第52話「帳簿が開く」
死の帳簿は、白髪の書庫係が自分の腕に抱えて運んできた。
台車も従者もある王宮の書庫で、老人はあの革綴じを胸に抱えて広間を横切り、記録官の見台にそっと据えた。谷の、死んだ者の名前だ——引き渡しの日に護衛の頭が言った一言を、あの老人は覚えていたのだと思う。紙の扱いには、預かる者の返事が出る。
3日目の傍聴は、2日目よりさらに増えていた。虐殺の証文が読まれるらしい、という噂の入りだ。扇と香油の熱の中で記録官が帳簿の留め紐を解いた。あの人は今朝も柵の中に立っている。自分の帳面が自分を裁くのを、量りの前の商人みたいな顔で待っている。
「頁の順に読み上げよ」と、名代が言った。「……被告の注文どおりにな」
最初の頁は、処刑ではなかった。
「名、ヒルデ。齢62。秋。死因、飢え」
「名、ヨスト。齢4。秋。死因、飢え」
着任の秋、あの人が最初に命じた仕事だ。名前を数えなさい。谷に転がったままの死者を、名前まで全部。埋める前に生きた順を数え直した、あの秋の勘定が帳簿の一枚目に綴じられている。飢え。飢え。飢え。死因の欄が同じ言葉で埋まっていくのを、広間は身動きもせずに聞いていた。虐殺の証文を聞きに来た耳に最初に流れ込んできたのは、あの人が来る前に死んでいた谷の名簿だった。
「処刑の頁に進め」と糾問方の文官が苛立った。「本審に関わるのは27件である」
「頁の順に、と申した」名代は綴りから目を上げなかった。「抜き読みは数え違いのもと、だそうだ」
賊の頁に入ったのは、それからだった。
「名、マティス。齢およそ40。冬。峠道。死因、戦死」
「名不詳。齢およそ20。山刀。死因、戦死」
名のある者は名で、知れぬ者は年恰好と得物で。読み上げの型は昨日の罪状と同じなのに、聞こえ方がまるで違う。昨日の綴りは27回、名不詳と繰り返した。今日の帳簿は、拾える名を拾っている。賊の生き残りが知る名を言い、あの人が書かせたのだ。殺した相手の名前を、殺した側が探して書く。傍聴の扇が落ち着かなげに動き始めていた。誰を憎めばいいのか、分からなくなってきた顔だった。
評議の官のひとりが、手元の写しを繰って口を開いた。
「……確認する。帳簿によれば、27件のうち死因を戦死と記す者22。沙汰により処刑、と記す者5。相違ないか」
「相違ありませんわ」
罪状の27件処刑は、証拠の帳簿が自分で訂正した。糾問方の文官が何か言いかけて、やめた。この帳簿は糾問側が開かせたのだ。自分で運び込んだ証拠に、自分の絵を消されている。
帳簿はさらに続いた。アルマ。齢80。冬。死因、寿命。ヤーコプ。齢39。春。死因、飢え。それから男爵家の一件の9人。楡に5、沢に1、剣に3。
賊が27。男爵家の一件で9。寿命が1に、飢えが1。一年の谷の死は、それで全部だった。頁の隅には墓割りの控えも綴じてある。記録官が読み上げた。着任の秋、墓穴30を掘る。冬のあいだに使用、2。残る28、空のまま埋め戻しを待つ——。
「30掘って、2か」と、評議の官のひとりが写しから顔を上げた。「……儂の領は、飢えなどない年でも、冬に30は埋めるぞ」
独り言のつもりだったのだろう。だがその声は広間に落ちて、拾われた。飢えた谷で、掘った墓の28が空のまま残っている。処刑の帳簿を読み上げさせたはずの広間に、いつのまにか別の数字が立っていた。糾問方の文官が咳払いをして、朗読の続きを促した。
読み終えて最後の頁をめくった記録官の手が、止まった。
「……最後の頁に、記載が一件」
広間が耳を立てる。記録官は一度あの人を見て、読んだ。
「名、ディートリンデ・フォン・アルテンブルク。管理の責にある者。死因の欄は——空欄にござる」
扇のざわめきが波になった。名代が柵の方へ顔を向ける。
「被告。これは、何か」
「私の頁ですわ」声の高さは変わらなかった。「私の帳面は、私の管理の内で死んだ者と、これから死ぬかもしれない者を数えますの。管理の責にある者も、数の内ですわ。……死因の欄は、埋まる日に埋めますの。帳面は、先取りをいたしませんのよ」
壇の上で王子が身じろぎした。芝居だ、と吐き捨てる声が半分、広間に届いた。芝居なら、一年前に泣いてみせる方をやっている。俺は柵の中の背中を見ながら、そう思っただけだ。あの頁は王都に見せるために書かれたのではない。書いた朝のあの人の顔を、俺は谷で見ている。
昼から、証人が立った。
フンケ。ボルツ男爵家の蔵方頭だった男だ。骨の細い、算盤の似合いそうな男で、宣誓の声が最初から掠れていた。糾問方が問い、フンケが答える。男爵家の羽振り。谷の代官との麦の競り合い。そして、あの取り立ての夜。
「……夜半に、代官が参りました。帳面と、証文の綴りを持って。談判は、静かなものでした。声を荒らげる者はひとりもおらず……夜が明けたとき、男爵家は当主を失っておりました。手前は、生き残りました」
「被告を恐ろしいと思うか」と文官が畳みかけた。
「思います」フンケは即答して、初めて柵の方を見た。「あの方は、剣より先に帳面で参ります。帳面で来られたら、男爵家ほどの家でも、ひと晩でございました」
帳面で人を殺せる女。糾問方の欲しい絵が、証言台の上に出来上がっていく。王子が満足げに頷くのが見えた。
俺は証言台の男を眺めながら、妙な勘定をしていた。フンケは生きている。男爵家が一夜で終わった晩、蔵方頭は帳面ごと引き取られて、殺されなかった。得物を取らなかった者、谷に手を出していなかった者を、あの人の物差しは殺さない。その生き残りを、いま王都が証人に使っている。あの人の量りが生かした男が、あの人を吊るすための台に立つ。皮肉と呼ぶには、出来すぎた勘定だった。
「被告。証人に問いはあるか」と、名代が言った。
「ございますわ」
あの人は柵の中から、フンケをまっすぐ見た。
「フンケ。男爵家の蔵の帳は、あなたの手で付けておりましたわね」
「……手前の役目にございました」
「結構。記録官殿、証拠の綴りから、男爵家の蔵の帳、賊の来た冬の頁を」
その帳も、取り立ての夜に谷が引き取った紙の束の中にあった。記録官が頁を繰り、読み上げる。ザルテンの両替商組合へ、口利きの銀。峠の北の麦問屋へ、買い付けの前金。そして——冬の初め、峠向こうの客人へ、前渡しの銀30枚。
「『客人』とは、どなたですの」
フンケの喉が、上下した。答えない。名代の杖が、床を一度打つ。証人は宣誓の下にある。
「……峠の、賊にございます」と、フンケは言った。「頭目への、手付で……冬のあいだ、谷を、その、騒がせるための……」
広間が、今度こそ爆ぜた。
扇の陰の囁きが波になって壁まで走る。谷を襲った賊は、雇われていた。銀で峠を越えてきた27人。飢えた谷に付け込んだ夜盗ではなく、飢えた谷をさらに飢えさせるための、仕込みの駒だった。
あの人は、ざわめきが収まるのを待って続けた。
「もうひとつ。記録官殿、私の証文の綴りに、商人ロイターの詫び状が挟んでありますわ。読んでくださいまし」
橋の袂で受け取った、あの削いだ文面が、王都の大広間で読み上げられた。組合の通告。保証台帳。貸し剥がしの脅し。そして結びの一行——貴殿の証文に、疑わしい点は一字もなかった。疑わしいのは、それを疑えと命じた銀の出どころである。
「フンケ。組合を動かした銀は、あなたの帳に載っておりまして?」
「……男爵家の銀に、ございます」蔵方頭はうなだれた。「ですが、その銀が、どこから男爵家に入ったかまでは……手前の帳の、外で……」
「ええ。あなたの帳の、外ですわね」
あの人はそこで、問いを止めた。開いた戸を、それ以上押さなかった。男爵家の銀はどこから来たのか。誰が、飢えた谷の代官を潰したがったのか。問いの続きは口にされないまま、広間の天井の下にぶら下がった。
「銀の出どころは、本審の争点にあらず」名代が早口で言った。早口だったこと自体を、傍聴の半分が聞き取った顔をしていた。壇の上の王子は、肘掛けの上で指を組み替えている。
「最後に、ひとつだけ」と、あの人は言った。「賊が雇われていたことは、私が5人を吊るした沙汰の言い訳には、なりませんの。吊るすと決めたのは私で、権限のないことも存じておりましたわ。……帳尻を混ぜてはなりませんの。あちらの銀は、あちらの頁。私の縄は、私の頁ですわ」
自分の罪を軽くする札が転がり込んできたのに、あの人はそれを自分の頁に貼らなかった。フンケが呆けた顔で柵を見ている。生かされた側の男は、生かした側の帳面の付け方を、まだ知らないのだ。
日暮れ前、俺の月次が読まれた。
一年分の紙を、記録官の声が順にたどっていく。賊の襲来と処刑の顛末。配給の順位と量りの検め。教会の備蓄の接収。2割減、3割減の冬。館の鵞鳥6羽をつぶして産後の家に回した、あの1行も読まれた。マルコの倅はあの汁で太った。いまごろ谷で、蔵入り前の麦の匂いの中で泣いたり笑ったりしている。俺の書いた紙の中で、谷が生きて動いている。読む声が他人のものでも、それは変わらなかった。
代官は手に凍傷、の一行が読まれたとき、傍聴の前列で扇がひとつ下りた。配給の列の最後尾に並ぶ代官の話は、その少し前に読まれている。順番を最後に回した者の手が凍える冬を、王都の絹の手袋が思い浮かべられたのかどうか。扇は、それきり上がらなかった。証人席の端では、セヴェリン伯が朗読のあいだじゅう目を閉じていた。眠っているのではない。自分の足で歩いた谷を、声の向こうに引き当てている顔だった。
そして月のしまいごとに、同じ言葉が鐘みたいに繰り返される。今月、餓死者なし。今月、餓死者なし。虐殺の谷の報告書は、数えてみれば、死なせなかった月の綴りだった。
「……待て」
糾問方の文官が、写しの頁に指を置いた。
「この報告、ここに一行、墨が引かれている。塗り潰しだ。……ありのままが聞いて呆れる。筆者は、何を隠した」
あの冬の夜、蝋燭の下でいつまでも乾かなかった、あの黒だ。俺の塗った墨が、王都の机の上で俺を待っていた。
王子が立ち上がって、締めくくった。明日、月次の筆者を証言台へ。あわせて被告に問う——順位をつけ、後回しにして、死なせた数。見殺しの数を、明日この場で言わせよう、と。
広間を出ると、夕方の大路はもう今日の審問を噂していた。傍聴の口から店先へ、店先から辻へ。賊は銀で雇われていたらしい——そのくだりが、どの立ち話でもいちばん声が低くて、いちばん早く渡っていく。囁きは壁を越えて、今夜のうちに門の外の竈にも届くだろう。谷はあの冬の吹雪の出どころを、王都の広間より半年早く知っていた。知っていて、誰も驚かない顔で椀を検めるのだと思う。
黒の下の一行と、見殺しの数。この広間は明日、そのふたつを同じ日に聞く。




