第19話「笑わない領主」
最初に口を開いたのはテオだった。
「……笑わねえな、まず」
小間物屋の問いへの答えとしては、ずいぶん変な入り口だったと思う。だが人垣はそれで栓が抜けた。笑わねえ。怒鳴りもしねえ。声がでかくなったのを聞いたことがねえ。粉挽きの女房が続けた。嘘を言わないよ、あのお人は。いいことも悪いことも数で言う。グンナルは腕を組んだまま一言だった。量りが狂わねえ。ヴィムは火の番の場所から、椀をひとに運ばせるなと俺に言った話を、自慢みたいに披露した。
ベルタは小さい声で、書いてあることが、書いてある通りになりますと言った。それのどこが珍しいのかね、と小間物屋が笑い、人垣は笑わなかった。書いてあることが書いてある通りにならない土地から来た者には、何も珍しくないものなど、この世にひとつもないのだ。
通りかかったヴェンツェルの評だけは毛色が違った。元賊は荷紐を肩に掛け直しながら、買い手に教えるような声で言った。あの人はな、商人さん、敵に回すといちばん高くつく相手だよ。なにせ、こっちの命の値段まで先に帳面に書いてある——褒めているとしか思えない言い方で、聞いた小間物屋だけが薄ら寒そうな顔をしていた。
「つまり、何かい」小間物屋は荷の紐を解きながら笑った。「お堅い帳面屋の代官様、ってことかね」
「そうとも言えるがね」ブレヒトが、村長の顔で割って入った。「まあ、その……うちの代官様は、よそとは物差しが違うんでございますよ」
うちの。
人垣の誰も聞き咎めなかったが、俺の耳は、その二文字に引っかかった。代官様、はお上の呼び名だ。役職が来て、役職が去る。うちの、は別の棚の言葉だ。鍬や、水車や、谷の名前と同じ棚。いつの間に移したのか、移した当人たちも気づいていない顔で、湯気の向こうに並んでいる。
小間物屋は結局その日のうちに荷を売り切って、帰り際、俺にだけ商人の顔で言った。妙な谷だね、騎士様。どこの村でもお上の話を振れば、出るのは愚痴と相場が決まってる。ここの連中は——自慢をしやがる。それも笑わないだの量りが狂わないだの、自慢の口ぶりで言うことじゃないものばかりだ。商売柄、人の懐は読めるつもりだがね、ここの連中の懐は読めるのに見たことがない形をしてるよ——。
子どもらの遊びを見たのはその翌日だ。
広場の隅に、雪で固めた竈もどきと欠け椀の列。配給ごっこ、というやつだった。量り役の子が木べらで雪の粥を掬う真似をして、並んだ子が順に椀を出す。仕切っているのはベルタの長男のヨーンで、驚いたことに、列には順番までついていた。雪搔きを手伝った子が第1の順。チビは第2の順。割り込んだ子は列のみんなから「届けは出したか」と詰められて、べそをかきながら最後尾へ回されていた。雪の上に炭で引いた線が、たぶん帳面のつもりらしい。そして列のいちばん後ろにリナがいた。継ぎだらけの外套の襟を立てて、口を一文字に結んで、つんと前を見ている。
峠を越えて来て、まだひと月かそこらの子どもらだ。前の谷では配給という言葉すら知らずに育ったはずの子らが、いまは遊びの中で順番を作り、椀の数を数えている。子どもはその土地でいちばん強い力の真似をする。剣の谷では棒切れを振り、王都の路地では断罪ごっこをやる。この谷の子は列に並ぶ。
「リナは何の役だ」と訊くと、ヨーンが当然の顔で答えた。
「代官様。いちばん後ろで、笑わねえ役」
笑わねえ役。本人が聞いたらどう思うか——と考えていたら、本人が通りかかった。
蔵の検めの帰りだった。彼女は子どもらの竈の前で足を止め、椀の列と雪の粥と最後尾のリナを順に見る。子どもらは固まった。叱られると思ったのだろう。彼女は屈んで、竈もどきの鍋を覗き、それから量り役の子に言った。
「その鍋の嵩で、その頭数なら、椀は七分で量りなさい。八分で注ぐと、最後のふたりが欠けますわ」
それだけ言って、歩いていった。子どもらはしばらくぽかんとして、それから蜂の巣をつついたみたいになる。ほんものに直された。ほんものがおれたちの鍋を直していった——。リナだけが列の最後尾で、あの人とそっくり同じ角度に顎を上げたまま、笑うのを我慢していた。役の上で、笑ってはいけないからだ。
夕方、その話はベルタの耳に入って、母親は青くなって館へ詫びに来た。子どもらが恐れ多くも代官様の真似を——詫びの口上は、取り次いだ俺のところで止まった。彼女に上げるまでもない。あの人は竈の前で足を止めたとき、咎める素振りなど露ほども見せなかった。それどころか、量りの間違いだけ直して、遊びには指一本触れずに行った。子どもの遊びの帳面にまで、あの人なりの礼の払い方をしたのだと俺は思っている。ベルタには椀が七分の理由を聞いてやってくれ、とだけ言って帰した。リナは母親に、最後のふたりが欠けるんだよ、と大真面目に講釈したそうだ。
笑い話のようで、俺は少し、笑いそこねた。遊びというのは子どもが世界を写す鏡だ。断罪ごっこでも魔女ごっこでもなく、この谷の子どもは配給ごっこをする。順番を作り、量りを検め、いちばん偉い役を列のいちばん後ろに置く。あの雪の竈の周りでは、彼女の物差しがもう、生まれつきの世界の形になっている。
揉め事の方は馬橇の馬方が持ち込んだ。
峠の荷継ぎで雇われた、よその街道筋の男だ。詰所で酒が入ると声がでかくなった。罪人の女代官の谷とはな。王都で何をやらかしたか、俺ぁ聞いてるぜ。毒だの何だの、お貴族さまの猫かぶりだの——。
俺はちょうど見回りで居合わせて、剣の柄に手が動きかけた。動かす前に、詰所の空気の方が先に変わった。テオが立ち上がって、黙って薪を抱えて出ていく。火の世話を放り出された竈が、それきり継ぎ足されない。卓を囲んでいた村の男たちが、ひとり、またひとりと杯を置いていく。誰も男を見ないまま、男の周りだけが船底の浸み水みたいに静かになった。怒鳴り返す者がいれば、馬方にも引き際があったろう。沈黙には引き際の取っ手がない。男は最後のほうは独り言の声になって、やがてそれもやめた。
殴り合いにはならず、代わりに、もっと底冷えのするものになった。翌朝、馬方が飼い葉を買おうとすると、どの納屋も売り渋った。在庫がない、と言う。あるのは俺も知っている。宿の薪も湯も妙に出てこない。村じゅうが申し合わせたわけでもないのに、申し合わせたのと同じ顔で、男ひとりを凍えさせにかかっていた。
裁いたのは彼女だった。
「飼い葉を売りなさい。相場で」
板の前に呼ばれたのは、馬方ではなく納屋の主たちの方だった。彼女は帳面も開かずに続けた。
「あの男の口は、確かに下品ですわ。ですけれど、あの橇は峠の荷を運びますの。荷は塩と、針と、麦の値の報せ。この谷は、街道に生かされている谷です。口の悪い馬方を一人凍えさせて、橇の足が遠のけば、高くつくのは私たちの方」彼女はそこで、納屋の主たちの顔を順に見た。「私のために誰かを凍えさせることを、私は許可した覚えがありませんわ」
「で、ですが代官様、あの男はあんたを——」
「毒婦と呼びましたわね。査問の場では、もっと立派な言葉で呼ばれましたのよ」声の高さは、最後まで変わらなかった。「呼び名は荷を運びません。橇は運びます。売りなさい」
飼い葉はその日のうちに売られた。馬方は何が起きたのか半分も分からない顔で、それでも出立の橇の上から、広場の板に向かってぎこちなく帽子を上げていった。人垣のだれかが鼻で笑って、笑いはすぐに消える。庇われたのが自分たちの誇りではなく、谷の配給線の方だということくらい、もうみんな分かっているのだ。
夕方の館の裏で、鵞鳥どもが静かだった。
知らない足音には首を伸ばして喚く連中が、彼女の足音にはもう、嘴ひとつ上げない。番犬代わりの鳥の帳面にまで、あの人は載ってしまったらしい。
思えば、この冬のあいだに谷の言葉が変わった。魔女、と囁かれた秋。粉挽きの女房の囁きには、得体の知れないものへの怯えがそのまま入っていた。代官様、と呼ばれた初雪のころ。あれはお上の呼び名で、距離の取り方の呼び名でもあった。そしていま、うちの代官様、だ。恐れが畏れに変わり、畏れの横に、所有の二文字がくっついた。
順番を経ずにここへは来ない。最初に物差しの冷たさに竦み、次にその物差しが一度も狂わないことを知り、最後に狂わない物差しが自分たちの側を向いて立っていることに気づく。竦んだ者から順に、呼び名が変わっていった。誰も改心させられていない。誰も優しくされていない。説教も涙も抱擁も、この谷にはひとつもなかった。あったのは貼り紙と、量りと、楡の縄と空の墓だけだ。それでこれである。王都の教本のどこを繰っても、こんな治め方は載っていない。教本を書いた連中は、たぶん、ほんとうに飢えた谷を見たことがないのだ。
その晩、書き溜めていた下書きを起こして、月次の報告を清書した。
事実はいつも通りに並んだ。蔵の損耗と買い足しの顛末。配給2割減、餓死者なし、流出12名と流入19名。傭兵1名、契約を解いて南方へ。代官は手に凍傷。領兵頭ハイラムと年雇いの契約、貸借の証文1通。ここまではペンは走る。走りながら、書いている自分の手が、もう前ほど冷えないことにも気づいている。机の上には採寸の合わない31組目とは別の、夜回り用の指なしが一組。婆さんたちの帳面は、いつの間にか俺の指まで勘定に入れていた。
止まったのは最後の一段だった。領民の様子を記せ、というのが書式の決まりで、俺はそこにいつもなら一行で済む文句を置く。領民は平穏である。今月もそう書けば済む。済むはずなのに、書きかけては違う、と思う。平穏。従順。敬服。どの言葉も半分嘘で半分足りない。雪の竈の最後尾でつんと顎を上げていたリナの顔と、飼い葉を売れと言われて頭を下げた納屋の主たちの顔は、平穏や従順の頁には収まらない。
気づくと俺は書いていた。
『領民は代官を、うちの、と呼び始めている』
書いてから、長いことその一行を眺め、これが王都の机でどう読まれるかを考えた。流刑の罪人が領民の心を握りつつある——そう読む連中の顔まで見えた。あの人を谷へ流した理屈が「失敗して当然の土地で失敗させる」だったなら、失敗しないことそれ自体が、もう次の罪状の下書きになる。まして、慕われ始めているとなれば。事実をありのままに書く、という俺の役目は、この一行を境に刃の向きが変わる。事実が彼女を刺す側に回る。
俺は墨を含ませて、その一行を塗り潰した。
事実をありのままに、と誓った紙の上で、初めて消した事実だった。塗り潰した黒は蝋燭の灯りの下で、乾くまでずいぶん長いこと光っていた。
窓の下を、子どもらの数え声が通っていく。配給ごっこの帰りらしい。1、2、3と椀を数える節回しが誰の真似なのかは考えるまでもなかった。
笑わない領主の谷で、子どもらだけが笑いながら、彼女の数え方で数を数えている。
俺のペンはまだ重いままだった。




