嘘なら買えなかったものも、数えておかないと勘定が歪む。逃げ支度の紐から手を離したベルタの夜。2割減の椀を黙って受け取り続けた、あの長い列。売り麦の触れに応じて、床板の下から出てきた豆の小袋がみっつ。どれも銀貨に換算できない品で、換算できない品ほど、この谷の冬には効いた。


それでも配給の列は崩れなかった。


2割減の最初の朝、列の中で誰かがこぼした泣き言に、ゲルダ婆さんが応えるのを俺は聞いた。あのお人の言う9日はね、ほんとうに9日なんだよ。多くも少なくもなく。だから待てるのさ。数字の嘘をつかない者の言う「足りる」は、信用していい「足りる」だからね——。


嘘をつかないという条文は、嘘をつかれないという一点でだけ、利息を払い戻してくる。ずいぶん高い積み立てだと思う。あの人は平気な顔で払い続けているが、平気な顔と、安い払いは別の話だ。


「配給線だけは、切らせませんでしたわね」


帳尻の合った晩、彼女はそう言って、ヴェンツェルの持ち帰った受け取りの証文に判を捺した。配給線。また、聞いたことのない言葉だった。けれど俺の目は言葉より先に、判を持つ手の方に行っていた。


手袋の縫い目の内側に、黒っぽい染みが滲んでいる。


判を捺す指が紙の上で、ほんのわずかに震えていた。寒さの震えとは違う震え方だった。

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