第46話「あなたを数に入れろ」
護送が発つ前の晩、彼女は執務室で引き継ぎの帳面を作っていた。
自分のいない谷を誰がどう回すか。配給の差配はヘルガとブレヒトに。量りの検めはヘルガ。蔵の出納はヴィムに任せ、月に一度、数字を覚えた子どもらに検算をさせること。受け入れの判断はブレヒトと司祭の2人。断れる者と断れない者をひと組にするのが、あの人の据え方だった。新麦が蔵に入ったら、空の墓を埋めること。冬の前に、また墓を数えること。冬垣の修繕は霜の前に。検めの小屋の当番は月替わりで。谷の手順がひとつずつ、別の名前の上へ載せ替えられていく。
俺はその写しを取っていた。
蝋燭が2本、机の端で燃えている。ペンを走らせるうちに、指より先に背中が気づいた。これは留守のあいだの段取りではない。戻らない者の申し送りだ。来年の作付けの割り。その次の冬の墓の数え方。自分のいない一年二年の先まで、あの人は紙の上に谷を組み上げていく。
手を動かしながら、一度だけ訊いた。
「……二年先の分まで、書くのですか」
「谷は私より長く続きますもの」ペンは止まらない。「帳面が谷より先に途切れるのは、帳面の恥ですわ」
麦の値段の声だった。俺は写しに戻る。
帳面のどこにも、俺の名はなかった。残る者の帳面に、発つ者の名は要らない。護送には俺もつく。王都まで、あの人の側は俺の持ち場だ。誰に命じられた持ち場でもない。
窓の外では広場の篝がまだ燃えていた。
谷は広場に居続けている。ヨーゼフ司祭の祈りが夜半を過ぎても続いているのが、窓ごしに聞こえた。賊の冬の晩に子どもらを眠らせるために延ばした、あの節だ。今夜は誰も眠らせようとしていない。発つ人へ向けて延びている。
司祭は一度、館に上がってきた。祈りの節はいつの間にか別の誰かの声に替わっている。夜気を連れて戸口に立ち、引き継ぎの帳面を見て、低く言った。
「……わしの櫃の鍵も、誰かに渡しておくがよい。あなたの帳面の写しは、祭壇の下にある。神の家が、あなたの帳面を守る。妙な巡り合わせじゃが——あなたの帳面は祈りに似ている、と言うた舌の、最後の責任じゃ」
「ありがとう存じますわ」彼女は鍵の段取りを帳面に書き加える。「司祭様。ひとつ、お願いがありますの。私が王都で何になろうと、谷の配給は止めないでくださいまし。量りはヘルガに。順番は板に。……私がいなくても、量りは狂いませんわ。狂わせないように、組んでありますの」
「……狂わんのはあなたの量りで、狂うのはわしらの心根じゃよ、代官殿。それも、どこかに書いておかれよ」
彼女は答えず、頁を繰った。書いたのか、書かなかったのか、俺の位置からは見えなかった。
司祭は長いこと彼女を見て、それから祈りの形に手を組んだ。陥落ではない。2人はいまも別々の神を信じている。それでも司祭は、彼女の帳面を祭壇の下で守ると言う。備蓄を接収された側が、接収した人の帳面を祭壇の下に匿う。この並びが成り立つまでに何があったかを、王都は一行も知らない。
司祭が下がったあと、俺は窓辺で手を休めた。篝は数を増やしている。火のそばで子どもらが毛布にくるまって眠り、大人はその外側に輪を作っていた。眠る者の内側、起きている者の外側。配給の並びと同じ組み方だ。ゲルダ婆さんの白い頭が、いちばん板に近い火の脇にある。年寄りを家に帰す説得は、誰かがとうに諦めたらしい。テオの斧は、どこにも見えなかった。
それからしばらくして、戸が叩かれた。
ヴェンツェルだ。元賊は戸口で一度ためらった。あの男のためらいを、俺は初めて見る。昼のあいだ詰所で地図を睨んでいた男だ。言葉になるまで半日かかった何かを、いま持って立っている。
「……入りなさい」と彼女が言った。
ヴェンツェルは入ってくると卓の前に立った。立ったまま、しばらく引き継ぎの帳面を見ている。それから口を開いた。
「お頭。ひとつ、訊いていいか」
「どうぞ」
「あんた、その帳面に」ヴェンツェルは帳面を顎で示す。「自分の名前を、書いたか」
彼女の手が止まった。
一瞬だ。すぐにまた動き出す。書いていませんわ、と彼女は言った。引き継ぎの帳面は残る者のためのもの。発つ者の名は要りませんの——。
「そうじゃねえ」ヴェンツェルが遮った。「死んだ者の帳面の話だ。あんたがつけてきた、あの名前の帳面よ。賊の名前を書いた。領民の名前も、間に合わなかった者の名前も。数の外で死ぬのは二度死ぬことだ、ってな。……俺は、選ばれて、生かされた側だ。あの楡の木で、俺の代わりに5人が吊られた。あの5人の名前も、あんたは書いてくれた。覚えてるよ」
「覚えておりますわ」
「頭数だけじゃねえ。歳も、出の村も、あんたは書いた。賊にもだ。そんな帳面をつける領主を、俺はほかに知らねえ」
「じゃあ、訊く」ヴェンツェルは卓に両手をつく。「あんたが王都で死んだら、誰が、あんたの名前を書くんだ」
執務室が、しんとした。蝋燭の火が揺れずに立っている。窓の外の篝のはぜる音だけが、遠くから床を伝ってきた。
「あんたは、自分を勘定に入れ忘れてる。いや、違うな。入れ忘れてるんじゃねえ。わざと外してる。配給は最後尾、危険は先頭——立派なこった。だがな、お頭。最後尾ってのは、列の中だ。先頭ってのも、列の中だ。あんたは列の中にいるつもりで、ずっと列の外に自分を置いてきた。自分の名前を書く欄を、自分の帳面に作らずにな」
管理の責にある者。あの空欄の見出しが頭に浮かぶ。欄は作った。名前はまだない。死んだ者の名前はあの人が書いてきた。では、あの人が死んだら、誰が書く。ヴェンツェルの問いは、その一点に立っている。
「あんたの数に」と、ヴェンツェルは言った。一語ずつ、置くように。
「あんたを、入れろ」
蝋燭の火の向こうで、彼女は動かない。選別されて生かされた男が、選別した者に同じ物差しを突き付けていた。
「あんたは谷の1,800を数えた。賊も、死んだ者も、間に合わなかった者も、全部数えてきた。一人だけ数えてねえ奴がいる。あんただ。自分を数の外に置いてる。あんたがいっとう嫌うそれを、自分にやってるんだよ。……お頭。数の外で死ぬのは二度死ぬことだ。あんたがそう教えた。なら、あんたも数に入れろ。あんたが王都で死ぬなら、その死を谷の帳面に書かせろ。あんたの名前を書く欄を、寄越せ」
彼女は、答えない。
長いこと、答えなかった。手は引き継ぎの帳面の上に置かれたまま動かない。あの人がこれほど黙るのを、俺は数えるほどしか見ていない。蝋燭の芯の焦げる音が、聞こえるほどの沈黙だった。
それから、彼女はペンを取った。
名前の帳面を引き寄せて、最後の頁を開く。管理の責にある者。空欄の見出しの下にペン先を当てた。当てたまま、動かさない。一人につき一度止まるペンが、いま自分の名前の前で止まっている。俺の見てきた中で、いちばん長い止まりだった。
彼女は書いた。
ディートリンデ・フォン・アルテンブルク。歳の欄に、17。死因の欄は空けたまま。まだ死んでいないからだ。書き終えた行に、インクの滲みはひとつもなかった。彼女はペンを置き、吸い取りの砂を丁寧に振った。死者の名に振るのと同じ手つきで。帳面の上で、その名はほかの名と同じ大きさに並んだ。代官の名でも令嬢の名でもなく、数えられる者の名として。
引き継ぎの帳面の最後の数行が、写しの手元に残っている。乳の出ない母親とその赤子のこと。手当ては新麦までヘルガが見る。医官の薬が切れたら産婆の継ぎ足しで繋ぐ。自分の死の段取りと同じ夜に、赤子ひとりが冬を越す段取りが書かれている。死の欄と生の欄が、同じ紐で綴じられていく。
「これで、よろしくて?」と、彼女はヴェンツェルに訊いた。
声はいつもの高さに戻っている。
「……ああ」ヴェンツェルは長い息を吐いた。「それでいい。それであんたは、数の中だ。……俺たちと同じ、数の中だ」
ヴェンツェルは戸口へ向かい、一度だけ振り向く。
「お頭。ひとつだけ言っておく。俺は、計算できる主君が一番安全だと思って残った。いまでもそう思ってる。……だがな、今夜分かったよ。あんたは、自分まで計算に入れる主君だ。そういう主君を、俺は初めて見た。……あんたが自分を数に入れたんだ。なら、俺たちもあんたを数に入れる。当たり前だろう」
戸が音を立てずに閉まった。
執務室に彼女と俺だけが残った。机の上で名前の帳面が開いている。空欄だった見出しの下に、あの人の名がある。死因の欄だけが空いている。いつ埋まるのか。誰が埋めるのか。考えかけて、やめた。空欄を先回りして埋めるのは、あの人の帳面の作法に反する。死因は、事実が決まってから書くものだ。……決まらないでくれ、と思う俺の側には、書く欄もない。
「レンツ」と、彼女が言った。「写しを、続けなさい」
俺は写しを続けた。手が震えないように、ペンを強く握って。あの人が自分の名を書いた帳面の隣で、あの人のいない谷の段取りを写していく。頁は種籾の割りから冬の薪の当番へ進んでいった。あの人の字は最後の頁まで同じ大きさだ。俺の字は、何度か波を打った。書き損じた頁は破らずに線を引いて残す。それも、この帳面の作法だ。
写しながら、ヴェンツェルの言葉を頭の中で繰り返していた。あんたの数に、あんたを入れろ。恩義なら、命を返せと言うところだ。あの男は、数に入れろと言った。情ではなく、あの人に届く言葉で。選別されて生きた男が、物差しの使い方をいちばん正確に覚えていた。本物の物差しは、作った者にも当たる。谷が信じてきたのは、そういう量りだ。
夜明け前、写しが終わった。
蝋燭は2本とも根元まで減っていた。彼女は短い方を吹き消し、残りの1本で帳面の紐を検める。惜しむところは最後まで惜しむ人だ。それから机の引き出しから蔵の鍵をひと束出して、引き継ぎの帳面の上に載せた。鍵と帳面と写し。谷の急所が、机ひとつの上に揃っている。持っていく者は決まっていて、そこにあの人は入っていない。
彼女は引き継ぎの帳面に紐を掛け、名前の帳面を机の真ん中に置いた。死因の空欄を抱えた帳面を、谷に残すのか、王都へ持っていくのか。訊けなかった。訊けば、答えが出てしまう。
窓の外が白み始めても、広場の篝は燃えていた。
谷はひと晩じゅうそこにいた。武器を取った者はいない。家に帰った者もいない。いつも通りの朝を続けろという命令に、谷は最後まで半分だけ背き通した。その半分の背きを、谷は今日、護送の道へ持ち出すつもりだ。昨日ベルタが見送りの順番と呼んだものが、ひと晩かけて谷の総意になっている。武器を取らずに、谷ごとあの人の後ろを歩く——篝が燃え尽きるまでに、その形はもう決まっていた。




