第18話「彼女の手袋」
手袋の染みのことを、彼女は3日はぐらかし続けた。
初日は優先順位の話が返ってきた。手当ての膏は数に限りがあって、霜焼けの子どもと水仕事の女房が先だ、と。2日目は職分の話だった。産婆の手は産み月の女房のためにあるもので、代官の指ごときに回す手間はない、と。3日目に俺がではせめて検めの仕事を誰かに、と言いかけると、帳面から顔も上げずに切り返された。
「指の代わりは膏で買えますわ。検めの目の代わりは、誰から買えと?」
問いの形をいくら変えても、答えの壁は同じ高さで立っている。あの壁は議論で崩れる作りをしていない。諦めかけた4日目の朝、壁の方が勝手に崩れた。
蔵の検めの刻限だった。
あの黴の一件から、彼女は毎朝、壁際の袋を自分の手で確かめる。湿りの兆しは手袋越しでは分からない。素手の指の腹でしか分からないのだという。その朝も彼女はいつも通り、検めの前に右の手袋の指先をつまんで引いた。
手袋がつかえた。
布が肌のどこかに貼りついている。彼女は顔色ひとつ変えずに、指の付け根の方から布を浮かせて、ゆっくりと剥がしていった。剥がし終わるまで、俺は息をするのを忘れていた。
出てきた手は俺の知っている手ではなかった。
指先が2本、凍傷で赤黒く色を変えている。節の皮は乾いて割れ、割れ目には血の固まった筋。掌の付け根には潰れた肉刺の痕が重なって、縄擦れの痣が手首まで続いていた。貼りついていたのは、破れた肉刺の汁が布に乾いたものだ。17の娘の手かどうかという話より前に、まず、貴族の手ではない。柄杓と縄と凍れた麦とペンが寄ってたかってこしらえた、働く者の手だった。
王宮の大広間で、この手は手袋の上から罪状を聞いていた。毒を盛った手、人を突き落とした手、と300人の貴族の前で読み上げられた手だ。あの日から数えて、まだ半年と経っていない。半年で人の手がここまで変わるところを俺は他に知らない。いや——変わったのではないのかもしれない。手袋の下でこの手が前から何を知っていたのか、俺は考えそうになって、やめた。考え出すと、黒タグの一拍の間まで、芋づるで出てくるからだ。
彼女はその手で袋の口を開け、麦に指を差し入れて、目を閉じた。指の腹で奥の湿りを読む、いつもの手順。検めは6袋。終わると、懐の麻布を裂いて指に巻き直し、手袋を嵌めた。それから、立ち尽くしている俺に気づいて、こともなげに言った。
「道具の手入れを怠りましたわ。この手は、いまこの谷でいちばん休ませにくい道具ですの」
「……道具」
「ええ。よく利く道具です」彼女は袋の口を結び直した。「指の2本くらい、勘定のうちですわ。あの朝、選り分けが半日遅れていたら、失ったのは袋10と、たぶん誰かの春でした」
思い返せば、兆しは前から転がっていたのだ。ペンの持ち方がいつからか指2本ぶん深くなっていた。燭台の蝋を替えるとき、右ではなく左を使うようになっていた。外套の帯の結び目は、秋より確かにひと巻き細い。ひとつずつは何でもない欠片で、拾い集めて並べる気が俺の方になかった。罪人の白い手、という王都仕込みの絵が、欠片を弾き続けていたのだと思う。
事実、その朝の検めで、彼女の指は新しい湿りをひとつ拾った。壁から3列目、外から見ればまだ何ともない袋の、奥の方のかすかな汗。袋はその日のうちに移されて、中身は広げて干された。手袋越しなら、見逃した湿りだ。指2本の代金で、袋10が生きている。あの人の帳簿では、その取引はたぶん黒字なのだろう。黒字という言葉の使い方として、正しいのかどうかは知らない。
俺はその足で産婆のところへ行った。
正面から行けば優先順位の壁に当たる。だから紙で行った。夜回りと夜番に立つ者全員へ、凍傷止めの軟膏を支給する——という届けの案を書いて、ハイラムに口添えさせた。夜番の指は谷の備えの一部で、備えの手入れは領の仕事だ、という理屈である。名簿には夜番の傭兵が7人、見回りの俺、そして毎晩蔵と広場を一回りする習いのあの人の名前が職名の順で末尾に載る。
彼女は名簿を一度だけ読み返した。
末尾の名前のところで、目が止まったのが分かった。指摘するか、削るか——どちらかだろう。彼女はどちらもせずに判を捺した。
「……理屈の立て方が、上手くなりましたわね」
後にも先にもその一言きりだ。褒められたのか釘を刺されたのか、いまだに決めかねている。
軟膏の支給は翌日の夕方、詰所で行われた。猪の脂に薬草を練り込んだ、産婆の手製の貝殻入りだ。受け取りには例によって名簿と判があって、傭兵たちは女子どもの塗り薬を順番に受け取らされる照れくささに、ぶつぶつ言いながら列を作った。指の薬で行列たぁ、傭兵稼業も焼きが回ったぜ。焼きが回って結構さ、凍えた指が回らねえよりはな——軽口の応酬の最後に彼女が並んだ。列のいちばん後ろで、夜回りの組の一員として、同じ貝殻をひとつ。受け取る手元を、詰所じゅうが見ないふりで見ていた。
見ないふりをしなかったのは、配り役の産婆だけだ。貝殻を渡すついでに、産婆は彼女の右手を断りもなく取って、手袋ごと裏返した。取り上げ婆というのは、貴族の手だろうが赤子の尻だろうが、検めるときは同じ手つきで検める人種らしい。代官様、これは膏だけじゃ追っつかないよ。夜は指を冷やしてから温める、布は湿らせて巻く。順番を逆にすると指が腐る。——あんた、順番にはうるさいんだろう。
詰所のどこかで、噴き出すのを噛み殺す音がした。彼女は手を引っ込めもせず、最後まで検めさせてから、頷いた。
「では、その手順を紙に書いてくださいまし。夜番の全員に配りますわ」
自分の指の話を、最後の最後まで全員の話に化かしきった。化かしきれていないことは、その場の全員が分かっていて、誰も指摘しなかった。
ゲルダ婆さんのやり口は、俺より一枚上だった。
数日後の届け分の編み物に、指なし手袋が31組あった。注文は30組のはずだ。帳面を繰る彼女に、届けを持ってきた婆さんはしれっと言った。
「数え違いじゃないよ。30は注文の分。31組目は採寸が違うのがひとつ——あんたの分だ。手が小さいからね、目を詰めて編んである」
「注文にない品は、受け取れませんわ」
「受け取るも何も、もう帳面に載ってるよ。座り仕事31組ぶん、第1の順。削るってんなら、婆の日当を削ることになるがね」
帳面に載っている、の一言で勝負はついていた。自分の作った仕組みの中でだけ、あの人は退路を断たれる。彼女は31組目を検めて、編み目を窓明かりに透かして、長いこと黙っていた。
「……目が、詰んでいますわね」
「夜番の指が凍えずに済むんだろ」婆さんは杖を取った。「なら、代官の指もだ。同じ帳面の、同じ夜回りなんだからね」
その晩から、彼女の夜回りの手袋の上に、ほどき糸の指なしが重なった。革手袋に古毛糸という不揃いな取り合わせを、本人は気にする様子もない。広場の見回りですれ違う夜番の傭兵たちと、同じ取り合わせだからだ。
夜回りの谷は昼とは別の生き物だ。雪を踏む音がふたり分、角灯の油のにおい、家々の戸の隙間から漏れる埋み火の赤。蔵の前まで来ると、彼女は袋の列をひとつずつ叩いて、音の鈍いのがないかを確かめていく。古毛糸の指なしを嵌めた手が、角灯の明かりの輪の中で上下するのを、俺は半歩後ろから見て歩く。
見ながら、考えることが変わってきたのを認めないわけにいかなかった。
王都を発った朝、俺はあの人の手袋を、罪人の白い手を隠す布だと思っていた。毒を盛り、人を階段から突き落とした手を包む、上等の革だと。ザルテンの溜まり場で、握手を出しかけたハイラムがあの手袋を見て何か言いかけ、やめたときも淑女の見栄か何かだと思っていた。いま思えば、20年人の手を見てきた傭兵は、あの時点で革の下を疑っていたのかもしれない。いまその革の下にあるのは、凍傷と肉刺と縄擦れで、つまりこの谷がこの冬まだ一人も埋けていないことの領収の証文みたいな手だ。罪状の紙は彼女を毒婦と書き、俺の月次報告は数字を書き、あの手はどちらの紙より口数多く真実を喋る。自分を例外にしない、と紙に書くのは簡単で、書いたとおりに指の色を変えていく人間を俺は他に知らない。
知らないからこそ、底が知れない、とも言える。凍傷は防げたはずだ。検めを人に任せ、夜回りを減らし、配給を列の先頭で受ければいい。それをしない理由を、忠義だの責任感だので説明すると何かが余る。あの人は手の傷み方まで、何かの帳尻に使っている気がしてならない。何の帳尻かは知らない。知らないことがまたひとつ増えただけだ。
月次報告の下書きで、俺のペンは久々に長いこと止まった。
代官の健康に関わることは、王都には値千金の情報だ。流刑の小娘が倒れかけている、と読めれば、連中は喜んで次の手を打つ。書かないという手が頭をよぎって、ありのままに、という声がそれを上から押さえた。書かないのは嘘ではない、とヨーゼフ司祭なら言うかもしれない。だが俺はあの蔵の前で答えを聞いている。すべてを告げない静けさは後払いの嘘だ。利息はばれた日にまとめて来る。
結局、俺は事実をそのまま書いた。代官は蔵の検めと夜回りを自ら行い、その手に凍傷を負っている。手当ては夜番の支給と同列。執務に支障なし。配給は2割減のまま一日も欠けていない。領内に餓死者なし——。
書き終えて読み返すと、妙なことに気づいた。事実だけを並べたはずの紙が、どう読んでも、告発状には見えない。むしろ逆の側の——弁護人の調書か、従士の血判のような顔をしている。あの手の話をありのままに書くと、紙は勝手に、別のものになっていく。それが何という種類の文書なのか、俺はまだ名前をつけずにおいた。名前をつけたら、王都とこの谷のどちらかに、けりをつけることになる気がした。
古毛糸の手袋と猪脂の膏で、指の色は、ゆっくりとだが戻り始めた。検めの素手の手順だけは、産婆が何を言っても変わらなかった。湿りは指でしか分からない、の一点張りで、そこだけは膏より固い。産婆は最後に匙を投げて、ゲルダ婆さんに告げ口をした。婆さんの返事がふるっている。あの手はね、あんた、治す手じゃないよ。保たせる手さ。冬のあいだ、保ちゃあいいんだ——治すと保たせるの違いが分かる女がふたりがかりなら、あの指は春まで保つだろう。
数日後の昼、広場に荷橇の行商人が立った。
例の塩売りとは別の、初顔の小間物屋だ。噂を聞いて峠を渡ってきたという。店を広げながら、男は人垣に向かって、商人の世間話の調子で訊いた。
「時に、あんた方の代官様ってのは——どういうお人なんだね」
人垣が妙な間で静かになった。
誰もすぐには答えなかった。答えられないのではなく、誰の口の中でも、言葉が多すぎて詰まっている。そういう顔が鍋の湯気の向こうに並んでいた。




