第56話「沙汰」
沙汰の朝、王都は早起きだった。
門の外の竈は夜明けの灰色の中でいつもの手順どおりに焚かれている。兵舎を出た足でひと回りすると、ゲルダ婆さんは椀の順を割っていて、ヨーゼフ司祭は検めの済んだ子どもらと朝の祈りの最中だった。荷造りの気配はどこにもない。決まっていない数で動かないのは谷の作法だ。例の子どもが俺を見つけて、今日は合計が出る日なんだろ、と訊いた。出る、と俺は答えた。足し算の長いやつの、合計が出る。
広間の扉が開くころには、傍聴は立ち見の後ろにまた立ち見ができていた。扇の音がしない。5日の審問で、この街は聞くという姿勢を覚えたらしい。証人席の端にはセヴェリン伯が、今日も外套の泥を落とさずに座っている。あの人は護衛に挟まれて入ってきて、柵の木戸を開け、留め金を掛けた。手つきはもう、蔵の錠を扱う速さになっている。
名代の老公は沙汰の綴りを従者に持たせず、自分の腕に抱えて壇に上った。
「評定、成れり」
杖が床を打ち、老いた声が広間へ下りていく。
「本審の争点は、代官なる職に即決処刑の権ありや否や、であった。評議の見立てを、まず申し渡す。——代官に、その権は、ない」
壇の上で錦の襟が動いた。王子の側の文官たちの背筋がそろって伸びる。欲しかった一文が最初に来たのだ。だが名代は綴りから顔を上げず、同じ調子で続けた。
「されど。権の有無は、行いの性質を定めて後に問うべきものである。証拠の帳簿ならびに証言によれば、当該27名は、領の内に武装して押し入った敵である。その襲来は銀をもって仕組まれ、一夜の押し込みにあらず、継続する戦の形を成しておった。飢えたる谷は野戦のさなかにあり、代官の職権たる治安の維持は、急迫の難を防ぐ緊急の執行を含むと、評議は解する。よって峠道の22件は防戦であり、処刑にあらず」
広間が息を吸う。
「残る5件。捕えたのちの吊るしは、緊急の執行の——縁にある。5件を罪に問えば、法は谷に向かって、二度目の襲来を待てと命じたことになる。評議は、さような法を持たぬ。よって本件27件の死につき、被告を死罪には、問わぬ」
歓声はなかった。あるはずもない。だが広間の空気が一段ゆるみ、ゆるんだ分だけ、俺は柵の中を見た。あの人は動いていない。組んだ手袋の位置も、顎の角度も、朗読の一件目から変わらない。命の値段が読み上げられているあいだ、あの人はそれを、麦の相場でも聞く姿勢で聞いていた。
赦しではないのだ、と俺は聞きながら思っていた。評議は情けを掛けたのではない。あの人の物差しを取り上げて、目盛りをひとつずつ検めて、法の言葉に置き直したら同じ寸法になった。その勘定書きを、王都の言い回しで長く読んでいる。量られて、足りた。あの人が谷でやってきたことと同じ手順で。情けなら、あの人は受け取らなかったはずだ。情けの形をしていない結末だけが、あの人の受け取れる形をしている。
「されど」と、名代は続けた。「縁は、縁である」
綴りの頁がめくられる。ここからが値段の方だった。
「一。5件の咎は、赦さず、免ぜず、記録に留め置く。今後ふたたび権外の刑あらば、本件を併せて裁くものとする」
赦さず、免ぜず、留め置く。死ななくてよい、とは書いてある。罪が消えた、とはどこにも書いていない。あの人の頭の上に、閉じていない帳がひとつ、預けられたままになる。
「二。あわせて定める。ヴェルデン代官の職権に、即決の刑は含まれぬ。此度の整理は、既往の急迫に限る。以後、領の内に賊あらば、捕えて王都の沙汰を待つべし」
俺はその一文の重さを量るのに少しかかった。
条文の2番。領の内側に手を出した敵は必ず殺す。逃がさない、二度目を与えない。あの谷をあの冬から生かした、一番鋭い刃だ。夜襲をまるごと潰した朝も、捕えた5人を楡に吊るした朝も、あの刃が谷と雪のあいだに立っていた。選別で生かされたヴェンツェルは、いまも谷で杭の線を見回っている。賊27を数えた物差しが、28人目を選んで生かして、その28人目が留守の谷を固めている。その刃を、法は明文で鞘ごと取り上げた。物差しは認める。刃は返さない。谷は治めよ——三つが同じ綴りに並んで書いてある。次に峠を降りてくる連中は、ひと月ぶんの時間を懐に入れて降りてくることになる。その勘定を、この広間で俺のほかに誰が弾いているだろう。柵の中のあの人が弾いていないはずはなかった。
「三。アルテンブルク家の儀。家門の監督、行き届かざるの責により、北嶺の鉱山の権利一切を、王庫に納めしむ。これをもって、家門への咎は問わぬ」
山が落ちた。
王子の側ではなく、王庫にだ。壇の上で、肘掛けの指が組み替わるのが見えた。数えるのはもうやめた。夜歩きした家宰の靴は、あの一文のためにすり減ったのだろう。すり減らした先で、山は王子の戦費にならず、王家の蔵へまっすぐ落ちた。代わりにあの人は、生家の後ろ盾を紙の上で失った。一年前から欲しがられていたものが、いま、命の隣の皿から取り上げられていく。
「四。被告の流刑は、解かぬ。身分名誉の回復も、なし。ヴェルデン代官の職に留め置き、任地を離るるを禁ず。……なお、銀の一件は、別段の調べに付す。沙汰、以上」
別段の調べ。王都の言葉で、抽斗の奥という意味だ。谷を飢えさせた銀の出どころは、表の帳面には載らないまま仕舞われる。仕組んだ側は名指されず、仕組まれた側は罪人の身分のまま谷へ縛られる。慈悲を知らない女、という呼び名も、洗われないまま持ち帰ることになる。任地を離るるを禁ず——王都の机は、あの一文を罰の欄に書いたはずだ。谷に縛ることを罰と読める机は、谷を知らない机だけだが。もっとも閉じない帳と洗われない名を頭に載せたままの帰任だ。罰でないとも俺には言い切れない。読み上げの声が止んでから、俺はやっと気づいた。この沙汰の中に、あの人が新しく得たものはひとつもない。命さえ、得たのではない。取り上げられなかっただけだ。
「被告。申し立てはあるか」
「申し立てでは、ございませんの」と、あの人は言った。「確認を、ひとつ」
広間が耳を立てる。値切りが始まると踏んだ顔が評議の列に並んだ。
「以後、領の内に賊が参りました場合。捕えて、王都の沙汰を待つ。——その沙汰は、どの道筋で、幾日で谷へ戻りますの」
問われた文官が書式を繰った。郡の代官長を経て王都へ上げ、評議の裁可を得て返す。早馬を用いて、往復およそひと月——。
「ひと月」と、あの人は復唱した。数字を検めるときの、あの間で。「承知いたしましたわ。谷の守りの図を、引き直しますの。捕えた者をひと月養う蔵と、ひと月保つ檻の算段が要りますわね。……冬は、そこに雪の分を足しますの」
値切らない。抗いもしない。取り上げられた刃の代わりに何が要るかを、その場で数え始めている。文官は答えの持ち合わせがなく、名代だけが、綴りに何かを書き加えさせた。命乞いを聞きに来た傍聴は、檻と蔵の算段を聞かされている。この広間があの人から聞いた言葉は、最初の日から最後の日まで、全部この調子だった。
「……最後に、ひとつ」名代が綴りを閉じて、柵を見る。「これは沙汰の外の問いだ。そなたの帳面の、最後の頁。あの欄は、この先どうする」
「空のままですわ」
声の高さは変わらない。
「本日の沙汰は、私の死因を、お決めになりませんでしたもの。決まっていない数は、帳面には書けませんの」
名代は長いことあの人を見て、何も言わずに杖を打った。散会——。
証人席ではセヴェリン伯が綴りに何かを書きつけていた。役目の終わった人の筆は、誰の命令でもなく動く。人波の中で目が合うと、伯は書きかけの頁を伏せて、一言だけ寄越した。
「野戦は、まだ終わっておらんようだな。……終わる日を待つ、と申した。待ち先が残った。今日の勘定は、私はそれで付けておく」
人波が動き出す前に、壇から王子が降りてきた。
柵の前に立ち、生木の縁に手を置く。一年間探し続けた何かを、まだ探す目で柵の中を見ている。
「……分からん」と、王子は言った。「命は助かった。だが家は山を失い、権を取り上げられ、名は戻らず、谷に縛られたままだ。ディートリンデ。お前の帳面で、これのどこが引き合う。何が残った」
「谷が、残りましたわ」
「谷。あの痩せた谷が、アルテンブルクの山の代わりになると」
「山は、掘れば減りますの」あの人は木戸の留め金に手を掛ける。「谷は、数えるたびに増えておりましたわ」
留め金が外れる音が、ふたりのあいだで小さく鳴った。入るときと同じ手で、あの人は自分で柵を出た。王子は動かない。理解というものは、この人にとってたぶん一番高くつく買い物で、最後まで値がつり合わなかったのだと思う。ご機嫌よう、殿下——一年前と同じ挨拶だけを置いて、あの人は護衛の方へ歩いていった。
広間の出口では白髪の書庫係が待っていた。
老人は例の革綴じを腕に抱えていて、預かりの解けた紙は持ち主へと口上を述べる。谷の、死んだ者の名前だ。あの人は受け取って、綴じの角をひと撫でで検めた。老人が直し続けた角だった。
「良い手で、預かっていただきましたのね」
「紙の目方が、良い目方でござったよ」
門の外へ報せを運んだのは俺だ。
竈の脇で、ゲルダ婆さんは最後まで黙って聞いた。死罪なし。刃は取り上げ。山は王庫。流刑は解けず、帰任——聞き終えると、婆さんは杖で竈の縁を2度叩いた。
「畳むよ」
椀の順を割るときと同じ高さの声だった。歓声はここにもない。荷造りの手だけが一斉に動き出す。婆さんは動きながら、思い出したように訊いてきた。
「で、騎士様。次に山賊どもが来たら、どうなるんだい」
「捕えて、王都の沙汰を待ちます。早馬で、ひと月」
「ひと月ねえ」婆さんは椀の束を荷車に載せる。「王都のお歴々は、雪ってものを紙の上でしか知らないのさ。……ま、いいよ。ひと月の待ち方なら、うちの代官様がもう算段してるんだろ」
檻と蔵の算段の話を、婆さんは聞いてもいないのに言い当てた。子どもらが荷車に椀を積み上げていく。今夜は祈りが先でもよかろうかの、とヨーゼフ司祭が婆さんに訊いている。検めてからだよ、と婆さんが返す。一年前には黙って忘れられていた側の年寄りが、王都の壁の下で司祭の祈りの順まで割っている。谷はもう、帰り支度の谷になっていた。
俺の召喚も散会で解けた。王都の紙の上で、俺がいま何者なのかは、どこにも書かれていない。監視の任を言い渡した机は、月次の宛先ごと黙っている。護送役でもなく、監視役でもなく——名乗りの続きは、谷へ帰る6日のあいだに考えることにした。
明後日の朝、門が開く。谷まで6日の道だ。




