第57話「帰り道の静けさ」
門は日の出とともに開いた。
見送りはない。触れも出ない。王都は昨日まであれだけ騒いだ話の結末を、朝のうちに屋台の噂へ払い下げて、もう次の醜聞の仕入れにかかっている。開いた門をくぐって出てきたあの人を迎えたのは、畳み終えた竈の跡と荷積みの済んだ荷車と、椀の数を数え終えた谷の連中だった。
「代官様」と、ゲルダ婆さんが言う。「帰り道は、6日だよ」
「6日ですわね」と、あの人は答えた。「初日の割りを、見せてくださいまし」
再会の口上はそれで終いだ。婆さんが帰路の組割りを読み上げ、あの人が2箇所だけ順を直す。膝の悪い年寄りの車は、川風の当たらない側へ。子どもの椀の順は、歩き始めの朝だけ先へ。直す理由は言わない。言われなくても直された側が読める順だった。
門を出るとき、例の若い門番が槍を立てたまま婆さんに目礼した。節は覚えたかい、と婆さんが訊く。覚えました、と門番が答える。王都の門は谷の唄をひとつ、関所代に取ったことになる。
荷車が動き出した。一年前にこの街道を下った護送は、御者2人と護衛2人と俺の侘しい頭数だった。いま峠へ向かう列には52人がいて、そのうち武器を持つ者は俺ひとりしかいない。武器を取らずに王都まで歩いて、武器を取らずに主を連れて帰る。谷のやり方は行きも帰りも変わらなかった。
列は日ごとに軽くなっていった。
往路で加わった街道の者たちが、村に差しかかるたびに離れていくのだ。2日目の辻で3人、夕方の橋で2人。別れの口上はどこも似ていて、大げさな言葉はひとつもない。うちの村でも板を貼り始めましたで。目方は皆の前で量りますで——それを聞くたび、あの人は同じことを訊いた。順は貼りましたの。誰が検めますの。答えられた村の者は頷いて帰り、答えに詰まった者は、宿題を持たされた顔で帰っていく。4日目の朝に離れた石工の男は、別れ際に列へ深く腰を折った。一年前に検めの小屋で椀を受けた男だと後で婆さんに聞いた。受けた椀の目方を男は覚えている。覚えた目方ごと自分の村へ帰っていくのだ。
婆さんは夕方ごとに頭数を数え直した。52が49に49が44に。数が減っていくのに、帳尻の合わない欠け方がひとつもない。減った分はどこかの村の竈の前に戻っただけだ。行きに膨らんだ数が、帰りに村々へ返っていく。ふた冬前の街道は、飢えて谷を出る者が歩く道だった。いまは生きて村へ帰る者の道になっている。
2日目の夜営には、谷からの早飛脚が着いていた。
留守中の板の写しがひと綴り。あの人は焚き火の脇に腰を据えて、その場で検算を始めた。配給の順、量りの検めの控え、蔵の出入り。頁を繰る速さは谷の執務室と変わらず、火明かりが足りないと言う代わりに、写しの束を火の側へ寄せさせる。半分ほど繰ったところで、指が1行に止まった。
「ヴィムの9ですわね、これ。7に見える書き方をしますの」
写しを俺にも見せる。言われてみれば、癖の強い9だった。麦2袋ぶんの読み違いが起こりうる字だ。
「直させますわ。罰は、要りませんの」あの人は指図の紙にペンを走らせた。「狂いは、隠されなければ直せますのよ。書き癖は、罪ではありませんわ」
留守を預かった谷の帳尻は、その1字の癖を除けば、末尾まで合っていた。合っていましたわ、とあの人は言わない。何も言わないことが、あの人の採点では上出来の印だということを、谷の連中はとっくに知っている。写しの末尾にはブレヒトの手で言付けが添えてあった。帰任の日取り、決まり次第先触れを乞う。墓の埋め戻しの支度、済み——谷は、帰る日の段取りを先に組んで待っている。
3日目の宿場は覚えのある町だった。
一年前、店の半分が板を打ちつけて閉まっていた街道の宿場だ。いまは板の外れた店が増え、麦を積んだ荷が店先に下ろされている。宿の主人は紋のない一行をひとわたり眺め、それから藍の上着に目を留めて、指を折る仕草のまま固まった。
「……あんときの。麦の値段を、3年ぶん訊いてった」
「ええ。今年の値を、伺いますわ」
主人の答えた値は一年前の半分。南の谷に麦が戻り、ヴェルデン向けの荷を扱う商人が3人に増えた、と主人は言った。売っても払えるものがなかった谷が、いまは冬の前に前金で買う。銀貨を余分に置こうとするあの人に主人は首を振った。情報の代金は要りませんや、と笑う。うちの店の量りも、いまは客の前で検めるんでさ。その分、客が増えた。教わった商いの礼ってことで——。
あの人は銀貨を仕舞い、代わりに帳面へ商人の名を3人ぶん書き取った。谷の蔵の、来年の仕入れ先の欄だろう。恩には恩を、という受け方をあの人はしない。名前と数字で受け取って、名前と数字で返す。主人はそれで満足そうだった。この宿の主人はこの一年で、あの人の礼の作法を覚えたらしい。
夜営はどこで張っても同じ手順で組まれた。荷車を風上に火はふたつ。寝る順は年寄りと子どもから風下へ。行き合う旅人が遠巻きに眺めては、どこの隊商かと訊いてくる。谷だ、と答えるのにも慣れた。それ以上を訊き返した者は、6日の道中でひとりもいない。歩き方と椀の並びが、口上の代わりをするのだと思う。
4日目の夜営で、俺は火の番をしていた。
夜半、街道の下手で枝の折れる音がした。体が先に動く。剣の柄に手が掛かり、火から離れて音の方へ半歩——荷を担いだ炭焼きの親子が、月明かりの街道を歩いていくだけだった。手を柄から外して、俺は自分の指を見下ろした。
峠の向こうから来る足音を、これからの谷は昔の手では止められない。捕えて繋いで、早馬を出して、ひと月。夜の物音ひとつに、ひと月の勘定がぶら下がる。焚き火に戻ると、ゲルダ婆さんが起きていて、俺の顔をひと目で読んだ。
「……刃のことかい」
「音のたびに、考えると思います。これからは」
「考えな」婆さんは火に枝を足した。「考える役が要るから、あんたが谷にいるのさ。あの人はもう算段を始めてるよ。檻だの蔵だのって、寝る前に若いのと図を引いてた。取り上げられたもんを数えて嘆く暇があったら、残ったもんで組み直す。あの人のやり口は、椀でも刃でも同じさね」
嘆く、という字は、たぶんあの人の帳面のどこにもない。あるのは失ったものの欄と、それでも要るものの欄だけだ。婆さんの言うとおり、翌朝のあの人は荷車の脇でヴィム宛ての指図を書いていた。杭の線の見回りを2交替から3交替へ。峠の見張りに、のろし柱を1本足す。刃の代わりに、目と足を増やす図だった。
5日目の昼、楢の木が見えてきた。
街道脇の、あの楢だ。夏の終わりの葉が厚く茂って、枝の影が道の上まで届いている。マルテン爺さんを埋めた盛り土は、ひと冬の草に馴染んで、もう道端の膨らみにしか見えない。列が差しかかると、あの人は荷車を止めさせた。
「四半刻、休みなさい」
そう言って、ひとりで楢の根元へ歩いていく。俺は少し迷って、後ろについた。あの人は盛り土の前で帳面を開き、頁を繰った。死の帳簿の、最初の方の頁だ。覗くつもりはなかったが目が勝手に拾った。
名、マルテン。齢、60ばかり。秋。護送の街道。死因、矢。
載っていたのか、と思った。谷に着く前の死者だ。あの人の谷の帳面は、着任の日からだとばかり思っていた。管理の責、という言葉を、俺はまた寸法違いで測っていたらしい。あの人の管理は蹄鉄を4本に替えなさいと言った日から始まっていたのだ。その勘定の最初の1行に、この盛り土が載っている。
「未払いは、ありませんわね」
あの人は頁を見たまま言った。俺への問いだと、少ししてから気づいた。
「遺族への金は、届いています。若い御者が、届けを寄越しました。……妻子は、南の親類の村で無事だと」
「結構」
帳面が閉じられる。悼みの言葉はない。祈りもない。あの人は盛り土に向かって、蔵の検めを終えたときと同じ角度で、わずかに顎を引いた。それきり荷車の方へ戻っていく。俺は楢の下に、もうしばらく残った。
この木の下で俺は誓った。この剣は王国のものだ。あの人のために抜く日は来ない——来ないはずだと。それから、あの日が来た。剣はあの人のために抜かれ、あの人のために納められた。王都まで歩いて、いま鞘の中で帰り道にいる。護送役として下った街道を、護送役ではない何かとして上っている。王都の紙は俺の名乗りを書いてくれなかったが、書いてもらう必要はもうなかった。
俺は剣帯を締め直した。誓いを言い直す言葉は要らない。締め直す手がそれだった。頭の上で楢の葉が鳴っている。一年前と同じ音だ。同じ音の下に立つ男の、中身だけが入れ替わった。
「レンツ。出ますわよ」
荷車の脇から、事務の声が呼んだ。俺は楢に背を向けて、うちの谷の列に戻った。
6日目の昼過ぎ、峠に掛かった。
上りの取り付きで、ヨーゼフ司祭が俺の隣に並んだ。年寄りの歩幅に合わせて、話が切れ切れになる。
「……わしはな、騎士殿。王都で、叶わなんだ祈りがひとつだけあっての」
「何を祈ったんです」
「あのお人が一度でも、荷を下ろした顔をすることじゃよ」司祭は杖を突き直した。「柵を出ても、沙汰が出ても、あの顔は帳面の顔のままじゃった。……で、わしは祈りの方を直すことにした。下ろせん荷なら、荷ごと歩ける足腰を祈る。神さまも、そのほうが聞き届けやすかろ」
祈りまで検算して直す司祭に、谷の冬はふたつぶん染みているらしい。
上りの道で、あの人は荷車を降りて歩いた。膝の悪い年寄りを自分の席に座らせ、自分は列の最後尾につく。配給と同じ寸法だ。誰も驚かず、誰も遠慮しない。順が貼ってあるみたいに、皆その寸法に慣れている。峠の上りは長い。話す者は少なく、車輪と杖の音だけが続く。この静けさは行きの護送の静けさとは別のものだ。あのときの静けさは息を詰めていて、いまのは息をしている。
峠の頂で谷が開けた。
夕餉の刻限だった。風が下から、薄く煙の匂いを運んでくる。灰色の山肌に挟まれた細長い谷に、川が一本光って、屋根の群れが並んでいる。その屋根という屋根から、炊事の煙が立っていた。数えるまでもない。数え切れるが数えるまでもない。一年前、俺はこの場所から、煮炊きをしない村を見下ろした。煙がねえな——若い御者の声を、いまでも覚えている。
いま、煙は屋根の数だけある。
隣にあの人が並んだ。手庇も作らず、谷を見下ろして、それから言った。
「刈り入れの終わった畑の数を、数えなさい」
帰ってきた、という言葉より先に、数える仕事が降ってくる。俺は声に出して数え始めた。19まで数えて、数え直した。目が霞んだのは夕日のせいにしておく。谷を下る列の後ろで、婆さんたちの椀の唄が、誰からともなく始まっていた。




