第55話「王家の勘定」
評定の扉は内側から閉まった。
証人の吟味が尽きた翌朝から、大広間は空になった。評議は奥の評定の間へ移り、扉の前に槍が2本立って、出入りするのは書記官と膳の係だけになる。審問は皆に見える場所でやり、勘定は誰にも見えない場所でやる。それが王都の作法らしい。谷なら、どちらも同じ板に貼る。
留め置きの証人にやることはない。俺は兵舎の客房で朝を数え始めた。
1日目。使いの許しで大路を抜けると、店先という店先が審問の話をしていた。吊るすのかね。吊るすには惜しいやね。惜しいってのは何の勘定だい。28も墓を余らせる代官なんぞ、うちの区割りにもひとり欲しいって話さ——。王都の民は慈悲では言わない。損得で言う。傍聴の扇が持ち帰った帳簿の中身が、市場の言葉に両替されて、辻から辻へ渡っていく。パン屋の店先では、女房が客に袋の目方をその場で検めさせていた。うちは谷の代官様式だよ、目の前で量るのさ。売り文句にされる統治というものを俺は初めて見た。辻の講釈師までが審問を語り物に仕立て始めていて、聞けば演目の看板は「慈悲なしの代官」だという。悪口だった呼び名が、五日の朗読を経て看板に変わった。呼び名そのものは、一字も変わっていないのにだ。損得で語られ始めたのなら、話はもう、あの人の土俵に載っている。
2日目の昼、兵舎に文官がひとり訪ねてきた。
糾問方の飾り紐を付けた、若くない男だ。役目は名乗らなかった。世間話の顔で腰を下ろし、世間話の声で訊いてくる。
「谷は、代官が代わっても回るのかね。配給の順も量りの検めも、仕組みはもう出来ておるのだろう」
見積もりだ。殺した後の谷が回るなら、殺す側の帳尻がひとつ軽くなる。回らないなら、重くなる。俺の返事は評定の間のどこかの欄に書き込まれることになる。
「仕組みは残ります」と、俺は答えた。「板の貼り方も量りの検めも、谷はもう手で覚えています。……その上で、俺の職分の数字をひとつ差し上げます。あの谷でこの一年、飢えで死んだ者は1人です。ヤーコプ。齢39。その名を帳面に書いた者を王都がどう勘定したか、谷は必ず読みます。数を読む谷です。読んだ後の谷が同じ手で回るかどうかまでは、俺の量りの外です」
「では、門の外の者どもは」と文官は続ける。「あれは、いつまで居座る心算かね」
「沙汰が下りるまでです。……あれは居座りではありません。立会いです。谷では、大きな検めには必ず立会いを置きます。量る側が誰であってもです」
文官は帰り際、戸口で振り返った。
「時に。谷を知る者が後任に立つ、という筋があるとすれば——貴公は、どうかね」
「俺にできるのは量りの検めまでです。量りは、作れません」
文官の目が俺の顔を一度なぞって、離れた。何も書き取らずに帰っていったが、書き取らない客ほど覚えて帰る。配給の列で覚えた人相の読み方が、王都でも使えるとは思わなかった。後任の値踏みまでもう始まっている。殺す段取りの一部が、俺の顔を見に来たのだ。俺の顔はいくらに見えただろう。
3日目、俺は書庫へ上がった。
月次の最後の一通を納めるためだ。護送の道中、門前の頭数、審問の顛末。宛先の机は評定の間の中にあるから、紙は書庫が預かって目録に載る。白髪の書庫係が受け取り、綴じの角を例の手つきで直した。
「谷の紙は、これで仕舞いかの」
「谷が続くなら、紙も続きます」
老人はわずかに笑い、笑いを納めて、声を低くする。
「谷の帳面はな、毎朝、評定の間に呼ばれる。毎晩、わしの棚へ戻ってくる。評定のあいだ毎日開かれておる綴りは、あれひとつだ」老人は棚の方へ顎を引いた。「もうひとつ。……今朝、妙な貸し出しがあった。北の山の、鉱山の権利書の綴りだ。評定の間から、番号で呼ばれてな。人の命の評定に山の紙が呼ばれるのを、わしは長い勤めで何度か見たよ。呼ばれた山は、持ち主より長生きする。たいていはな」
アルテンブルクの山だ。一年前の断罪の裏で、王家が欲しがったと噂された山。とうに取り上げられて戦費に化けた、と南の口入れ屋が語っていた山でもある。紙の上ではまだ家の名義で生きていたらしい。娘ひとりに罪を着せて閉じた断罪は、家の山までは取り切れていなかったのだ。取り切れなかった分の紙が、いま、あの人の命の隣で卓に載っている。
書庫を出て、俺は廊下の窓辺にしばらく立っていた。命の審問だと思って、この日々を数えてきた。王家の帳面ではあれは最初から山の審問でもあったわけだ。
4日目の夜、ヨルクが杯をふたつ提げて現れた。
置いていったのは酒と外の話だ。酒は谷の麦酒より薄いくせに、値は4倍するという。王都の勘定はこういう隅まで王都の勘定でできている。外の話の方はこうだ。王子の家宰が日が落ちてから評議の官の屋敷を回っている。ひと晩で3軒。昼の使者は書付を持つが、夜の使いは持たない——そこまで言って、ヨルクは自分の分だけ呑んで出ていった。瀬戸際の使いは夜に歩く。壁の中で20年勤めた男の忠告は、いつも符丁の形をしている。
山を取りたい側が、夜、歩いている。審問で描き損ねた絵の代金を、評定の卓の下で取り返そうとしているのだ。取れるかどうかの瀬戸際だから、家宰の靴が減る。俺は杯を干して、谷への文の下書きを1行進めた。書けるのは確かめたことだけで、夜の靴の数は、まだ谷の紙には載らない。
5日目の朝、塔から書付が下りてきた。
護衛の頭が運んできた紙には、代官の名で指図が3つ書いてある。門の外の者の帰路の糧は、往路の残りにいくら買い足せば足りるかを検算のこと。銀の残りは荷駄の係が持つこと。谷への文には刈り入れの組割りの検めを載せ、評定の見込みは載せぬこと——板に貼れるのは決まった数だけ。
自分の沙汰に触れた行はない。指図が3つ。沙汰の欄が0。評定の間で自分の値段が弾かれている最中に、あの人は50人の帰り道の麦を数えている。塔の預かりというのは、あの人の使い方では、机がひとつ増えた場所でしかないらしい。
指図のとおり、夕方、門の外へ出た。
帰路の糧は麦が2袋足りない。買い足しの値を書き出してゲルダ婆さんに検めさせると、婆さんは俺の数字を二度なぞって、一度だけ頷いた。帰路の荷車の順も、婆さんはもう組み替え始めている。膝の悪い年寄りは2番目の車へ、子どもは列の真ん中へ。往きに覚えた道の癖を、帰りの順に写しているのだ。荷駄の係の若い衆が胴巻きから銀の残りを出して、俺の検算と付き合わせる。1枚の狂いもない。あの人の指図は王都の壁の下でも谷の作法で回っている。それから杖の先で竈の火を直し、火を見たまま言う。
「非番の門番がね、昼間、坊主どもの節を習っていったよ。椀の数え唄だと教えたら、うちのにも覚えさせるとさ。……王都の椀も、順に並ぶといいがね」
竈の湯気の向こうでは、北から来た母子の子どもがその節を歌っていた。検めの小屋で、調べより先に椀が来た母子だ。順の後ろに回ることはあっても、数の外へ捨てられなかった者たち。その並びが王都の壁の根元で火を焚いて、主の値段が付くのを待っている。子どもがひとり俺の袖を引いて、沙汰ってなあにと訊いた。詰まった俺の代わりに、婆さんが火の向こうから答える。勘定の合計さ。足し算の長いやつだよ——子どもは頷いて、節の続きに戻っていった。
火の脇ではヨーゼフ司祭が祈りの支度をしていた。並ぶのは検めの後じゃよ、と子どもらを座らせる手順は谷のままだ。塔の方角を訊かれるかと思ったが、口から出たのは麦2袋の買い足しの店の当ての方だった。俺の勘定をひとしきり検めてから、司祭は火に枝を足す。
「慈悲は資源だと、あのお人は言うがの。わしの商いは、湧く方でな」焚き付けの爆ぜる音に、低い声が混じる。「余っとる分は、頼まれんでも注ぐのじゃよ。あの人の頁にもな」
竈から離れた石の上に、セヴェリン伯が掛けていた。
役目の尽きた人の足は、坂を勝手に下りてくるらしい。俺が並ぶと、伯は壁を見上げたまま口を開いた。
「評定は、長引いておるそうだな」
「長引くのは、どういう目なのですか」
「双方の勘定が、合わぬ目でござるよ」伯は指を折り始める。「殺すとせよ。審問は公開であった。帳簿も、銀も、0も、うちの、も、扇の数だけ耳に入った。いま吊るせば、王都の辻は明日からこう語る——仕組んだ側が口を塞いだ、とな。ふたつ。私の調書が残る。宣誓の下の記録というのは、燃やせば燃やした日付が残る仕組みでな。みっつ。処刑の権なくして人を吊るした咎で、処刑の権を持つ側が、民に慕われる代官を吊るす。この絵の悪さは、絵師を替えても直らぬ。よっつ目は」伯は顎で竈の火を指した。「あれよ。武器を持たず、乱れず、椀を洗って主を待つ50人。あれを蹴散らして刑場を組む肚が、あの扉の内にあるかどうか」
「……生かす方の勘定は」
「高くつくものが、ひとつだけある。生かせば、あの人の評判が上がる。量りで王家に勝った流刑人、という話が立つ。王家は、負けを帳面に残せぬ生き物でな」伯は折った指を畳んだ。「ゆえに、死刑は割に合わぬ。無罪は、もっと合わぬ。仕組まれた飢饉を、王家が自分の手で表に認める勘定になるゆえな。残るのは——」
「値段の付け方、ですか」
「左様。ここから先は、値段の話でござるよ」伯は立ち上がり、泥の付いたままの外套を直しもせずに俺を見た。「騎士殿、覚えておかれよ。値段の話になった時点で、命は助かる。そして、命の値切りが始まると、命の代わりに、命以外のものが順に卓へ載っていく。……あの人が値切り返す図が、私にはどうも思い浮かばぬ。それが良い報せか悪い報せかは、職分の外ゆえ量れぬがな」
値切り返さないだろう、と俺も思う。あの人は付けられた値が勘定に合ってさえいれば払う人だ。合っているかどうかの検めだけは、指の幅まで詰めるだろうが。
命の代わりに卓へ載るもの。坂を戻りながら、俺は数え上げかけて、やめた。山。権。名。どれから売られていくのかを数えるのは王家の仕事だ。俺の仕事は数えられた後のあの人が帰る谷の、量りを狂わせないことしかない。
兵舎に戻ると、机に召喚の書付が載っていた。
明朝、大広間。被告に沙汰の申し渡し。証人らは列席のこと——。
窓の外はもう暗い。夜番の衛兵が交替の途中でこぼしていくには、評定の間の灯りは昨夜も夜半まで消えなかったという。王宮の奥のどこかで、王家の帳面がいま閉じようとしている。閉じる音は扉の外には届かない。届かないまま、明日は合計だけが読み上げられる。俺は谷への文の末尾に1行を足した。沙汰、明日。皆の量りは狂っていない。報せなのか願いなのか、書いた俺にも区別のつかない1行だった。




