第41話「裁かれる帳簿」
帳面の検めは、聞き取りと並んで進んだ。
教会の本堂に長卓が2つ据えられ、書記官が4人、着任からの帳面を頁ごとに検めていく。蔵の出納が3冊に、配給の量りが4冊。取り立てと証文の綴りが2冊、触れの控えが1冊。そして、いちばん厚い1冊——名前の帳面。彼女はそれを隠さずに差し出した。賊の頁ごと、滲みごと、全部。
帳面は朝ごとに館から本堂へ運ばれ、夕には館へ戻る。運ぶのはブレヒトの役目で、行きも帰りも冊数を声に出して数えていた。預けるが、渡さない。あの人の線の引き方は、帳面の扱いにも出る。
書記官たちの読み方は丁寧だった。一日に1冊か2冊。頁の角を折らず、湿った指で繰らず、数字をひとつずつ別紙に写し取っていく。写し取った別紙は日ごとに束ねられ、紐で綴じられ、伯の部屋へ運ばれていった。粗探しの読み方ではない。谷の一年を王都の言葉に翻訳する手つきだ。隠しごとのない帳面は読む者を急がせない。急がない読み手ほど、深い場所まで届く。
検めの3日目、伯が本堂に足を運んだ。
書記官に番号を読み上げさせ、自分の手でも頁を繰る。日に焼けた指がインクの並びを上から下へ撫でていった。南方の飢饉の年に屋敷の銀器を売って、街道に粥の鍋を並べたという指だ。帳面を読む手つきにも現場を踏んだ者の癖がある。数字の連なりのどこに人の生き死にが隠れているかを、伯は知っていた。もっとも、この谷の帳面では隠れてもいない。たいていの帳面は人の死を数字の裏に隠す。あの人の帳面は数字の表に、名前で書く。
「配給の量りの帳面から、伺おう」と伯は言った。「これは、よくできている。順位制で、板に公示。誰が、何順位で、いつ何袋を受け取ったか。……2割減のあとも、餓死がゼロ。野戦病院としては、満点だ」
満点だ、と言う声は誉めていなかった。誉める形をした別の何かだった。
「ですが、代官殿。この量りの帳面の4順位の欄に——一人、線が引かれて、名前が消えている。ヤーコプ、39。死因、飢え。これは」
「春先、間に合わなかった一人ですわ」彼女は答えた。「板にも貼りましたの。間に合わなかった、と。隠しておりませんわ」
「隠していない。それは認める」伯は頁を繰った。「だが代官殿。この帳面は、こうも読める。——あなたは、1,800のうち、一人を後回しにした。後回しにされた一人が、死んだ。それを、あなたは『間に合わなかった』と書いた。間に合わなかったのではない。間に合わせなかったのだ。順番の、後ろに置いたから」
本堂が、しんとした。書記官の筆も止まっている。
ヤーコプ。痩せて、薪を割る音が日に日に細くなっていった男。配給の順位は、労働の出来高で決まる。病で働けなくなった彼は4順位に落ち、鍋の底の見える9日のあいだに間に合わなかった。彼女は彼を帳面に書き、板に貼った。隠しはしない。その隠さなかったことを、伯はいま、罪状の形に読み替えている。
「順番を決めた者には」と伯は続けた。「順番の後ろで死んだ者の責任がある。これは、人道の初歩だ。あなたは順番を決めた。公正に、透明に、誰にも文句の出ない形で。……だからこそ、ヤーコプの死は不運ではない。あなたの決定だ。帳面が、それを証明している。代官殿——これは、告発状ですぞ。ほかの誰でもない、あなた自身の手による」
告発状。あなた自身の手による。
その言葉は本堂の高い天井に吸い込まれていった。死者を残らず数え、順番を全員に公開し、間に合わなかった事実を板に貼る。あの人が一番誠実にやってきたことが、王都の机の上ではいちばん切り出しやすい罪状の形に化ける。ハイラムの読んだ通りだ。この谷を生かした条文が、そのまま刃物の柄になる。
彼女はしばらく黙っていた。それから答えた。
「告発状ですわ」否まなかった。「あなたの仰る通り。私は順番を決めましたの。ヤーコプを4順位に置いたのも、私。彼が間に合わなかったのも、私の順番の帰結ですわ。……ですから、書きましたの。書かなければ、彼は数の外で死んだことになりますもの」
「数の外で死ぬのと、数の中で後回しにされて死ぬのと」伯の声は低いままだった。「どちらが、人として、ましだとお思いか」
「数の外は、忘れられますわ」即答だった。「忘れられた死は、二度死にますの。一度は飢えで、二度目は、誰の帳面にも残らないことで。……ヤーコプは、忘れられませんわ。彼の名は、板に貼られ、帳面に残り、いまあなたが読んでおられる。それが、私にできた、たった一つのことですの」
「それは、慰めにならん」
「慰めではありませんわ」彼女はまっすぐ伯を見た。「勘定ですの。慰めは、生きている者のためのもの。勘定は、死んだ者のためのもの。私は、勘定の方をしましたの」
伯は長いこと彼女を見ていた。墓地の坂でヤーコプの土饅頭の前に膝を折った人だ。数字で読むのと土の前に立つのとは別のことだ、と言った人。その人がいま、同じ名前を帳面の上で二度目に見ている。
「……あなたは」と伯はやっと言った。声に何かが滲んでいた。怒りではない。もっと深い、戸惑いに近いものだ。「死者のために勘定をする領主を、私は初めて見た。たいていの領主は、死者を勘定から外す。外せば、自分の手は綺麗なままだ。あなたは、外さない。外さずに、自分の手を汚したまま、帳面に名前を書き続ける。……それは、いったい、何のためか」
「忘れないためですわ」
「忘れて、楽になりたいとは、思わんのか」
「思いませんの」彼女は帳面の上に手を置いた。検めの指つきでも、判を捺す指つきでもない置き方だった。「忘れた領主の谷では、来年も同じ場所で人が死にますわ。忘れない領主の谷では、来年は同じ場所で死なせませんの。……ヤーコプの名前は、来年の谷の備えですわ。彼が4順位で死んだから、今年は4順位の者に、先に手当てを回しておりますの。彼の死が、次の冬の誰かを、生かしますわ」
本堂の隅に控えていた俺は、量り場の朝を思い出していた。
ゲルダ婆さんは4順位だ。労働不能で、身寄りがない。ヤーコプと同じ順位の老女が、今朝も配給の列の3番目にいた。ヤーコプが越えられなかった9日の鍋の底を、婆さんは越えて、今朝の麦を量りの皿で確かめていた。帳面の消された一行の向こうに、椀を抱えた老女がひとり、生きて立っている。
検めの卓の片隅では、別の帳面も動いていた。
伯の連れてきた医官が領民を診た控えだ。診た者の名、診立て、渡した薬。それを谷の産婆が自分の控えと突き合わせて綴じていく。条件をひとつ頂きますわ、と彼女が墓地の坂で出した段取りだ。3日のあいだに11人が診てもらっていた。胸を病んだ年寄り、足を潰した木挽き、乳の出ない母親。薬は続きの世話を知らずに渡せば効く前に切れる——医官の薬に、産婆が谷の手当てを継ぎ足していく。善意は谷の仕組みに繋ぎ込まれて、それから働き始める。
足を潰した木挽きは、医官の添え木と引き換えに当分は座り仕事になった。ヘルガが量り場の袋繕いを回したらしい。休ませはするが、遊ばせはしない。谷の手当てというのは、そういう形をしている。
その11人のうちの一人、乳の出ない母親が、検めの帰りに本堂の前を通った。腕の中で赤子がぐずらずに眠っている。医官の薬と、産婆の継ぎ足しと、配給の母乳の足し前。3つが噛み合って、今朝の赤子は泣かずに済んでいた。それを伯の医官と谷の産婆が、別々の帳面に書いている。書き方は違っても、生きているのは同じ赤子だ。
伯はその勘定の道理を、たぶん分かってしまった。分かった上で、なお首を振った。
「道理は、分かる」と、伯は帳面を閉じた。「分かるが——代官殿。私が問うているのは、道理ではない。ヤーコプが、死ぬ前夜、何を思ったか、だ。順番の後ろで、自分の番は来ないと知った男が。……その夜を、あなたの帳面は、書いていない」
書いていない。書けない。死んだ者の最後の夜は、どんな帳面にも残らない。伯の指は帳面の書けない場所を正確に突いていた。
彼女は、答えなかった。
答えないことが、この一手の応手だった。書けないものを書いたふりはしない。それも、ありのまま、という原則の裏側なのだろう。本堂の窓から差す光が、閉じた帳面の表紙の上でゆっくり傾いていく。
その晩、詰所に「告発状」の話が伝わっていた。
写しの仕事で本堂に出入りしているパウルが、聞きかじってきたらしい。あなた自身による告発状、という伯の言葉を、ハイラムは煙草に火を点けながら聞いた。聞き終えて、太い指で卓を一度叩く。
「うまいことを言いやがる」と古傭兵は言った。「だがな、騎士様。あれは言葉の手品だ。順番の後ろで死んだ者の責任は、順番を決めた者にある——なるほど、もっともらしい。じゃあ訊くがな。順番を決めなかったら、どうなる」
「……決めなければ」
「奪い合いだ」ヴェンツェルが煙草の煙ごしに引き取った。「俺は知ってる。賊の冬を、内側から見てきたからな。順番のねえ配給ってのは、力の順番になるんだ。腕っぷしの強え奴が先に取る。年寄りと、病人と、子どもが後だ。ヤーコプは、4順位どころか、椀に手も触れずに死んでた。お頭が順番を決めたから、ヤーコプは4順位『まで』生き延びたんだよ。順番がなけりゃ、もっと早く、もっと大勢、消えてた」
ヴェンツェルが灰を落とした。眉に刃物傷のある男たちを、楡の木で見送ってきた男だ。選別されて、生かされた側。その男が、選別の道理をいちばん正確に言葉にする。
「あの伯爵はな」とヴェンツェルは続けた。「順番の後ろで死んだ一人を見てる。立派なこった。だが、順番のおかげで死ななかった1,799人は、見えてねえんだ。見えてる一人と、見えてねえ1,799人。……どっちが重いかなんて、量らなきゃ分からねえ。で、量るのを、あの伯爵は人道に欠けると言うのさ。妙な話だろ」
「妙な話だ」と俺は言った。
「だがな、騎士様」古傭兵が笑いを消した。「妙な話でも、王都の机じゃ、その妙な話の方が通るんだ。見えてる一人ってのは、絵になる。死んだ男の最後の夜、ってのはな、歌になる。1,799人が今朝も椀を抱えてる、ってのは——絵にも歌にもならねえ。地味すぎてな。だから危ねえ。あの伯爵の言い分は、間違ってる。間違ってるが、絵になる。絵になる間違いは、正しい地味より、よっぽど人を動かすのよ」
絵になる間違い。俺はその言葉を手控えの隅に書きつけた。書いてから、これは月次に書ける話だろうかと考えて、手が止まった。書けば、王都はこれを妙な詭弁と読むだろう。書かなければ、谷の道理は王都に一行も届かない。
帳面の検めは明日も続く。書けない場所を突き続ける、本物の善意の指が。そして俺の手控えには、書いても王都に通じない谷の道理が、また一行溜まっていく。




