第49話「王都の門」
王都の城壁が見えたのは、行進の6日目の昼だった。
灰色の石壁が平野の果てに横たわっている。一年前、俺はあの門を貧乏くじの護送役として出た。罪人を一人、飢えた谷へ送り届けるために。いま、同じ門へ同じ罪人を連れて戻ってくる。違うのは、後ろに谷がついていることと、俺の足がもう王都の速さでは歩いていないことだ。
行進は、街道を歩くうちに50人を越えていた。
谷の30に、街道で加わった20あまり。武器は誰も持たない。荷もわずかだ。箱馬車の後ろを歩いてくる群れを見て、城門の衛兵は明らかに戸惑っていた。護送の一行が来るとは聞いていたはずだ。護送に50人の見送りがつくとは、聞いていなかったらしい。衛兵の一人が門楼へ駆け上がり、しばらくして戻ってきた。上の指図を仰いだ顔だ。武器のない50人を止める作法は、王都の門にも書かれていないようだった。
門の前で、空気が変わった。
谷の連中が王都の城壁を見上げている。あの壁の高さを、谷の者は初めて見る。山あいの痩せた土地で生きてきた者には、人の手で積んだ石があれほど高く立つこと自体が別の世界の話だ。ゲルダ婆さんも杖をついて壁を見上げた。それから、ふん、と鼻を鳴らした。高い壁だね。けど、この壁の中の偉い人らは椀の底の麦の量を数えたことがあるのかね。婆さんの呟きを俺は聞かなかったことにする。聞けば笑いそうだった。笑っていい場では、ない。
門の手前で、護衛の頭が馬を止める。
「ここからは」と頭は後ろの群れに向かって言った。「見送りは入れられぬ。王都の門は、許しのない者を通さぬ。……お前たちの見送りは、ここまでだ」
谷は、止まった。
止まって、散らない。ブレヒトが進み出て、揉み手をせずに言う。それでは、門の外で待ちますで。代官様の沙汰が下るまで。何日でも——。頭は何か言いかけて、やめた。門の外で待つことまでは止められない。武器のない者が街道に座って待つのを、罪には問えない。
箱馬車の窓が開いた。
「皆」とあの人は言った。窓から、谷の方へ。「ここまで、ご苦労さまでしたわ。……門の外で無理に待つことはありませんの。谷には配給がありますわ。新麦がもうじき蔵に入りますの。墓を埋める日が来ますわ。……帰って、谷を続けなさい。それが、私の最後の指図ですわ」
谷は答えなかった。
答えないことが、この6日のあいだ谷の答えだった。帰らない。だが武器も取らない。指図の半分を守り、半分を突き返す。ゲルダ婆さんが杖をついて一歩前に出た。
「代官様。あたしらは帰りますよ。配給がありますからね。墓も埋めなきゃならない。……けどね、全員は帰りませんよ。何人か、残します。あんたがひとりで裁かれないように。立ち会う者を、門の外に置いていきます。それが、あたしらの谷の見送りの作法なんでね」
立ち会う者を、置いていく。
谷は道々相談していたらしい。働き手のいる家は帰る。配給を回す者も帰る。身軽な者と年寄りの何人かが、門の外に残る。あの人が裁かれる場の外に、谷の目を置いておくために。ゲルダ婆さんは残る側だと言った。あたしゃ配給の4順位だからね、谷にいてもいなくても勘定は同じさ——そう言って笑う。間に合わなかったヤーコプと同じ4順位の老女が、あの人の審問に立ち会うために王都の門の外へ残る。誰が決めた割りでもない。配給の順を決めてきた谷が、見送りの残り方まで自分たちで割った。あの人の作法は、もう谷の癖になっている。
残る者たちは、門の見える街道脇に荷を下ろし始めた。椀と、麦の残りと、寝るための布。それだけの所帯が、石壁の根元に小さな谷を作っていく。ゲルダ婆さんはさっそく、残る者の椀の順を割り始めた。年寄りと子どもから。あの人に見えないところでも、量りは守られる。
あの人は、しばらく窓から谷を見ていた。
それから、小さく頷いた。沙汰を受諾したあの広間と同じ動きで。だが、同じには見えなかった。あのときの頷きは、自分の死を勘定に入れる動きだった。今度のは、谷の立会いを受け取る動きだ。数の外に置くなと言われた人が、数の中へ引き戻されて、それを拒まなかった。
「……お好きになさい」と、あの人は言った。声はいつもの高さだ。「ただし、量りは守りなさい。門の外でも、配給の順は年寄りと子どもから。立ち会う者の膳も、私が留守の谷の作法で。……検めを、忘れてはなりませんわ」
最後まで、量りの話だった。
自分の審問の門の前で、あの人は門の外に残る者の椀の順を気にしている。それが、あの人だ。流刑へ発つ朝もそうだった。護送の糧食は規定どおり積んであると言った俺に、私たちが食べる分の話はしておりませんの、と返した人だ。麦をあと3袋、塩を1箱。見たこともない飢えた領民のために積ませたあの朝の麦が、半年後の1,800を生かす種になった。最初の朝から最後の門まで、あの人は改心せず優しくもならず、ただ同じ手で数え続けている。
その一年を、俺は隣で見てきた。
煮炊きの煙も立たない谷に、あの人は降りてきた。死者を数えさせ、順番を作り、配給の列には自分も最後尾で並ぶ。領内に踏み込んだ賊は一人も逃がさない。司祭の備蓄を接収し、隣領の買い占めに一手遅れ、間に合わなかった者の名を板に貼る。報復は苛烈に完遂して、嬲りはしない。そうして谷は、飢えで誰も死なない土地になった。慈悲を知らない領主の下で。誰も、数の外で死なせずに。
その一年を、俺は月次に書いてきた。
ありのままに。あの人が最初の朝にそう命じたからだ。賊の処刑も、配給の順も、男爵家のことも。事実を事実のまま。その紙がいま、王都の机で開かれようとしている。あの人を裁くために。それでも、書いた一字も取り消したくなかった。取り消せば、あの一年が嘘になる。あの一年は、嘘ではなかった。……一行だけ、墨で潰した行があることは、いまは思い出さないでおく。
門の手前で、もう一人、馬を止めた者がいた。
セヴェリン伯だ。調査団の一行は護送とは別に、王都へ戻ってきていた。伯は馬上から、門の外に残ろうとする谷の群れを長いこと見ていた。武器を持たない見送り。立ち会うために残る年寄りと女子ども。人道に欠ける統治、という絵の中に、その絵を裏切る群れが立っている。
伯は馬を下り、谷の方へ歩いてきた。それから、ゲルダ婆さんの前で帽子を取った。
「……婆殿。あなた方は、なぜここまで来た」
調べの問いではない。本当に分からない、という顔をしている。
「あの代官は、あなた方を量る者だ。順番をつけ、後回しにし、ある者を死なせた。それでもあなた方は、あの者のために王都の門まで歩いてきた。なぜだ」
「お貴族様」と婆さんは答えた。「あんた、いい人だね。だから、分からないんだよ。……あたしらはね、量られたんじゃない。数えてもらったんだ。忘れられてた者が、名前を呼ばれた。それがどんなことか、忘れられたことのない人には、分からないのさ」
「……死んだ者も、いたであろう」
「いたさ。ヤーコプの名前も、帳面にあるよ。忘れられて死んだんじゃない。間に合わなくて死んだんだ。違いが分かるかい、お貴族様」
伯は、しばらく黙り込む。それから帽子をかぶり直して、低く言った。あなたは間違っている。だが、嘘はなかった——谷にではなく、自分の足元に落とすような声で。信念は、曲がっていない。曲がらないことが、この人の美徳であり、敗北だった。馬に戻る伯の背中は、来たときより重そうに見えた。積んでいる荷は、変わらないはずなのに。
門の外の群れは、道の脇に寄って箱馬車のために場所を空けた。道は塞がない。あの人の出した条件を、谷は最後の一歩まで守っている。
門が、開いた。
箱馬車が護衛に囲まれて門をくぐる。俺はその脇を歩いた。護送役として。一年前と同じ役目で、逆向きに。あのとき俺は罪人を流刑地へ送り届けた。いまは審問の場へ送り届ける。同じ手で、同じ人を。違うのは、俺がどちらの側に立っているかだ。
門をくぐる間際、あの人が言った。
「レンツ。月次の、最後の一通を、忘れずに書きなさい」
「……書きます」
「審問の場で、私の月次報告が証拠に出ますわ」あの人は窓の外を見たまま続けた。「一年分の、あなたの紙。賊の処刑も、配給の順も、男爵家のことも。全部、あなたが書いて王都に送ったもの。……あの紙が、私を裁く証拠になりますの。覚悟は、よろしくて?」
俺の紙が、あの人を裁く証拠になる。
「覚悟は、できていません」と、俺は正直に言った。「ですが、書いた紙は取り消せません。……俺の紙があなたを裁くなら、俺はその場に立ち会います。書いた者として。逃げません」
「結構ですわ」あの人は窓からこちらへ目を向けた。「逃げないのが、あなたの取り柄ですもの。……ありのままに書いた紙は、ありのままに読まれれば、谷の有利に働きますわ。問題は、ありのままに読まれるかどうか、ですけれど」
ありのままに、読まれるかどうか。
王都の机は絵を描きたがる。ありのままを、絵に描き替えたがる。俺の紙がありのままに読まれるのか、絵の具にされるのか。この門を出た一通目から最後の一通まで、俺の書いた一年が、これから王都の机の上で開かれる。紙は谷を守れるのか。答えを持っているのは俺の書いた紙ではなく、読む側の目だ。読む目を選べないなら、書く手は正直でいるしかない。
箱馬車は城門をくぐり、大路を進んでいく。一年前に出ていった、あの磨り減った敷石の道を。
大路の人波が、箱馬車を見て割れた。噂は俺たちより先に門をくぐっていたらしい。あれが谷の代官か、という囁きが店先から店先へ渡っていく。囁きの中に、慈悲を知らない、という言葉も混じって聞こえた。谷では誰も、あれを悪口では使わない。王都では、どちらだろう。王都の耳は、机の絵より先に街道の話を聞いてしまっている。審問は、始まる前からもう始まっていた。
行く先は、断罪の行われたあの大広間だ。全部やりましたわ、とあの人が言った場所。あのとき俺は末席の警備だった。いまは護送役として、あの人の脇を歩いている。同じ場所へ、別の立場で戻っていく。
背後で、王都の門が閉まった。
ここからが審問だ。帳面が開かれ、月次が読まれ、谷の正直と王都の絵がぶつかる。あの人が死因の欄を空けたまま自分の名を書いた、あの帳面。空欄が埋まるのか、空いたままで終わるのか。俺の腰の剣は、ここでは何の役にも立たない。守るのは剣ではない。帳面と、月次と、門の外の谷の足だ。書く手が何を守れるのかを、俺はこの一年で教わった。教わった相手が、いま門の内で裁かれようとしている。
門の外には、谷が残っている。門の内では、一年分の紙が、開かれるのを待っている。




