第44話「彼女が、頷く」
王都からの早馬は、伯の報せが峠を下りてわずか12日で戻ってきた。
早すぎる。報せが王都に届き、評議にかけられ、沙汰が下りてここまで戻る。順に踏めばひと月は要る道のりだ。それが12日。つまり沙汰は、伯の報せを待たずに用意されていたことになる。伯の調べは口実だ。本物の善意の報せが届く前から、結論は王都の机の上で乾いていた。
早馬が杭の線を越えたのは、昼前だった。乗り手より先に馬が限界で、口の周りが泡で白い。峠の見張りの知らせで、俺たちは館の前に揃っていた。使者は水だけを受け、休息を断った。急ぐ理由のある使いの顔だ。
使者は、館の広間で王命の書状を読み上げた。
護衛の12騎が壁際に並び、書記官が控え、伯がその場にいた。伯の顔は強張っていた。自分の報せを待たずに沙汰が来たことの意味を、この人もその場で悟ったのだ。利用されている、と面談で言った言葉が、いま目の前で証明されている。
書状の中身は短かった。読み上げの合間に、書記官が写しを取る筆の音だけが挟まった。
——ヴェルデン代官ディートリンデ・フォン・アルテンブルクは、王権の認可を経ず、私意により領内にて即決の処刑を行えり。代官に即決処刑の権限なきは、王国の法の定むるところ。よって処刑された者の数につき、代官の罪を問う。当人を王都へ護送し、公開の審問に付すべし——。
条文の2番だ。領の内側に手を出した敵は、必ず殺す。逃がさない。二度目を与えない。あの人がこの谷を生かした、まさにその条文が罪状の形に切り出されている。賊を吊った縄が、谷を守った縄が、王都の机の上では別の結び方に読み替えられる。ハイラムの読みが、一字も外れずに当たった。
読み上げが終わって、広間が静まり返った。
彼女は卓の前に立っていた。藍の上着で、いつものように。書状を読み上げる声を、姿勢を崩さずに最後まで聞いていた。査問の場で3時間、姿勢を崩さなかった人だ。俺はその横顔を見ていた。手袋の手は前で組まれたまま動かない。表情は、麦の値段を聞いたときと変わらない。
使者が最後の一文を読んだ。
「——代官は、王命を受諾するや」
受諾するや。問いの形だが、答えは決まっている。逆らえば家人連座。受ければ一人で済む。一年前の査問の場と同じ構図だ。あのとき彼女は、全部やりましたわ、と言って一人で罪を引き受けた。損切りだった。今度も同じ損切りが、目の前に置かれている。
だが今度の損切りは、一年前とは意味が違う。
俺はその場で、それに気づいてしまった。
一年前の彼女は流刑を受けた。流刑は、生きて任地へ行くことだ。今度の沙汰は、処刑のための審問。受諾するということは、自分の死を王都の手に委ねるということだ。即決処刑の権限を問われ、その罪で、彼女自身が即決ではない裁きの末に死ぬ。
そして、思い出した。
執務室の空欄の見出し。管理の責にある者。墓地で、窪みの長さを自分の背丈で測った視線。量りの皿に自分の手を載せた仕草。あの3つが一本の糸で、いま持ち上がった。あの人は知っていたのだ。この沙汰が来ることを。来たときに、自分がどう答えるかを。だから帳面に、自分の欄を先に作っていた。
彼女が口を開いた。
「条文の2番ですわね」使者にではなく、確かめる声だった。「領の内側に手を出した敵は、必ず殺す。逃がさない。二度目を与えない。……私が、谷で、一番きちんとやったことですわ」
「代官。王命への返答を」と使者が促した。
彼女は書状に目を落とし、顔を上げた。
「私の谷では」と、彼女は言った。声の高さは変わらない。「私の管理の内側で、量られずに死ぬ者を、一人も出しませんでしたの。賊も、領民も、間に合わなかった者も、全員、帳面に名前があります。……量る者が、自分だけを量りの外に置くのは、帳面の偽りですわ。私は、自分を、例外にしませんの」
自分を、例外にしない。
条文の4番だ。配給は最後尾、危険は先頭。自分を勘定から外さない。あの条文を、彼女は極限まで自分に適用しようとしている。即決処刑の責を問われるなら、責を負う者を量りの外に置かない。順番の後ろで死んだ者を帳面に書くなら、順番を決めた者も同じ帳面に書かれる。管理の責にある者——あの空欄の見出しに、彼女は自分の名を書こうとしている。
「私は、受諾しますわ」
彼女が、頷いた。
その頷きを、俺は外から見ているしかなかった。
首がわずかに前へ倒れて、戻る。動きとしてはそれきりだ。表情は変わらない。声も、上がりも下がりもしない。
頷く直前、彼女の指が一度だけ強く握り直された。手袋の革が、きしむほどに。それきり、手は元のとおり組み直された。
それが、俺の見たすべてだった。
内側で何が起きていたのか、俺には永遠に分からない。悲しんでいたのかもしれない。何も感じていなかったのかもしれない。勘定を済ませただけなのかもしれない。
だが俺は、あの頷きを悲劇とは呼ばなかった。
悲しみで頷いたのではない。自分の物差しを自分に当てて、その帰結として頷いた。順番の後ろで死んだ者を帳面に書いてきた者が、自分の番が来たとき、自分を帳面の外に置かなかった。
淡々と、というのが一番こたえた。
受諾は感傷ではない。論理だ。
あの人が命乞いをしなかったのは、可哀想な娘だからではない。自分の条文を最後まで自分に適用したからだ。敗北でもなんでもない。勘定の、続きだった。
——そこから先のことは、自分でもよく覚えていない。
気がつくと、剣の柄を握っていた。
抜いていた。半ば。鞘から覗いた刃が、銀の光をひとすじ広間に放っている。誰に向けて抜いたのか、抜いた本人にも分からない。使者か。護衛の12騎か。王命そのものにか。違う。俺の体は、彼女と書状の使者のあいだに割って入ろうとしていた。
彼女のために、抜いていた。
一年前、楢の根元で誓った。この剣は王国のものだ。騎士の誓いのものだ。あの人のために抜く日は来ない。来ないはずだ、と。——その日が、来てしまった。剣はあの人のために抜かれていた。理屈ではない。考えて抜いたのでもない。頷きを見た瞬間に、体が勝手に。
「レンツ」
彼女の声だった。
「剣を、納めなさい」
振り向くと、彼女がこちらを見ていた。麦の値段の目だ。その目が、抜きかけた俺の剣を一度だけ見た。
「あなたの剣で、止められるものでは、ありませんわ」と、彼女は言った。「使者を斬れば、家人連座ですの。護衛を斬れば、谷が叛逆になりますわ。あなたが一人斬るたびに、谷の勘定が、一人ずつ、欠けますの。……それは、私の数えてきたものを、あなたが壊すことですわ。剣を、納めなさい」
剣を、納めなさい。
手が震えていた。半ばで止まった刃ごと、震えていた。斬れない。斬っても、止まらない。使者を斬れば次の使者が来る。護衛を斬れば次の12騎が来る。あの人を死なせまいと剣を抜けば、抜いた分だけ、あの人の数えてきた谷が欠ける。剣では何ひとつ守れない。一年前、躊躇が人を殺した。今度は、剣を抜いても人を救えない。
俺は剣を鞘に戻した。
刃が鞘に滑り込む音が、静まり返った広間にやけに長く響いた。戻した剣の柄に汗が滲んでいる。あの晩、賊の少年に切っ先を向けて下げた手と、同じ手だ。あのときは抜けずに人を殺した。今度は抜いて、誰も救えなかった。剣というものはどちらに転んでも間に合わない。間に合わないものを、俺は一年、腰に下げて歩いてきた。
「結構ですわ」と、彼女は使者に向き直った。「王命を、受諾します。護送の段取りを、伺いますわ」
使者は受諾の署名を求め、彼女はその場で署名した。ペンを借り、立ったまま、一度で書き終えた。一年前、流刑の辞令に署名したのと同じ手で。違うのは、今度の署名の先にあるのが任地ではなく審問だということだ。
広間の隅で、伯が立ち尽くしていた。
本物の善意が、自分の報せを待たずに下った沙汰の前で、為す術もなく立っている。伯の人道は彼女を断罪したかった。だが、こんな形ではなかったはずだ。調べを尽くし、見たままを書き、その上で人道の名のもとに正す。それが伯の望んだ形だった。王都はその手順を踏まない。伯の正しさを口実にして、結論だけを先に置く。本物の善意の調べは、結論を飾る額縁にされていた。
それでも伯は、一度だけ口を開いた。
「お待ちあれ」と、伯は使者に向かって言った。「私は、調査団の長だ。私の報せが、まだ王都に届いておらぬ。沙汰は、私の調べを踏まえて下されるべきもの。この沙汰は、手順を欠いている。私は、これに——」
「伯爵閣下」と、使者が遮った。「沙汰は、王命にござる。調査の報せは、追って参照されましょう。閣下のお役目は、果たされました。ご懸念には及びませぬ」
果たされました。その一言が、伯の言葉を根元から断った。あなたの役目はもう終わっている。あとは結論を運ぶだけだ。伯は口を開いたまま、次の言葉を失った。掲げかけた手が行き場をなくして、ゆっくり下りる。
利用された善意が、利用された証拠を目の前で突きつけられている。伯はそれ以上、何も言わなかった。言える言葉が、どこにもなかったのだと思う。
その夜、谷にはまだ沙汰が伝わっていなかった。
広間にいたのは、ひと握りの者だけだ。使者も護衛も口を閉ざしている。明日の朝、板に貼られるまで、谷は何も知らない。配給はいつもの刻限に出るだろう。量りはいつもの検めをするだろう。ゲルダ婆さんは椀を自分の目で確かめてから受け取るだろう。何も知らずに。詰所の灯はいつもの明るさで、誰かの笑い声が短く漏れて夜に消えた。
館を出ると、夏の夜気が汗の引いた背中に冷たかった。空にはいつもの星が並んでいる。星は王都の沙汰を知らない。谷の麦も知らない。麦の穂が夜風に鳴って、谷の夜はそれきり音がない。振り返ると、執務室の窓にはまだ灯が点いていた。あの人が今夜、何を書いているのか。確かめには行かなかった。
帰り道、触れの板の前を通った。今日の板には刈り入れの組割りと、明日の配給の順番が貼られている。明日の朝にはその隣に、王都の紙が並ぶのだろう。谷でいちばん正直だった板が、谷でいちばん重い知らせを運ぶことになる。
鞘の中の剣を、もう一度握ってみた。納めた剣は何も解決していない。抜いても納めても、あの人を王都の手から守れない。一年前、この剣は王国のものだと思っていた。騎士の誓いのものだと。いまは違う。この剣はあの人のために抜かれ、あの人のために納められた。抜くことも納めることも、あの人のためだった。それでも、あの人を救えない。剣で救えないものを、では何で救うのか。
答えはまだ出ない。出ないまま、谷の夜は更けていく。
知らないまま迎える谷の最後の朝が、もうすぐ明けようとしていた。




