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うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


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第54話「善人は、こうして負ける」

宣誓の文句というものは、たいてい形式で済む。


証人は台に立ち、決まりの言葉を早口でなぞって本題に入る。この4日で俺は何度もそれを見たし、昨日は自分でもやった。


5日目の朝、伯が広間に入ってくると、糾問方の文官たちが揃って立ち上がって丁重に席へ案内した。切り札への挨拶だ。悪と信じる者の証言ほど断罪の場で強い札はない。しかも王命の調査団長で、人柄に一点の曇りもない。この男の口から圧政の一言さえ引き出せば、帳簿も0も銀も、善人の重しの下に敷き込める——文官たちの背中にそういう算段が透けていた。伯は案内の礼を丁寧に返している。絹の列の中で外套の裾の泥だけが谷の色をしていた。


セヴェリン伯はそこからして違った。宣誓の一句ずつを量りに載せるように区切って言い、言い終えてから一拍、目を閉じた。この人にとって宣誓は入り口の敷居ではなく、これから話す言葉の全部に掛かる縄なのだ。糾問方はそれを頼もしいものと勘違いしていた。


「証人は王命により、ヴェルデン領の統治を調べた。見立てを述べよ」


「述べ申す」


伯の声は大きくないのに、広間の隅まで届いた。杭の線の手前で入る許しを乞うたあの声のままだ。


「ヴェルデンの谷は、野戦病院でござる。生きることに台帳が要り、順番が要り、検めが要る。皆、生きておる。生きておるが、生かされておるのだ、一人残らず——代官という量りの上で。人は、量られずに生きる場所をどこかに持って、初めて人でござる。あの谷には、その置き場がない。板にも、帳面にも、代官の椀の寸法にも」


糾問方の文官が満足げに頷いた。欲しい言葉が注文どおりの重さで出てきたからだ。伯は柵の方へ体を向けて続けた。


「代官殿。谷の墓地の坂で申したことを、この場で繰り返す。あなたは、間違っておられる」


あの人は柵の中でわずかに顎を引いた。受け取りましたわ、という角度だった。反論はない。あの人はあの日も否まなかった。ええ、野戦病院ですわ、と答えた人だ。


「聞いての通りである」文官が評議へ向き直った。「王命の調査団長みずから、被告の統治を悪と断じた。よって被告の統治は苛烈な圧政であり、領民は恐怖に支配されて——」


「それは、事実に反する」


伯の声が文官の口上を胴から断った。


「……証人。いま、何と」


「恐怖の支配、と言われた。それは私の調べに反する、と申した」伯は懐から自分の調書の写しを出した。「私は谷でひと月、領民をひとりずつ聞き取った。立ち会いは書記1名。代官も騎士も同席させておらん。仕込まれた証言なら、私は職分で見抜く。ひとりも、おらなんだ。恐れている者は多くおった。だが問われて答えぬ者、答えを窺う者は、おらなんだ。恐怖の支配とは、問いに答える前に主の顔色を見ることでござるよ。……あの谷の連中は、私の顔色すら見ずに答えおった」


扇の陰で誰かが笑いを噛んだ。伯は構わず頁を繰る。


「列の老婆に、並ぶのは辛くないかと訊いた。答えはこうでござる。辛いよ。けどね、お貴族様。並ばされてるんじゃない、並んでるんだ、違いが分かるかい——。北から流れてきた母子にも訊いた。母親の答えはこうだ。前にいた谷では、調べの後に椀が来たためしがなかった。ここでは、椀が先に来た。調べは後だった、と。……諸卿。椀が先に来る土地を、恐怖の支配とは呼ばん」


「証人は、問いにのみ答えよ」文官の声が尖った。


「問われたゆえ、答えておる」伯は動じなかった。「見立てを述べよ、が最初の問いであった。見立てとは、都合のよい半分のことではござらん。宣誓の下で半分だけ話すのは、嘘のうちでいちばん性質の悪いものでな。私はそれをせぬ。……続けるぞ。墓穴30を掘り、使ったのは2。ひと冬で、寿命が1、飢えが1。忘れられて死んだ者、0。触れの板に嘘はひとつもなく、帳簿は敵の名まで数えておった。私は職分で、飢えた土地を20年見てまいった。断っておくが、これは誉め言葉ではない。記録でござる——私の見た限り、あれは最良の飢餓統治である」


広間がしんとした。


悪と断じた口が息継ぎもせずに最良と記録する。傍聴にはそれが分からない。分からないのは当然で、王都の紙は信念と記録を分けて綴じる作法を持っていないのだ。信じた絵に合わせて事実を並べ直すのが、この一年、俺の月次に対して王都の机がやりたかったことの全部だった。この男だけがそれをしない。信念は信念の頁に事実は事実の頁に。あの人と同じ綴じ方をあの人と正反対の信念でやっている。


壇の上の王子が口を挟んだ。


「……卿は、疲れておられるようだ」声だけは労わりの形をしていた。「調べの労苦は察する。だが卿の役目は、被告の罪を検めることであったはず」


「いいや、殿下。私の役目は、谷を検めることでござった」


伯は壇を見上げた。それから、誰にともなく続けた。


「役目、と言われて思い出したことがある。諸卿、ひとつ突き合わせを願いたい。私の調べの報せが王都に着いた日は、書庫の受領の綴りに残っておる。被告を審問に付す沙汰が王都を発った日は、発令の綴りに残っておる。……お並べなされ。沙汰の日付は、受領の2日前でござる」


記録官が綴りを繰る。繰る手が頁の途中で止まった。止まったまま、上がらない。


「つまり、沙汰は私の調べを読まずに書かれた。読めるはずがない。まだ街道の上にあったのだから」伯は調書の写しを、見台の上にそっと置いた。「私はひと夏、王命の調べと信じて谷を歩いた。歩かせた側は、私の調べを待ってはおらなんだ。結論は先に書けておって、私の役目は、その結論に善人の判を貸すことでござった。……諸卿。私は、口実でござったよ」


証人が証言台の上で、自分が使われた駒だと言った。


「その儀は本審の対象外である」糾問方の文官が腰を浮かせた。「証人の憶測にすぎぬ。記録から除かれたい」


「日付は、憶測ではござらん」と伯が返す。「綴りを開けば済む。開けぬ理由がおありなら、それも記録に残されよ」


名代はしばらく黙っていた。それから記録官に短く言った。証言は証言である。記録に留めよ——。文官は座り直し、王子は肘掛けの上で指を組み替えた。3度目だ。この5日で、俺はあの指の癖を覚えてしまった。名代だけが伯を見ていて、その顔からは何も読めなかった。


「証言は、以上か」と、名代が訊いた。


「あとひとつだけ」伯は柵の方へ向き直った。「私は、あの統治が間違っておると、いまも信じておる。人は量りの上では生きられぬ。ゆえに私は、あの谷が変わる日を望む。……だが、それは正す話であって、吊るす話ではござらん。間違いを縄で正した例を、私は職分で一度も見たことがない。縄が正すのは、間違いではなく息の根でござるゆえ」


そこで伯は初めて言い淀んだ。言葉を探したのではないと思う。言葉はあった。差し出す先がこの広間のどこにもなかったのだ。


「……嘘は、なかった」と、伯は言った。「谷の板にも、帳簿にも、あの人の口にも。ひと夏掛けて、私はそれだけを確かめた勘定になる。以上でござる」


「被告。証人に、問いはあるか」と名代が訊いた。


昨日までのあの人なら、ここで帳面のどこかを開かせただろう。フンケの銀のときのように、証人の言葉の裏を、証人自身の紙で検めるのだ。あの人は伯を見て、それから名代に答えた。


「ございませんわ」


一拍おいて、続けた。


「あの方の調べに、私が直す数字は、ひとつもございませんの」


伯の白髪頭がわずかに下がった。数字を誉められた者の礼だった。この広間で、悪と断じた者と断じられた者のあいだにだけ、勘定の合った取引がひとつ成立している。糾問方の机の上には、たぶんその帳尻の意味が最後まで分からない。


台を降りた伯は柵の脇で足を止めた。


「代官殿。野戦の終わりを、いつかあなたが帳面に書く日が来たら——その日は、私の信じる方が正しかった日でござる。来ると信じて、待つことにする」


「来ましたら、書きますわ」と、あの人は言った。「帳面は、先取りをしませんけれど」


伯は短く笑い、笑いを納め、一礼して証人席へ戻った。歩き方は来たときと同じで、背中だけが、ひと回り古くなって見えた。


負けたのだ、あの人は。


論で破れたのではない。事実を間違えたのでもない。あの証言台の上で、伯は自分の信念に一度も嘘をつかず、調べに一字も色をつけなかった。そうしたら、王家の欲しい死刑の根拠が、どこにも残らなかったのだ。嘘をつける善人なら、王都の役に立てた。つけない善人だから、口実にされ、口実の役にも立てずに終わる。信念は曲がらなかった。曲がらないまま、使われて、捨てられる。善人はこうして負ける。谷の墓地の坂でも、王都の大理石の上でも、たぶん同じ負け方で。


「証人の吟味は、以上をもって尽きた」


名代の杖が床を打った。


「評議は、これより評定に入る。沙汰は、追って申し渡す。……被告は塔に戻し、証人らは追って沙汰あるまで王都に留め置く。散会」


夕方、門の外の竈に思わぬ客があった。


セヴェリン伯だ。従者に荷車を牽かせて、坂を下りてきた。調査団の糧食の残りだという。役目は終わった、荷は軽くして帰りたい。受け取ってもらえるか——伯は帽子を取って、ゲルダ婆さんにそう言った。


「ありがたいがね、お貴族様」と婆さんは答えた。「うちの作法で受け取るよ。袋の目方を量って、帳面に書いて、椀に割るのは明日の朝の順でだ。今夜みんなで腹一杯、ってわけにはいかないよ。それでもいいかい」


「……薬のときと、同じだな」伯は短く笑って、笑いを納めた。「よろしい。目方はこちらでも控えを取る。付き合わせて、狂いがなければ引き渡しでござる」


施しを施しのまま受け取らない谷と、施しの検めに付き合う善人が、竈の脇で袋の目方を読み合っている。ヨーゼフ司祭が火の向こうからそれを眺めて、俺にだけ聞こえる声で言った。


「……騎士殿。わしはな、あの御仁が来なすったとき、まだこの谷の冬を知らん、と言うたがの。」司祭は火に枝を足した。「今日の広間で、あの御仁は冬をひとつ越えなすったよ。誰にも礼を言われん越え方でな」


伯は目方の検めを終えると、荷車を置いて、来たときと同じ足取りで坂を上っていった。門の中に、あの人の塔の灯りが見える。伯は一度もそちらを見上げなかった。見上げない背中が、この人なりの礼の払い方なのだと思う。


紙の戦は終わった。


帳簿が読まれて銀は割れ、黒が剥がれて善人は負けた。ここから先は広間の外の戦だ。評定の扉の向こうで、王家はこれから帳面を開く。あの人を殺す損と、生かす損を並べて、どちらが安いかを弾く帳面だ。慈悲や正義の頁は、あの帳面には綴じられていない。それでいい。慈悲で助かるくらいなら、あの人はたぶん、自分の頁を自分で埋めにいく。


勘定なら、望むところだ。数え比べで、あの人が負けたところを、俺はまだ一度も見たことがない。

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