第58話「ヴェルデンの春」
峠を下り切ったとき、谷はもう夕餉の後だった。
杭の線の手前に、見覚えのある影がひとつ立っていた。ヴェンツェルだ。元賊は列を端から端まで目で数えて、それから顎を引いた。
「32。出てった谷の頭数と、代官様と騎士様で、帳尻が合ってる」数え終えた声から、わずかに息が抜ける。「……うちの谷にしちゃ、上出来の遠出だ。留守は固かったぜ。固すぎて、退屈なくらいにな」
言い添えて、元賊は杭の線の外へ、夜の見回りに戻っていった。
村の道には夕餉の後の連中が三々五々出てきていた。歓声はここにもない。おかえりの代わりに飛んでくるのは、明日の触れはどうなさる、という声だ。通常の割りですわ、とあの人は歩きながら答えた。それで谷は納得して、めいめいの戸口へ散っていく。館の前ではブレヒトが留守の綴りを抱えて立っていて、口上より先に綴りを差し出してきた。ひと月の留守を預かった男の顔は、俵をひとつ下ろしたばかりの顔だ。
詰所の前ではハイラムが待っていた。
「遅かったな、騎士様。王都の飯はうまかったか」
「薄い麦酒が、谷の4倍の値でした」
「そりゃ王都だ」古傭兵は喉の奥で短く笑い、笑いを引っ込めて、あの人に向き直る。「お頭。留守の帳尻、検めな。兵の出入り、蔵の出入り、峠の見張りの控え。全部揃えてある」
「明日の朝に」と、あの人は答えた。「今夜は、触れの検めが先ですわ」
見張りの控えには、留守中に峠へ掛かった影の数まで書いてあった。行商が3、巡礼が2、正体の知れない斥候風がひとつ。ひとつの方は翌日の朝には峠から消えていたという。消えた理由は書きようがない、とハイラムは言った。書きようのないものを気に掛け続けるのが見張りの仕事だ、とも。
沙汰の中身は先触れと一緒に板に貼られていた。死罪なし。以後、即決の刑は権外。捕えて王都の沙汰を待つべし——貼り出された紙の前で、谷の連中がどんな顔をしたのかは俺は見ていない。ハイラムは検めの帳面を卓に積みながら、その話を自分から出した。
「触れは読んだ。で、お頭。次に峠から下りてきたら、どうする」
「捕えますの。殺さずに」
「難しい注文だぜ。殺すより、生かして捕える方が高くつく。兵の傷も増える」
「ですから、高い方の段取りを組みますのよ」あの人は卓の図面を開いた。帰り道に引いていた、あの図だ。「檻と、のろしと、見回りの3交替。捕えた者をひと月養う蔵の枠も、今年から見込みますわ。勘定が変わりましたの。変わった勘定で、守りますわ」
「峠の向こうにも、もう知れてるぜ」と、ヴェンツェルが壁際から言った。「谷の刃が、鞘ごと取り上げられたことはな。俺が賊なら、値踏みをやり直す。安くなったと踏む馬鹿が、いつか必ず出る」
「出たときに、高くつくと教えますの。……殺さない教え方で」
元賊は口の端だけで笑って、それ以上は言わなかった。二度目を与えない、を誰より正確に理解してきた男が、二度目を殺さずに折る算段の側へ回る。谷の守りの図は引き直された。引き直された図が本物かどうかは、次の冬が検めることになる。その一点だけが帰ってきた谷の夜気の中で、小さく尖ったまま残った。
新麦の初荷は帰り着いて8日目に蔵へ入った。
朝から、量り場に人垣ができている。荷車の俵が下ろされ、目方が皆の前で読み上げられ、ヴィムが板に書き取っていく。書き出しの9の字が、癖のない9に直っていた。書き癖は罪ではありませんの、と言われた男は、それでも一晩で字を直してきたらしい。俵の口が解かれると、量り場いっぱいに新麦の匂いが立った。乾いた、粉になる前の、青みの残る匂いだ。子どもらが俵に触りたがって、検めの列の後ろに自分たちの列を作っている。先頭の子が俵に手を入れて麦を掴み、掴んだ手を開いて皆に見せた。減っていないことを見せる作法まで、遊びの中に入っている。
あの人は1袋だけ抜き検めをした。手袋の指で麦粒をつまみ、割って、断面を見る。
「乾きが浅い俵が混じっていますわね。北側の畑の分でしょう。蔵の風上に積んで、ふた回し先に使いなさい」
祝いの口上はない。初荷の麦は今日から粥に入るのではなく、順の日を待って入る。それでも量り場の空気は、俺が谷で吸ったどの朝の空気とも違った。蔵に麦が入っていく。ひと冬ぶん、まるごと。搬入の列に並んだ男たちの背中が、俵の重さを嬉しがっている。重いものを担いで嬉しがる背中というのは、飢えた谷には無いものだ。粉挽き小屋の水車は、この日から回りっぱなしになった。挽きたての粉の匂いが川風に乗って、谷の道という道へ届く。
初荷からはハイラムへの最初の返済分も量り取られた。
年払い、秋の刈り入れから現物で。あの冬の証文の条文どおり、字の読める立会いを2人置いて、俵が4つ詰所の蔵へ運ばれていく。傭兵が20年分の銀を張った賭けの、最初の配当が麦で払われたわけだ。ハイラムは受け取りの判を捺して、俵のひとつを平手で叩いた。
「利子は上物だな。……両替商の蔵じゃ、こうはいかねえ」
「両替商の蔵は、匂いませんものね」と、あの人は言った。証文の写しは、例によって広場の板に貼られる。貸しと返しが皆の目の前で帳尻を合わせるのを、谷はもう見慣れた顔で眺めていた。
埋め戻しは翌る朝と決まった。
墓地の坂を谷じゅうが登る。30の列のうち、土饅頭がふたつ。アルマ婆さまとヤーコプ。残る28の窪みが、ひと冬のあいだ口を開けたまま待っていた場所だ。埋め戻しの組割りは板に貼られ、土運びは畑の組がそのまま請けた。
ヨーゼフ司祭が最初の土の前で祈りを唱えた。使われなかった墓穴のための祈りの文句というものは、聖典のどこにもないそうだ。だから司祭は収穫の感謝の文句を少し作り替えて使った。誰も咎めない。祈り終えた司祭は、俺の隣まで下がってきて、汗を拭きながらこぼした。
「……使わなんだ墓穴のための祈りはな、騎士殿。わしの生涯で、いちばん贅沢な祈りじゃったよ」
あの人は祈りの輪の外に立って、帳面を開いていた。埋葬のときは10歩離れて立つ人が、埋め戻しの朝は列のいちばん近くに立っている。その距離の差が何なのかは、誰にも訊かないことにした。祈りが終わるのを待って、ヴィムが板に書き付ける。
墓、28。使わず。埋め戻し——。
鋤が入って、土が窪みへ落ち始めた。ひと冬前、この窪みを掘らせた人を、谷は薄気味悪がった。冬の死者の見込みで墓を先に掘る代官。30という数字の冷たさを、俺もあのとき、背中で感じた側だ。いま、その30のうち28が、誰も入らないまま埋まっていく。
土運びの列にはヴェンツェルと残党の兵たちも並んでいた。賊として峠を越えてきた男たちが、賊の襲来の年に掘られた墓を埋めている。誰もそれを妙だと言わない。谷の帳面ではあの連中はとうに雇い兵の頁に載っているからだ。子どもらが埋め立ての土の上を踏み固めて回る。踏むたびに小さく跳ねるのは、遊びと仕事の区別がついていないからだ。ついていないまま、この子たちはこの谷で育っていく。
ゲルダ婆さんは列の中ほどの窪みの前に立っていた。
「あたしゃね、ここに入る算段だったんだよ。ひと冬前はさ」婆さんは杖の先で、埋まっていく土を軽く突いた。「4順位の年寄りが冬をふたつ越すなんて、誰が勘定した。……あの人だけだよ、騎士様。あたしを勘定に入れた帳面は、あれが最初さ」
埋まった窪みの縁で、子どもがひとつ転んで、泣かずに起きて走っていく。転んでも掘り返されない土になった、ということだ。
空のまま埋め戻す墓がいちばん上等だと、婆さんは王都の壁の下で子どもに教えていた。その上等がいま目の前に28並んでいる。土の匂いの向こうで、鵞鳥の汁で太ったマルコの倅が、母親の背で手足を振り回していた。あの冬に生まれて、あの汁で持ち直した子だ。墓になるはずだった土の上で、墓に入るはずだった婆さんと生まれてこられないはずだった子が、同じ朝日に当たっている。
列の端で、ハイラムが立ち止まった。
30番目の枠。あの男が掘り賃を前払いした予約席も、他の27と同じに土が入って、色だけが新しい。古傭兵は埋め立ての縁を靴の先で軽く均して、あの人に声を投げた。
「お頭。俺の予約席まで、埋めちまったんだな」
「予約は場所に付けてありますのよ。穴には、付けておりませんわ」あの人は帳面から顔も上げない。「入り用の日が来ましたら、掘り直させますの。掘り賃は前払いで頂いておりますもの。……ずいぶん先の予約ですこと。台帳の繰り越しが、手間ですわ」
「利子は払うぜ」ハイラムはにやりともせずに言った。「なに、急かしゃしねえよ。ここの帳面は、待たせても踏み倒さねえのが取り柄だ」
土は入っても名前は入っていない。列の端は台帳の上で空のまま、待っている。それがこの谷では脅しでも縁起でもなく、ひとりの傭兵の隠居の算段だということを、俺はもう笑わずに聞ける。
埋め戻しの日に合わせて、北から入った新参の17人には畑の割りが出た。
来年からは自分の畝を持つ。検めの小屋の帳面から畑の帳面へ、ベルタが母子の名を書き写していた。頁を移る、というのはこの谷では身分が変わるということだ。母親は写し終わった行を指でなぞらせてもらって、字が読めないなりに、長いことなぞっていた。
暦の上では夏の終わりだった。
だが谷の連中はこの2日をたぶん別の名前で覚える。蔵に麦が入り、墓が空のまま埋まった日。刈り入れの終わった畑に、もう来年の話が転がっている日。ヴェルデンの春と呼ぶほかに、俺には呼びようがない。ひと冬前の秋、煮炊きの煙が数えるほどしかなかった谷の、これが春だ。遅れて来た分だけ、根の深い春だ。辻の楡は夏の葉を茂らせたままで、その下を子どもらが走って通る。あの木の下で何があったかはみな知っている。知っていて、走って通れる。それがこの谷の、木との付き合い方だった。
夕方、触れの板に明日の組割りが貼られた。
配給の順。畑の組。檻の普請の人繰り。読み上げるヴィムの声に、子どもらの数え唄が重なる。唄の文句は少し増えていた。椀のあとに、俵の目方の節が足されている。作った者の名は誰も知らない。谷の唄は谷の帳面と同じで、要る分だけ勝手に育つ。板の前の人だかりは、貼られた数字を検めて、検め終わると散っていく。谷の明日が板に貼れる数で決まっている。それがどれだけの値打ちか、この谷はもう、誰に教わらなくても知っている。
館の執務室には夜、いつもの灯りが点いていた。
あの窓の灯りの下で、今夜も帳面が1頁進む。谷の紙は続いている。俺は詰所へ戻る道すがら、月次の紙のことを考えていた。宛先のなくなった紙の、次の宛先を。考えても答えはひとつしか浮かばない。浮かんだ答えの検めは、明日あの人に出すことにした。




