第40話「正しい人」
聞き取りの始まる朝も、谷はいつもの刻限に配給を出した。
調べの一行が来ていようが列は乱れない。ヴィムの読み上げ、ヘルガの量りの検め、椀を抱えて歩く年寄りの足。変えるな、というのが指図だったから、谷は変わらない顔で動いている。列の脇では書記官がひとり、帳面を膝に載せてその様子を写していた。撫でつける前の髪をそのまま見せる——あの人の腹は、最初の朝から据わっていた。
列の3番目にゲルダ婆さんがいた。婆さんには椀を受け取る前に、量りの皿に載った麦を自分の目で確かめる癖がある。確かめて、頷いて、受け取る。疑っているのではない。順番を言われたのは初めてだ、と言った老女の、あれが信用の作法なのだ。書記官はその手元をしばらく見ていたが、書き取れるのは皿の上の麦の目方までだろう。あの麦がひと冬を越えた婆さんの今朝の命だということは、王都へ持ち帰る紙には残らない。
それを横目に、俺は教会へ向かった。
道は楡の辻を通る。夏の葉を重たげに垂らした枝が、道に濃い影を落としていた。5人をここに吊った朝のことを、これから王命の使いに話しに行く。枝の下を抜けるあいだ、俺は自分の足音だけを聞いていた。
聞き取りは教会の脇間で行われた。司祭が洗礼の支度をする小部屋だ。窓がひとつ、卓がひとつ、椅子が3脚。卓の端で書記官が筆を構え、向かいにセヴェリン伯が座る。同席は遠慮願う、と言われていたが、最初の聞き取りだけは別だった。賊の埋葬の立会人として、俺と司祭が呼ばれている。俺は伯の指したもう1脚に腰を下ろした。
「楽になさるがよい」と伯は言った。「ここは裁きの場ではござらん。私が知りたいのは、起きたことだ。あなたが見た通りの、起きたことを伺いたい」
声は穏やかで、急ぐ気配がない。窓の外から量り場の検めの声が遠く届く。蝉が一匹、教会の壁で鳴き始めてすぐに止んだ。
「最初の冬の、賊の襲来から伺おう」伯は手元の紙を繰った。「報告では賊の数、27。うち22が交戦で死に、5が捕えられて処刑された。立ち会われたのは騎士殿と司祭殿。——その夜のことを、覚えている限り」
俺は話した。覚えていることを、覚えている順に。村の三方から湧いた影。崩れた外壁の上で待った夜。火矢。岩陰に伏せたハイラムの組。暗がりで剣を抜いた者から斬られていったこと。22という数字がその夜のうちに数えられたこと。
「捕えた5人は」
「翌朝、楡の木の下に並べました。罪状はひとつだけです。ヴェルデンの内側に、武器を持って踏み入った。よって死、と」
「裁きは、なかったのか」
「……なかった、と思います」言ってから、言葉を選ぶべきだったかと思った。選んだところで事実は変わらない。「賊が来て、捕えた。翌朝、吊る。それだけです」
伯は書記官を一度見て、俺に向き直った。責める色はまだない。
「即決だ」と伯は言った。「裁きを経ない処刑を、即決という。代官にその権限があったかどうか。それが私の調べの1番目の条目でな。……騎士殿。あなたはあの朝、それを疑わなかったか」
問いの形をした刃だった。一年前の俺なら詰まらずに答えている。賊だ、吊って当然だ。そう言って済んだはずだ。いまの俺は口の中で言葉をひとつ転がしてから出した。
「疑いました。最初の冬は、疑っていました」
「ほう」
「賊にも墓を、と命じられたとき。投降した少年を見逃したとき。……俺の剣は正しいもののために抜くと誓って、騎士になりました。武器を捨てた相手を突くのは、その誓いに無い。だから一度、賊を見逃しました。逃がした賊は翌々日に十幾つの仲間を連れて戻ってきて、俺たちの御者を一人、殺した」
「……御者を」
「マルテンという年寄りの御者です。蹄鉄を4本に替えておけと命じた人が、馬は一頭も転ばなかったのに、矢で死にました」
部屋が一拍、しんとなった。書記官の筆が紙の上で止まっている。伯はその名を低く繰り返した。マルテン。聞いたことのない名を、舌に載せて確かめる声で。
「私はあのとき教えられたんです」と俺は続けた。「躊躇の値段を。俺が剣を下げた一拍が、爺さんの命と引き換えになった。……賊を吊ることの善し悪しは、俺には分かりません。ですが逃がすことの値段なら知っています。一度だけ、払いましたから」
伯はしばらく俺を見ていた。それから紙に目を落とさずに言った。
「よい証言だ。歪みがない。……あなたは自分の側に都合よく話そうとしていない。御者の死を自分の躊躇のせいだと、いま私の前で言った。それは代官を庇う話ではない。あなた自身を削る話だ」
「事実だからです」
「うむ」伯は頷いた。「ではもうひとつだけ。——その爺様の死は、誰の責任だと、あなたは思っている」
答えに詰まった。
俺の躊躇のせいだと一年思ってきた。だが囮の荷馬車に殿の足の遅れを数え忘れたのは、彼女の見積もりの甘さでもある。今夜の分は私の見積もりの甘さです、とあの人自身が言った。責めはしませんわ、とも。責任の在処を2人で半分ずつ持って、一年運んできた。それをどう言えばいい。
「……分けて、持っています」やっとそれだけ出た。「俺の躊躇と、代官の見積もりの甘さと。両方があの夜に重なりました。片方だけのせいにすれば楽になれるんでしょうが——爺さんが、それで生き返るわけじゃない」
伯が目を伏せた。短いあいだ、そのままでいた。
「正直な人だ」と伯は言った。今度は紙のための声ではなかった。「あなたのような人が、月次の報告を書いてきたのか。……道理で、報告に嘘の匂いがしないわけだ」
褒められたはずなのに背中が冷えた。あなたのような人が書いた報告だから、私はそれを信じて調べを組み立てる——そうも読める。俺のありのままが、伯のありのままの土台になる。土台が確かであるほど、その上に建つものは揺るがない。
「司祭殿」伯は黙っていたヨーゼフ司祭に顔を向けた。「あなたは、賊の埋葬に祈りを上げられたか」
「上げた」と老人は答えた。「賊の22にも、楡の5にも。死んだ者に祈るのがわしの仕事じゃ。生前の善し悪しは、神がお決めになる」
「代官は、それを止めなかったか」
「止めるどころか」司祭は薄く笑った。「死者は数える、と言うてな。あの女は賊の名前まで帳面に書いた。名乗らなんだ者は、人相のままで。……伯爵殿。わしはあの代官のやり方に、ひと冬、反対してきた。いまも半分は反対しとる。だがの、賊の名前を帳面に書く領主を、わしはほかに知らん。普通は、賊は数の外じゃ。あれは数の外を作らん。それだけは、認めねばならん」
数の外を作らない。その一言で、部屋の空気の目方が変わった。伯の眉が、墓地でそうしたように小さく動く。
「数の外を、作らない」と伯は繰り返した。「……美徳のように聞こえる。だが司祭殿。数の中に入れるということは、量るということだ。賊も領民も、同じ天秤に載せる。同じ天秤に載せられた領民は——いったい、どこで人として息をつくのです」
司祭は答えなかった。答えられなかったのではないと思う。ひと冬かけてこの谷で見つけた折り合いを、四半刻の問答で渡すまいとする沈黙だった。
聞き取りは半刻で終わった。
伯は俺と司祭に礼を言い、明日からは領民をひとりずつ、と告げた。立ち上がりかけて、もう一度こちらを見る。
「騎士殿。ひとつだけ、私事を訊いてよいか。……調べとは関わりない」
「何でしょう」
「あなたは、あの代官を——好いておられるか」
不意打ちだった。好いている、という言葉の置き方が男女のそれではない。もっと広く、根の深い問いだ。あの人の下に一年留まり続けた理由を、この人は嗅ぎ取ろうとしている。
「……分かりません」正直に答えた。「好いているのとは、違う気がします。怖いと思った日の方が多い。ですが、あの人の数えた数から漏れて死んだ者を、俺は一年、一人も見ていません。賊も、領民も、間に合わなかった者も、全部帳面に名前があります。……それを何と呼ぶのか、俺はまだ言葉を持っていません」
伯は長いこと俺を見た。それから穏やかに、しかしはっきりと言った。
「それを、私は人道に欠ける、と呼ぶ。——名前を全部書くことではない。名前を書く者が、その名前を量ってよいと信じていることを、だ」
夕日が教会の窓から斜めに差していた。一年前なら即座に言い返せたはずの言葉が、喉の奥でつかえている。伯は正しい。正しいのに、谷の連中は伯の言う「人」になる前に、飢えで死んでいた。正しい人の言葉が正しいまま、谷の現実と噛み合わない。その軋みを、俺は明日からひと月、聞き続けることになる。
館へ戻ると、執務室の灯はまだ点いていた。
彼女は受け入れの帳面に、客の口の出納を書き込んでいた。一行18人、自前の糧食で食う。申し出のとおり、谷の蔵からは一粒も出ていない。それでも医官が領民に渡した薬と診た者の名を、産婆の控えと突き合わせて書き留めている。施しを断らず、施しのまま受け取りもしない。あの手つきは、墓地の坂で見たままだった。
「伯爵殿は、何と」と、手を止めずに訊かれた。
「あなたを、人道に欠ける、と」隠す理由がなかった。「名前を全部書くことではない、と。名前を書く者が、その名前を量ってよいと信じていることが、人道に欠ける、と」
ペンが一拍だけ止まり、また動いた。
「正しい見立てですわ」声の高さは麦の値段のままだ。「私は量りますの。賊も、領民も、ゲルダも、同じ天秤に。量らない領主の谷で誰が真っ先に欠けるかを、私は知っておりますもの。……いつも、量られない弱い者からですわ。順番を言われずに、黙って忘れられる側から」
「伯爵は、その量りそのものが間違いだと言っています」
「ええ。あの方は、量らずに全員を生かす谷を、本気で信じておられますわ」彼女はペンを置いた。「立派ですのよ、レンツ。冗談ではなく。……ただ、私はそういう谷を、前の生で何度か見ましたの。量るのをやめた配給所が、3日後にどうなるかも。あの方の正しさは、量りを捨てられるだけの蔵を持った土地のものですわ。この谷の蔵には、余りが9日分しかありませんの」
余り、9日。新麦までの差し引きだ。その9日の上に1,800の谷が立っている。伯の言う「量られずに息をつく置き場」を、9日の余りのどこに作れというのか。
彼女は窓の外の、暗くなりかけた峠の方を見た。
「明日からは、領民の番ですわ。私は同席できませんの。……レンツ、あなたもまた呼ばれますわ。あの方は、あなたの目をもう信用してしまいましたわね。困ったこと」
困ったこと、と言う声に焦りはなかった。報告はありのままに書きなさい、と最初の朝に言った人だ。信用された目がいつか谷を削る側に回ることまで、あの人は勘定に入れて俺を手元に置いている。
本堂ではもう、書記官たちが帳面の検めを始めていた。谷の一年が、頁ごとに王都の言葉へ写し取られていく。裁かれるのが谷なのか、あの人の量りなのか、俺にはまだ見分けがつかなかった。




