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うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


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第45話「初めての命令違反」

沙汰は翌朝、板に貼られた。


彼女自身の指図だ。隠さない、撫でつけない。触れの板の作法は、自分を王都へ引き渡す紙にも同じに適用された。刈り入れの組割りと今日の配給の順番の隣に、王の印を打った紙が並んでいる。谷でいちばん正直だった板が、谷でいちばん重い知らせを運ぶ朝だった。


ヴィムが読み上げた。いつもの嗄れ声で、配給の順を読むのと同じ調子で王命の文言を追っていく。最後の一文の手前で、半拍だけ間が空いた。


——代官を王都へ護送し、公開の審問に付すべし。


読み終えてからも、ヴィムは板から目を上げなかった。


板の字が読めない年寄りには、数字を覚えた子どもが読み直してやるのがこの谷の習いだ。今朝は、どの子もせがまれなかった。大人がみんな、自分の耳で聞きに来ている。


人垣は静まり返っていた。調べの触れが貼られた朝とは別の静けさだ。あのときは遠い王都の影に身構えていた。今度のは、足の下の地面が抜けた者の沈黙だった。この谷を立て直した人を、王都が連れて行く。谷を生かした条文で、裁くために。


最初に動いたのはテオだった。


「……待ってくれ」


薪割りの斧を提げたまま、木挽きが板の前へ出る。


「審問ってのは、なんだ。代官様が賊を吊ったことを、裁くのか。賊を、だぞ。あの夜、村に火矢を射かけた連中を。吊らなけりゃ、いまごろ俺たちが灰だった連中を。……それを裁くのか。王都ってのは、頭がどうかしてるのか」


「テオ。お黙りなさい」


「黙れるか!」


斧が地面に叩きつけられた。刃が土を噛んで、柄だけが震えている。


「あんたが、いつ間違ったことをした。一度でもあるか。量りをごまかしたか。配給を抜いたか。賊に肩入れしたか。なんにもしてねえ。なんにもしてねえのに、なんで、あんたが」


谷の連中が板の前に集まり始めた。ベルタが、ヘルガが、量り場の者たちが。新参の17人まで戸口の陰から出てくる。代官の決めたことに逆らう者は、これまでこの谷にいなかった。決めたことがいつも当たったからだ。その谷が、彼女の目の前で膨れ上がろうとしている。


「皆、お聞きなさい」


彼女は声を張った。よく通る声だ。査問の場で3時間の沈黙を破った、あの声。


「これは決まったことですわ。王命は覆りませんの。私は受諾しました。……皆に、命じます。私を護送する者を妨げてはなりません。武器を取ってはなりません。谷に留まりなさい。そして——いつも通りの朝を、続けなさい」


谷に留まれ。いつも通りに。それが彼女の命令だった。


言い終えて、彼女は人垣を左から右へ見渡した。配給の列の頭数を数えるときと、同じ目の動きで。


「嫌だ」


人垣の後ろから声がした。


ゲルダ婆さんだった。杖をついて、ゆっくり前へ出てくる。配給の順で最後に置かれた老女。順番を言われたのは初めてだ、と言った人。その婆さんが、嫌だ、と言った。


「あたしゃね、代官様。あんたの言うことをひと冬きいてきたよ。順番に並べと言われりゃ並んだ。寄せ合いで他人と冬を越せと言われりゃ越した。あんたの言うことは、いつも当たったからね。……だがね。今度ばかりは、きけないよ。いつも通りの朝を続けろ、だって? あんたを王都に連れて行かれて? あたしらだけ椀を抱えて、のうのうと?」


婆さんの声は震えていた。怒りとは別の何かで。


「あんたはね、あたしらに順番をくれた。忘れられてた、あたしらに。あたしの名前を帳面に書いてくれた。エルゼの名前も、ヤーコプの名前も。数の外で死ぬのは二度死ぬことだ、ってあんたは言った。……じゃあね、代官様。あんたを王都にくれてやって、あたしらが知らん顔したら、それはあんたを数の外に置くことじゃないのかい。あんたがいっとう嫌う、それじゃないのかい」


谷が、しんとした。


教えた者に、教えが返っている。俺は口を挟めなかった。挟む資格のある者が、この場のどこにもいない。


彼女はしばらくゲルダを見ていた。それから答えた。声の高さは変わらない。


「ゲルダ。あなたが私を数に入れてくださるのは、ありがたいことですわ。ですが、勘定が違いますの。私一人を救うために谷が叛逆になれば、1,800が罪に問われますわ。1,800を量りの外に置いて、私一人を量りに載せる——それこそが帳面の偽りですの。私の物差しでは、1,800が私一人より重いの。いつも、そうでしたでしょう」


「……そりゃ」


「私を救おうとして谷を失うのは、私のいちばん嫌うことですわ」彼女はゲルダの方へ一歩出た。「あなたは私の物差しを正しく覚えてくださいました。数の外を作るな、と。……ですから、お願いしますの。私を救うのではなく、谷を続けてくださいまし。谷が続くことが、私の数えてきたものが続くことですわ。それが、私をいちばん救うことですの」


婆さんは答えなかった。杖を握る手が白くなっている。目に光るものがあって、彼女はそれを見ていた。見て、何も言わない。慰めは出てこない。悼みを冬の後に回す人の冬は、まだ終わっていない。


人垣は散らなかった。


テオもベルタもヘルガもゲルダも、誰も仕事に戻らない。命じられても戻らない。武器はまだ誰の手にもない。だから叛逆ではない。命令違反だ。この谷で最初の。


「……困りましたわね」


俺にだけ聞こえる声だった。困りました、と言うその声は、麦の値段を訊く高さから半音だけ外れていた。あの朝、俺に聞き取れた揺れはそれきりだ。姿勢は最後まで垂直だった。


その日、谷は仕事をしなかった。


配給だけはヘルガとベルタが回す。量りの検めもいつも通りに行われ、列は並び、椀が渡っていく。ゲルダ婆さんは今日も椀を自分の目で確かめてから受け取り、受け取ると列を離れずに板の前へ戻ってくる。谷は彼女の作った仕組みの方は守っている。守った上で、命令にだけ背いている。


教会の鐘はいつもの刻限に鳴った。鳴らすものは鳴らす、と決めている音だ。いつも通りの朝の側に残ったのは、配給の列とあの鐘だけだった。


畑にも量り場にも鍛冶場にも人はいない。人は広場にいた。板の前に固まって、何をするでもなく、そこにいる。声も上げない。拳も振るわない。命令を聞かないという一点だけを、谷は全員で守り続けていた。刈り入れは目前だ。組割りは今朝貼られたばかりで、鎌は研いであり、麦は待ってくれない。それを承知で、谷は畑に出なかった。麦を金貨のように数えてきた連中が、麦より重いものを量りに載せている。


峠を越えてこの谷を見下ろした日、夕餉の刻限に立つ煙は数えるほどしかなかった。秩序と呼べるものは何もなく、あったのは力の順番と忘れられた死だけだ。あの人が来て量りを置き、順番を作り、名前を数えた。いま板の前に立つ連中は、その量りが生かした顔ぶれだ。ベルタの隣で、新参の母親が赤子を抱いて立っている。医官の薬と産婆の手当てで繋いでいる、あの赤子。生きている勘定が広場にそのまま並んでいる。並んで、勘定した当人を渡すまいとしている。


館の前では護送の支度が進んでいた。馬糧の袋、替えの蹄鉄、雨覆いの油布。積まれていく荷の量が、王都までの道の長さをそのまま語っている。谷は、それも黙って見ていた。


昼過ぎに一度、人垣の端にいるベルタへ声を掛けにいく。子らだけでも家に帰しては、と言いかけて、最後まで言えなかった。ベルタは赤子を抱いた母親の肩を支えたまま、俺を見返す。


「騎士様。あたしらは何も壊しちゃいないよ。並んでるだけだ。並び方なら、あの人に教わった」


「……列の先に、配るものは何もないぞ」


「あるさ」ベルタは板の方へ顎をやる。「見送りの順番てのがね。今度ばかりは、誰も先を譲らないよ」


返す言葉がなかった。並ぶことはこの谷では従うことの形で、その形のまま、谷は逆らっている。


俺は日のあるあいだじゅう、剣の柄に手を置いていた。


置いて、何もできない。昨日、抜いて納めた剣だ。谷が立ち上がっても、剣で守れるものは何もない。守るべき当人が、守られることを拒んでいる。騎士の教本のどこを探しても、この持ち場の名前はない。


詰所には別の空気が流れていた。


ハイラムとヴェンツェルが卓を挟んで地図を広げている。谷から王都までの道のり。峠、宿場、街道の分かれ。古傭兵の指が峠の隘路を叩いた。


「護衛は12騎だ。護送に全部は割かねえだろう。半分残して、半分で連れていく。6騎なら——隘路で、止められなくはねえ」


「お頭が許さねえよ」とヴェンツェルが返す。


「許しは訊いてねえ。算段を立ててるだけだ」ハイラムは煙草に火を点けないままだ。「40年、人を逃がす算段も人を止める算段もやってきた。やろうと思えば、できる。問題はその先だ。6騎を止めて、お頭を奪い返して、それで谷はどうなる」


「叛逆だ」ヴェンツェルは即答する。「谷ごと賊になる。次に来るのは6騎じゃねえ。60騎だ。お頭がいっとう嫌う形よ」


2人は黙った。地図の上で、谷から王都までの道が細く長く伸びている。


「……分かってんだよ」ハイラムが地図を巻く。「分かってて、算段を立てちまう。40年の癖だ。指揮官を死地に置いて手をこまねく傭兵なんざいねえからな。だがな、騎士様」古傭兵は俺を見た。「今度ばかりは、俺の癖の方が間違ってる。お頭を奪い返すのは、お頭を裏切ることだ。あの人は谷を生かすために自分を差し出した。奪い返したら、その差し出しが無駄になる。……俺は40年で一度もしなかったことをする。指揮官を死地に置いて、手をこまねくのをな」


ヴェンツェルは何も言わなかった。


地図の上の王都の位置を長いこと見ている。楡の木で仲間を見送った男だ。選別されて、生かされた側。その目の奥で何かが煮えているのは分かる。言葉になって出てくる気配は、まだない。


夕方、彼女は広場に下りた。


板の前に固まったままの谷の前に立って、いつもの高さで言った。明日、護送が発ちますわ。見送ってくださって結構ですの。武器は取らない。手は出さない。それだけは守りなさい——と。


谷は答えなかった。答えないことが谷の答えだった。武器は取らない。だが、いつも通りの朝には戻らない。命令の半分だけを受け取って、残りの半分を黙って突き返す。


彼女はそれ以上命じなかった。


命じても聞かれないことを、あの人は分かっていたのだと思う。何を命じても従った谷が、いま半分しか従わない。その半分をあの人がどう帳面につけたのか、外からは読めない。


日が落ちて、広場に篝が焚かれ始めた。


ひとつ、またひとつ。誰が言い出したのでもない。薪は各戸の持ち寄りで、冬に備えて数を数えてある薪だ。その数を承知で、谷は火にくべている。明日の朝、この広場から護送が発つ。谷は最後の夜を家の中では過ごさないと決めたらしかった。


王の印を打った紙と明日の配給の順番が、同じ火に照らされて板の上に並んでいる。


篝の並びは、遠目には配給の列に似ていた。

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