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うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


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第42話「条文の軋み」

聞き取りが10日を越えて、谷は妙な二重暮らしに慣れ始めていた。


昼のあいだ、領民は一人ずつ教会に呼ばれて伯に問われる。代官をどう思うか。処刑の場で何を見たか。配給で割を食ったことはないか。戻ってきた者の顔は人によって違った。ベルタは何でもない顔で量り場に戻り、テオは肩の傷を撫でながら薪を割りに行く。北から入った新参の17人には、戻ってからしばらく口数の少なくなる者がいた。調べの後で椀をくれなかった村を知っている者にとって、教会の小部屋は、それだけで身構える場所なのだ。そういう者にはベルタがまた肩に手を置いて、短く何か言っていた。谷は谷なりのやり方で、調べの季節を凌いでいる。


ゲルダ婆さんは呼ばれた帰りに量り場へ寄って、婆さんらしいことを言ったそうだ。何を訊かれたんだい、と誰かが訊く。婆さんは昔のことさ、と答えて付け足した。昔のことをありのまま話すのが、いまのあの人への義理ってもんだろ。触れの板の前でそれを又聞きして、俺は谷の腹の据わり方に少しだけ救われた。


それでも谷の手は止まらない。畑の麦は色を変え始め、年寄りどもは日に何度も穂を見に行く。グンナルの鍛冶場からは刈り入れの鎌を打つ音が響き、ヘルガは雪の季節の炭木を山で見立てている。寝起きは里、炭は山。あの沙汰のとおりの暮らしが、調べの影の下でも続いていた。夕方の触れ板には刈り入れの組割りが早くも貼り出されている。鎌の数、研ぎの当番、初俵を運ぶ荷車の手配。子どもらは板の前で数字を諳んじて、読めない年寄りに読み上げてやっていた。人の谷ではない、と言われた谷で、人は人の暮らしをしている。その食い違いを、俺は毎日、目の端で見ていた。


最初の異変に気づいたのは、夜の執務室でだ。


聞き取りが谷の半分まで進んだ晩、彼女は名前の帳面を開いていた。検めに差し出した綴りは本堂にある。手元のこれは控えではなく、原本の方だ。死んだ者の名前を書きつけてきた、一冊しかない帳面。彼女はその最後の頁の、まだ何も書かれていない余白にペンの先を当てていた。


当てて、しばらく動かなかった。


俺は白湯を運んできた手を止めて、それを見ていた。あの人が帳面の前でペンを止めるのは珍しいことではない。名前を一つ書くたびにペンは一度止まる。一人につき一度ずつ止まるペンを、あの人は前の生で覚えた。俺はもう、それを知っている。だが今夜の止まり方は違った。書く名前がないのに、止まっている。


「……新しい欄を、作りますの」


俺に言ったのか、自分に言ったのか、分からない声だった。


ペンが動いて、最後の頁に新しい見出しが立った。これまでの頁の見出しは、どれも死んだ者の区分だ。着任の週の47。最初の冬の賊。報復の9人。間に合わなかった民。今夜の見出しは、そのどれとも違っていた。


——管理の責にある者。


書いて、彼女はその下に何も書かなかった。見出しだけが空欄の上に立っている。


「それは、何の欄です」


「いずれ要る欄ですわ」彼女はペンを置いた。「死者の帳面には、死んだ者を書きますの。誰の責任で死んだか、までは、これまで書いてきませんでしたわね。順番を決めた者の名は、どの頁にもありませんの。……それでは、片手落ちですわ。順番の後ろで死んだ者を書くなら、順番を決めた者も、同じ帳面に書かれるべきですの」


伯の言葉だ。順番を決めた者には、順番の後ろで死んだ者の責任がある。本堂で投げられたあの言葉を、彼女は否まなかった。否まないどころか、帳面にそれを書く欄を作っている。告発状だと言われた帳面に、告発される者の名を書く欄を、自分の手で。


「……名前は、書かないんですか」


「まだですわ」彼女は頁を開いたままにした。「いずれ、ですの」


いずれ。その言葉が夜の執務室に薄く残った。俺は意味を測りかねたまま白湯を置いて下がった。廊下に出ても、空欄の上の見出しが目の裏から消えない。管理の責にある者。誰の名前も、まだない。


2つ目は、墓地でだ。


翌日の昼下がり、聞き取りの合間に彼女は墓地へ上がった。埋め戻しは新麦の初俵が蔵に入る日、と決めてある。あとふた月足らず。その日数を空の墓の脇で確かめる用があったらしい。30掘って、使ったのが2つ。残る28の窪みが夏草の中で口を開けている。


昼の墓地は乾いた草の匂いがして、谷の下から鎌を打つ音が細く届いていた。彼女は窪みの列の前に立って、数えていた。指を折るでもなく、目でひとつずつ。アルマ婆さまの土饅頭。ヤーコプの土饅頭。それから、空の28。いつもならそれで踵を返す。今日は返さなかった。


彼女は列の端の窪みの前に立ち、その長さを目で測っていた。窪みは人ひとりが横たわる長さに掘ってある。彼女の背丈とその長さのあいだを、視線が一度往復した。


坂の下でそれを見ていた俺は、首の後ろが冷えた。


理由は言葉にならなかった。あの人が空の墓を見るのは今日が最初ではない。これは谷の傷ではなく谷の検算だ、と言った人だ。28の空白ごと調べの目に晒すと決めた人。だが今日のは検算の目ではなかった。あの窪みの一つに自分を並べる視線を、彼女はたしかに送っていた。考えすぎだと笑われるなら、笑われてもいい。俺の見たものはそれだった。


「……何を、測っておられたんです」坂を下りてきた彼女に訊いた。


「窪みの長さですわ」事もなげな答えだった。「掘った当時より、土が崩れて、浅くなっておりますの。埋め戻すまでに一度、掘り直させなければ。崩れた墓は、埋める者に失礼ですわ」


理屈は通っていた。通りすぎていた。通る理屈の下に別の何かが沈んでいるのを、俺はこの一年で嗅ぎ分けるようになっている。今日のそれは、嗅ぎ取れても名前がつけられなかった。


墓地の坂を下りたところで、ゲルダ婆さんに会った。


婆さんは草むしりの届けを出して、墓地の縁の草を抜いていた。配給で後回しにされてきた側の老女が、空の墓の手入れを買って出る。あれは婆さんなりの、谷への払い方だ。婆さんは抜いた草を風下に寄せながら、坂を下りる彼女の背中を目で追っていた。


「……騎士様」草を抜く手は止めない。「代官様は、近ごろ、墓を長く見なさるね」


答えに詰まった。しわの奥の目はまだ鋭い。あんたの目は迷ってる、と図星を刺してきた目だ。その目が彼女の変化にも気づいている。


「いつもの検めだろう」


言った声が、自分でも嘘くさかった。


「検めの目じゃないよ、ありゃ」婆さんは草を寄せた。「あたしゃ長いこと、死ぬのを待たされてきた女だからね。墓を、自分のことみたいに見る目ってのを、知ってるのさ。……いいかい、騎士様。あの人は、谷のことしか考えない人だ。それは、いいことさ。けどね、谷のことしか考えない人ってのは、いざってときに、自分のことを、谷のために放り出しちまう。あたしらが順番をもらった代わりに、あの人は、自分の順番を、どこに書いたんだろうね」


自分の順番を、どこに書いたか。


執務室の空欄が浮かんだ。管理の責にある者。あの欄が彼女の順番の置き場なのだとしたら——先を考えるのはやめた。やめても、婆さんの言葉は腹の底に残った。配給の最弱者だった老女が、誰より早くそれに気づいている。


3つ目は、その日の夕方、量り場でだ。


配給の仕舞いの刻、彼女は量りの検めに立ち会っていた。ヘルガが皿を拭き、明日の分の分銅を並べる。彼女は分銅のひとつを手に取って量りの皿に載せた。目方の狂いを確かめる、いつもの検めの仕草だ。だが載せたあと、彼女はその皿をしばらく見ていた。


それから、空いている方の皿に、手袋をした自分の手を軽く載せた。


分銅と、自分の手と。釣り合うはずがない。皿が傾いて、手の側が沈む。彼女はその傾きを一度見て、手を下ろした。何でもない仕草だ。何でもない仕草の何が引っかかるのか分からないまま、俺はそれを見ていた。


ヘルガは気づかず、分銅を並べ直して量り場を仕舞った。


その晩、手控えに3つのことを書いた。空欄の見出し。窪みを測る視線。量りに載せた手。別々の出来事だ。別々の出来事をなぜ一枚の紙に並べたのか、書いた本人にも分からない。3つに共通する何かがある気がして、その何かに名前をつけられずにいた。


詰所で、ハイラムにだけ話してみた。


夜の詰所には他に誰もいない。ヴェンツェルの組は峠の見回りに出ている。3つの出来事を見たまま並べる。古傭兵は煙草の煙を細く吐いて、しばらく黙っていた。それから煙草を灰皿の縁で叩く。


「……俺はな、騎士様」低い声だった。「40年、戦場で指揮官を見てきた。いい指揮官と悪い指揮官の見分けは、すぐつく。だがな、いちばん厄介なのは、いい悪いじゃねえ。——自分を勘定から外す指揮官と、外さねえ指揮官だ」


「外さない、というのは」


「自分を、駒の一つに数える指揮官のことよ」ハイラムは窓の外の暗がりを見た。「たいていの指揮官は、自分だけは別だと思ってる。兵は死ぬ。だが俺は生き残る側だ、ってな。……お頭は、違う。あの人は、自分を、谷の駒の一つに数えてる。配給は最後尾、危険は先頭。あれは、立派な心がけなんかじゃねえ。あの人にとっちゃ、ただの勘定だ。自分も、量りに載る一個の目方なのさ」


「それの、何が厄介なんです」


「厄介じゃねえときは、いちばん頼れる」古傭兵は俺を見た。「自分を数に入れる指揮官の下なら、兵は安心して死ねる。俺がここに残った理由も、半分はそれだ。……だがな、騎士様。その勘定がな、悪い方に転がるときがある。自分を数に入れる、ってのはな、いざとなったら、自分を数から差し引くこともできる、ってことだ。全体を生かすために、自分一個を引き算する。それを、ためらわねえ。……お前さんの見た3つが、もしそっちの兆しなら」


ハイラムはそこで言葉を切った。切って、首を振った。


「いや。考えすぎだろう。調べの最中だ。誰だって、らしくねえこともする。……忘れろ。俺が言ったことは、忘れていい」


忘れろと言われて忘れられる話ではなかった。自分を数から差し引く。全体を生かすために、自分一個を引き算する。ハイラムの言葉が、俺の見た3つの出来事に一本の名前を与えかけていた。与えかけて——俺はその名前を最後まで口の中で言わなかった。言えば、本当になる気がしたからだ。


寝る前に、書いた3行をもう一度読み返した。読み返しても答えは出ない。出てこないふりを自分にしていた。嫌な予感だけが腹の底に薄く溜まっていく。あの人が自分を何かの量りに載せ始めている。死者の帳面に自分の欄を作り、空の墓の一つに自分を並べ始めている。


何の量りなのかは、認めたくなかった。認めないまま聞き取りは谷の終わりまで進み、伯の調べは、王都への報せを書く段に入ろうとしていた。

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