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うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


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第43話「彼の秤」

谷を一巡した聞き取りの終わりに、小さな騒ぎがあった。


新参の17人のうちの一人、まだ6つの女の子が、教会の小部屋で泣き出したのだ。伯が怖がらせたのではない。代官様は好きか、と訊かれて好きと答え、それから自分でも分からないまま泣き出したという。後で母親がベルタに語ったところによれば、子は前の村で、調べの役人に問われた晩のことを覚えていた。あの晩のあと、村は椀をくれなくなった。問われること自体が、あの子には飢えの前触れなのだ。


伯はその子に何もしなかった。問いを止め、書記官に筆を置かせ、泣きやむまで待った。それから帽子を取って、低い声で言ったそうだ。もう、訊かぬ。すまなかった、と。本物の善人は子を泣かせたことを子に詫びる。母親が後で言った。あのお貴族様はほんとうにいい人だよ。いい人だから、こわい。


その晩、その子は配給の列に並んだ。母親に手を引かれ、椀を抱えて。前の村がくれなかった椀を、この谷は調べの晩も翌朝も変わらず出す。問われても椀が消えない谷。番小屋の脇からそれを見ながら考えた。伯の人道と彼女の量りの、どちらが先にこの子に椀を渡したか。答えは列に並んでいる。椀を受け取った子は湯気に顔を近づけて、それから母親を見上げて笑った。量られた麦だ。量られた麦が今夜もあの子の腹で夜を越す。


聞き取りが谷を一巡したあと、伯は彼女に面談を申し入れた。


調べる者と調べられる者が、卓を挟んで向き合う。場所は館の広間。立ち会いは書記官が一人と俺。騎士殿の同席を願いたい、と伯の方から名指しがあった。あなたの目は歪まない、と言った男だ。歪まない目に見届けさせる気でいる。


広間の卓は半壊した代官館に元からあった一枚だ。天板に古い焦げ跡が一筋走っている。前の代官の代に何があったのかは知らない。その焦げ跡を挟んで、流刑の罪人と王命の調査団長が向き合った。どちらも谷のために来たわけではない。一人は谷を生かすために、一人は谷を正すために来た。生かすと正すが同じ卓の上でこれからぶつかる。


「単刀直入に申し上げる」と、伯は卓に着くなり言った。「私は谷を一巡し、領民にもあらかた話を聞いた。……代官殿。一人として、あなたを悪く言う者がいなかった」


「口裏を揃えさせた、とお疑いになりますの」


「疑った」伯は頷いた。「最初は、疑った。だが、10日も聞けば分かる。揃えた筋書きは、別々の相手に別々の順で問えば、必ずほつれる。あなたの谷には、ほつれがなかった。……理由は、ひとつしかない。揃えていないからだ。みな、見たことを、見たまま話した。ばらばらの正直は、突き合わせれば帳尻が合う。なぜなら、起きたことが、ひとつしかないからだ」


彼女が口裏について言った言葉、そのままだった。伯は調べることで、彼女のやり方の正しさを自分の手で証明してしまった。証明してしまったことを伯は隠さない。それがこの男の正直さだった。


「ですから、私は困っている」と伯は続けた。「あなたの統治には、嘘がない。数字は合い、餓死はゼロ、賊は退けられ、隣領の崩れにも、不正の証は出てこない。職分の調べとしては、これは——成功した統治だ。文句のつけようがない」


「では、そうお書きになればよろしいわ」


「書けぬ」伯の声が低くなった。「書けぬのだ、代官殿。あなたの谷は、成功している。だが、私の信じる人道に照らせば、これは、成功してはならない種類の成功だ。……人を量って生かす谷が、量らずに生かす谷より、よく人を生かしている。この事実を、私はどう書けばよい。私の人道が正しいなら、あなたの谷は失敗していなければならない。だが、谷は失敗していない。失敗しているのは——私の人道の方かもしれぬ」


広間から音が消えた。書記官の筆も止まっている。本物の善人が自分の信念の足元が崩れかけていることを、調べる相手の前で口に出した。これほど無防備な一手を、俺は見たことがない。


彼女はしばらく伯を見ていた。それから、首を振った。


「お間違えですわ、伯爵殿」


「……間違い」


「あなたの人道は、失敗しておりませんの」彼女は卓の上で手を組んだ。「私の谷も、失敗しておりませんわ。両方とも正しいの。ただ、立っている土地が違いますの。……あなたの人道は、余りのある土地のものですわ。蔵に3か月分の余りがあれば、量らずに全員を生かせますの。量る必要がないのですもの。私の谷の蔵には、余りが9日分しかありませんわ。9日の余りで1,800を生かすには、誰かを後回しにする順番が要りますの。順番を作れば、後ろで死ぬ者が出ますわ。それでも、順番のない谷より、死ぬ数は少ないの」


「では、余りができれば」伯は身を乗り出した。「9日の余りが、3か月の余りになれば。あなたは、量るのをやめるのか」


彼女は即答しなかった。


その一拍を俺は見ていた。あの人が答えに詰まるのは珍しい。いや、詰まったのではない。選んでいた。やめます、と言えば伯は安堵する。やめません、と言えば、伯は彼女を量ることそのものに取り憑かれた人間だと見る。どちらを言っても嘘にならない答えを、あの人は選んでいた。


「余りができたら、量りの目盛りをゆるめますわ」と、やがて彼女は言った。「やめは、しませんの。量りを捨てた谷は、次の不作でまた墓穴から埋まりますもの。ゆるめて、置いておきますわ。……伯爵殿。あなたの仰る『量られずに息をつく置き場』は、量りを捨てて作るものではありませんの。量りをゆるめて作るものですわ。捨てた量りは、いざというとき、二度と手に取れませんの」


伯は長いこと黙っていた。


それから口にしたのは、調べとは別のことだった。


「……代官殿。ひとつ、私事を申し上げる」伯の目は卓の木目に落ちている。「私はこの調べを、王命で受けた。受けたとき、私は信じておった。飢えた土地で、流刑の罪人が、人を虐げて統治している。それを、人道の名のもとに、正す。——立派な仕事だと、信じて、参った」


「いまは」


「いまは、分からぬ」伯は顔を上げた。「谷に来て10日が過ぎた。私が正すべき悪は、どこにもない。あるのは、私の信じる人道では割り切れぬ、成功した統治だけだ。……ならば、なぜ王都は、私のような者をわざわざこの谷に送った。本物の善人を、本物の善意で。脅しの利かぬ、買えぬ、欺けば一番深く刺さる男を」


伯の声が初めて、自分の足元を疑う色を帯びた。


「私は、思い始めている」と伯は言った。「王都は、私に、谷を正させたいのではない。私に、谷を断罪させたいのだ。——本物の善人が、人道の名で断じれば、それは、誰にも疑えぬ断罪になる。私の正しさが、誰かの口実に、使われている。私の善意が、研ぐ必要のない刃として、誰かの手に握られている」


善人の調べの後ろに、善人じゃねえ仕事の手配り。ハイラムの言葉が、伯自身の口から別の形で出てきた。この人は自分が使われていることに半分、気づいている。気づいて、なお——。


「お気づきになって、調べを、お止めになりますの」と彼女が訊いた。


「止めぬ」即答だった。「利用されていようと、私の見たものは私の見たものだ。私はあなたの谷を、人道に欠けると見た。その見立ては、誰に利用されようと、私の信念だ。曲げぬ。……ただ、代官殿。これだけは言っておく。私の報せが王都でどう使われるか、私には止められぬ。私は見たままを書く。見たままがあなたを害するなら——それは私の責任ではない。私の正直の、責任だ」


見たままを書く。それを害に変えるのは自分ではない。伯の構えは俺の月次報告と同じだった。ありのままに書く者の正直が、書かれた者を害する。その軋みを伯も俺も、同じ場所で抱えている。違うのは立っている場所だ。伯は谷の外から来て、俺は谷の中にいる。


面談が終わって伯が広間を出ていったあと、彼女は窓の外を見ていた。


護衛の12騎が納屋の前で馬の手入れをしている。規律のいい連中だ。あの頭が夕方になると谷の見取りを歩いて回る、とハイラムが言っていた。井戸の位置、蔵の位置、杭の線。調べの護衛の歩き方ではない。万一の段取りを組む者の歩き方だ。本物の善意の調べの後ろで、本物の善意ではない手配りが進んでいる。


「あの方は、本物ですわね」と、彼女は窓の外を見たまま言った。「利用されていると知って、なお信念を曲げない。……買えず、脅せず、欺けば一番深く刺さる。私の見立ては、間違っておりませんでしたわ」


「勝てますか」と俺は訊いた。「あの人に」


「勝ち負けの話では、ありませんの」彼女は窓辺で手袋を嵌め直した。「あの方は、見たままを書きますわ。私は、隠さずに見せましたの。2人とも、正直ですわ。正直同士の勝負は、勝つ負けるではなく——どちらの正直が王都の机で使いやすいか、で決まりますの。そして、人道の正直の方が使いやすいに決まっていますわ。絵になりますもの」


絵になる正直。ハイラムの言った絵になる間違いと根は同じだ。谷の地味な正しさは、王都の机では人道の絵に勝てない。彼女はそれを最初から知っている。知っていて、なお隠さずに帳面を差し出した。負ける勝負と知って正直を選んだ人の背中が、夏の夕日の中で、いつもよりわずかに細く見えた。


その晩、伯は調べの報せを書き始めた。


館の客間にあてがわれた卓で、蝋燭を立てて、自分の手で。書記官に口述させるのではなく、自分で筆を執った。本物の善意は人任せにしない。廊下を通りがかった俺は、開いた戸の隙間からその後ろ姿を見た。日に焼けた指がゆっくりと確かに動いている。あの指の書く一行ずつが、王都の机で彼女を断罪する刃に編まれていく。書いている本人はそれを断罪と呼ばない。見たまま、と呼ぶ。


俺もその晩、月次の下書きを開いた。


伯の報せと俺の報告。2枚の紙が同じ谷を別の訛りで書く。伯の紙は人道の絵を描く。俺の紙は——何を描けばいい。事実を書け、とあの人は言った。書いてきた。だが事実だけでは、谷の道理は王都に通じない。絵になる間違いに、地味な事実は勝てない。勝てないと分かっていて、それでも事実を書くしかない。あの人が隠さずに帳面を差し出したのと同じことだ。


筆を執って、最初の一行を書いた。視察団、聞き取りを終え、報せを起草中。谷に異変なし——書きながら、異変はある、と思った。あの人が自分を量りに載せ始めている。空欄の見出し。窪みを測る視線。だが報告の様式のどこにも、それを書く欄がない。書けない異変を胸の内に抱えたまま、書ける事実だけを紙に並べた。


王都からの返事が峠を越えてくるまで、あと10日ほどある。谷は夏の終わりの青い麦の下で、いつも通りの朝を重ねていく。その10日の先に何が来るのかを、このときの俺はまだ知らなかった。

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