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うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


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第53話「見殺しの数を言え」

「見殺しの数を、言え」


4日目の広間はその一言から始まった。


傍聴の入りはこの4日でいちばん多かった。銀で雇われた賊の話がひと晩で王都を回り切ったのだ。扇の列の後ろには立ち見まで出て、その隅にヨーゼフ司祭の丸い背中があった。門の外の竈を若い者に任せて、今日は中へ入ったらしい。谷の立会いの目がとうとう広間の中まで届いた。


糾問方の文官は昨日までの遠回りを捨てていた。傾斜配給。順位づけ。労働のできる者を先にできない者を後に。あれは椀の順の話ではない、命の順の話である。順位の後ろへ回された者の中に死んだ者がいたはずだ。飢えた冬に順を待ちながら息絶えた者が。被告よ、その数を言え——。


狙いは誰の目にも見えた。処刑の27は昨日の帳簿と銀の話で目減りした。ならば別の数字を被告の口から引き出せばいい。3でも5でもいい。順位の後ろで死んだ誰かの数を本人に言わせて、慈悲を知らぬ女の絵をもう一度描き直す。数で来る相手には数で返す。王都もようやくあの人の土俵の縁に立ったわけだ。


「帳簿を、お借りしますわ」


あの人は柵の中から記録官に手を伸ばした。


名代が頷き、革綴じが柵の縁に置かれた。あの人は手袋のまま頁を開き、読み始めた。記録官の読みと違って節がある。配給の板の前で順の名を読み上げるときの節だ。


「マティス。齢およそ40。冬、峠道。名不詳、齢およそ20。名不詳、齢およそ30——」


賊の27を頁の順に。男爵家の一件の9を楡と沢と剣の順に。アルマ。齢80。冬。死因、寿命。そして。


「ヤーコプ。齢39。春。死因、飢え」


あの人はそこで頁から顔を上げた。


「私の管理のあいだに、私の谷で死んだ者は、以上ですわ。殺すと決めて殺した者、27と9。寿命がひとり。そして、飢えて死んだ者が、ひとり。ヤーコプ、齢39。働けない体の、4順位の男でしたの。春の麦が、一手、間に合いませんでしたわ」


「問うたのは死んだ者の数ではない」文官が苛立った。「見殺しの数だ」


「ですから、いまからそれを数えますの」


あの人は帳簿を閉じて、留め具を掛けた。


「見殺しとは、順位の外へ置き、忘れ、椀の来ない理由も知らせぬまま、数の外で冷たくならせることですわ。私の谷の順位は、全員に公開されておりましたの。後ろに回る者の名も、理由も、板に貼りましたわ。ヤーコプの椀が細った月、ヤーコプは自分の椀がなぜ細るのかを知っておりましたし、私はヤーコプの名を帳面に持っておりましたの。間に合わなかった者は、おりますわ。数の外で忘れられて死んだ者は——0ですわ」


0。


広間がその数字の置き場を探して黙り込んだ。負の数を吐かせるための問いが逆さに流れていく。見殺しの数を言えと迫られた被告が、帳簿を読み上げて0と答えた。0を崩すには帳簿に載っていない死体をどこかから出してくるしかない。一年の谷から王都はそれを探し出せるのか。調べ尽くしたのはほかならぬ王命の調査団なのに。


「詭弁だ」と文官が声を張った。「順位の後ろとは、死の順のことではないか。おのれで順を決めておいて、間に合わぬも忘れるもあるものか」


「順を決めなければ、順が消えると思っておいでなの」


あの人の声は変わらない。


「順を決めない配給は、列の前だけを生かしますのよ。強い者から順に、ですわ。私が谷で最初に見たのは、順のない土地で、順の外に落ちて死んでいた者たちの骸ですの。名前も数も、誰も知りませんでしたわ。……昨日、この広間で読み上げられた、あの秋の頁ですわ。飢え、飢え、飢え、と続いた、あの頁の者たちに順を与えなかったのは、私ではありませんの」


4順位、という言葉を、俺は思い出していた。労働のできない、身寄りのない年寄り。順位のいちばん後ろに置かれた側のゲルダ婆さんは、ふた冬を生き延びて、いま門の外で椀の順を割っている。順番を言われたのは初めてだよ、と言った人が、審問の立会いのために王都まで歩いてきた。順位の後ろに置くことと、数の外に捨てることの違いなら、あの婆さんが体ひとつで証明している。証明が門の外に座っていることを、この広間でどれだけの者が知っているだろう。知らないまま、皆、0という数字の穴を探して黙り込んでいる。穴はない。穴のない0を、俺は一年、隣で見てきた。


壇の上の王子が口を開いた。


「……ならば、問い方を変えよう」声に、昨日までの張りがなかった。「誰が先に食い、誰が後で飢えるか。それを決める権を、お前は誰から与った。答えよ、ディートリンデ。お前は、神のつもりか」


「いいえ、殿下。帳面のつもりですわ」


あの人は壇を見上げた。


「神さまでしたら、順を決めずとも全員を生かせましょう。私にはできませんの。できないから、順を決めて、順を貼り出して、私は列の最後尾に並びましたのよ。……権をどこから与ったか、ですって? 誰も引き受けなかった谷を、王家が私に下さいましたわ。一年前、この広間で」


この広間で。その一言が壇の上の錦の襟を締めるのが見えた気がした。失敗して当然の谷で失敗させるための任命が、この審問の足元に敷かれている。噂の囁きまで思い出した傍聴が、扇の陰で目を見交わしていた。


そこで、糾問方は矛先を替えた。


「月次報告の筆者、レンツ・カルステンを証言台へ」


俺の番だった。


宣誓の文句を言うあいだ、口の中が乾いていた。文官が写しの頁を掲げる。あの黒だ。冬の夜の蝋燭の下で塗った墨が、写しにまで律儀に写り取られて、広間の高い窓の光の中に晒されている。


「筆者に問う。この報告の書式は、ありのままを旨とする。しかるにここに一行、塗り潰しがある。何を隠した。……昨日、被告は言ったな。数の外で死んだ者は0だと。ならば問おう。この黒の下にあるのは、数の外の死ではないのか」


そういう筋書きか、と思った。黒の下に死体をひとつ埋められれば、あの0が崩れる。0が崩れれば、帳簿の全部が崩れる。俺の隠し事は半年経って、あの人の帳面の急所に縄を掛けていた。


「墨を引いたのは、俺です」と、俺は言った。「命じた者はいません。代官は、俺の月次を一度も検めていません。ありのままに書け、と最初の朝に言ったきりです。……隠したことも、今日この場まで、代官は知りません」


「では、何を隠した。言え」


「言葉で言うより、確かなやり方があります」


俺は名代に向き直った。


「原本を。それから、小刀を貸してください」


広間がざわめき、護衛が動きかけた。名代が手で制して、俺の顔を長いこと見る。それから頷いた。原本の綴りが運ばれ、護衛がひとり、俺の脇に立つ。刃物と俺と紙。谷で剣を抜いた男だという報せくらい、この老人の耳にも入っているだろう。


墨というのは紙の上に載るだけだ。


下に書いた字は書いたときのペン先が紙を噛んでいる。俺は小刀の刃を寝かせて、乾いて半年経った黒の膜を、指の腹ひとつ分ずつ剥がしていった。広間は物音ひとつしない。削り屑が見台の上に黒い粉になって積もり、その下から、俺の字が骨だけになって浮いてくる。


読めるところまで剥がして、俺は原本を護衛に渡し、声に出して読んだ。


「『領民は代官を、うちの、と呼び始めている』」


広間の静けさが一拍、意味を呑み込むのに掛かった。


「隠したのは、これです。死んだ者の名前ではありません。生きている者の、呼び方です」


書記官のペンが動いた。うちの、という谷の言葉が、王国の記録に一字ずつ写し取られていく。傍聴の隅で、ヨーゼフ司祭が目を閉じて顎を引いた。祈りの形に似ていたが、祈りではなかったと思う。あの司祭は谷で、この呼び方が生まれる冬を隣で見ていた人だ。


「……なぜ、隠した」と、名代が訊いた。


「怖かったからです」


言ってしまえば、それだけの理由を、俺は半年運んできた。


「流刑の罪人が民に慕われている、と書けば、王都の机がそれをどう読むか。失敗するために送られた人が失敗しなかった。その上、慕われ始めた。事実をありのままに書けば、事実があの人の次の罪状になる。そう思ったら、ペンが止まりました。……俺は、ありのままに書くと引き受けた紙の上で、一度だけ嘘をつきました。書かない、という形の嘘です。今日は最後まで言います。谷の連中は、あの人を、うちの代官様と呼んでいます。いまも呼んでいます。その呼び方が罪になるなら、なる前に、この広間で言っておきます」


言い切って、息を吐いた。


墨を引いたあの晩のことは、いまでも覚えている。塗り潰した黒は蝋燭の下で、乾くまでずいぶん長いこと光っていた。乾いてからもあれは俺の中で光り続けた。月次を綴じるたび、数え歌を聞くたび。黒く細く、半年。それがいま、削り屑になって見台の上に散っている。掃けば消える嵩しかなかった。半年抱えた重さの正体は、掃けば消える、それっぽっちの粉だった。


王子が身を乗り出した。


「聞いたか、諸卿。流刑の罪人が、民心を握ったのだ。これこそが——」


言葉はそこで浮いた。


広間がついてこなかったのだ。昨日までなら、民心収攬は謀反の香りのする言葉だったろう。だがこの広間はもう帳簿を聞いている。0を聞いている。雇われた賊の話も聞いている。その耳に、うちの、という二文字は王子の欲しい響き方をしなかった。評議の列のどこかから、独り言がひとつ落ちた。……領主が民に慕われて、罪になるものかな。


隠された一行こそ、王家のいちばん恐れるものだった。恐れるものを、王家の側が自分の手で掘り出して、広間中に聞かせた。俺の墨は半年、それを埋めていただけだ。


「被告に問う」名代が柵へ顔を向けた。「いまの一行に、相違はあるか」


「私は月次を読んでおりませんの。谷の者が私を何と呼ぶかも、本人たちに訊いたことがありませんわ」あの人は削り屑の散った見台を一度見て、それから名代を見た。「お確かめになりたければ、門の外においでなさいまし。呼び方の主たちが、竈を起こして待っておりますわ」


散会の後、柵の脇を通る俺にあの人は言った。


「報告は、ありのままに——最初の朝に、そう申し付けましたわね」


「はい。……半年、遅れました」


「利子は結構ですわ。元金が、耳を揃えて戻りましたもの」


声の高さは麦の値段のままだった。それきりあの人は護衛の方へ向き直り、俺は一礼して広間を出た。手の中に、まだ小刀の重さが残っている気がする。剣より軽くて、剣より重い得物だった。


明日はセヴェリン伯が立つ。


谷を本気で悪と信じた人が、宣誓の下で口を開く。嘘のつけない善人の証言が、王都の絵とあの人の帳面の、どちらに味方するのか。……たぶん、どちらでもない。あの人の言い方を借りるなら、あの伯爵は、自分の頁にしか書かない人だ。

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