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うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


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第39話「人道の顔」

視察団は朝靄の晴れ切らない峠を、ゆっくり下りてきた。


先頭に護衛が4騎、続いて幌馬車が3台。書記官の馬、また護衛。槍の穂先が朝日を拾って、列の上で順に光る。谷がこの一年で見慣れた峠の客は、塩売りの背負子と蟻の列の荷だった。槍の列は別の世界から来た行列みたいに見えた。


彼女は杭の線の内側で、いつもの藍の上着で待っていた。着飾りもせず、出迎えの列も作らせない。脇に俺、後ろにブレヒトとそれだけだ。配給は通常の刻限、野良も通常の届け——今朝の触れもそう貼られている。谷は仕事をしながら、横目だけで峠を見ていた。


行列が楡の木の辻を過ぎるとき、護衛の何騎かが枝を見上げた。


何の変哲もない夏の楡だ。それでも騎士というのは、ああいう枝振りの使い道を職業柄ひと目で読む。読んだ目が馬上で互いに交わされるのが遠目にも分かった。あの木の下で何があったかは、報告で読んできているはずだった。読んできた紙の現物が、青々と葉を茂らせて、辻に立っている。


谷の側にも波はあった。北から入った新参の17人がいちばん硬い。槍の列が村に入るのを、彼らは戸口の陰から見ていた。調べの後に椀をくれなかった村を知っている目だ。ベルタが検めの小屋の前で、新参の母子の肩に手を置いて、何か短く言っていた。大丈夫、という類のことを大丈夫と言わずに言う言い方を、あの女はこの谷で覚えていた。


行列は杭の手前で止まり、先頭の幌馬車から、男がひとり降りた。


40代の半ばだろう。旅装は仕立てこそ良いが飾りがなく、外套の裾に泥が撥ねたままになっている。日に焼けた、彫りの深い顔。男は馬車を降りると、供を待たせてひとりで歩いてきた。そして杭の線の手前で——止まった。


「ヴェルデン代官殿とお見受けする。王命により調査に参った、セヴェリンと申す」


声は大きくないのによく届いた。男は懐から王命の書状を出して掲げ、それから、妙なことを言った。


「杭の内に入る許しを願いたい。……ここからは、あなたの預かる土地だ」


王命の調査団長が、流刑の罪人に入る許しを乞うた。後ろでブレヒトが息を呑むのが分かる。彼女は一礼して、どうぞと答えた。完璧な礼に、セヴェリン伯は同じ深さの礼を返した。礼の応酬としては何も起きていない。何も起きていないのに、俺は最初のひと太刀を見た気がしていた。礼を尽くす者同士の対面ほど、読みにくいものはない。


「まず、お願いがふたつござる」と、伯は歩きながら言った。「ひとつ。我らの口は、我らの荷で養う。一行ひと月分の糧食は運んできた。領の蔵からは、一粒も頂かぬ」


彼女の眉がほんのわずかに動いた。客人の膳は配給と同じ椀、と決めていた人の目算が最初のひと言で空振りになった。客の食べた分の出納を板に貼る、というあの段取りごとだ。


「ふたつ目を、伺いますわ」


「館より先に——墓地を、見せていただきたい」


墓から始める調べを、俺は聞いたことがなかった。彼女は今度もどうぞ、とだけ答えた。


墓地への坂を、伯は自分の足で登っていく。書記官がひとりだけ筆を持って続き、護衛は坂の下で止められた。30の穴の列の前で、伯は長いこと立っていた。アルマ婆さまの土饅頭。ヤーコプの土饅頭。そして、草の中で口を開けたままの、28の窪み。


「……埋まっているのが、2つ」


「ええ」


「ひと冬で、2つ」伯は帳面も見ずに言った。「アルマ。80。死因、寿命。ヤーコプ。39。死因、飢え。——月次の報告は、全部読んでまいった。数字は頭に入れてきたつもりだったが」


伯はそこで膝を折り、ヤーコプの土饅頭の前にしゃがんで、伸びかけた草を一本指で避けた。


「数字で読むのと、土の前に立つのとは、別のことだ」


それから伯は祈りの文句を低く唱え、立ち上がり、空の窪みの列を改めて見渡した。これはと問われ、彼女は答えた。着任の秋に、冬の死者の見込みで掘らせた数ですわ。30。使ったのが2。埋め戻しは新麦が蔵に入る日に。


「30掘って、2つ」伯の声は、静かなままだった。「お見事だ。皮肉ではござらん。私は飢えた土地を、職分でいくつも見てきた。30掘って30埋め、足りずに掘り直す土地ばかりだった。……この28の空は、あなたの統治の成績だ。それは認める。認めた上で——代官殿。ひとつだけ、最初に言わせていただく」


伯は窪みの列から、谷の方へ向き直った。配給の煙が上がり、量り場の声が遠く聞こえ、鎌を打つ鍛冶の音が響いてくる——あの谷の方へ。


「峠を下りながら、ずっと見ており申した。畑は整い、列は乱れず、子どもは数字を諳んじ、触れの板には嘘がない。報告の通りだ。報告の通りで——寒気がした」


「寒気、ですの」


「私はあなたの谷を、まだ半日も見ておらん。だから、これは調べの結論ではない。ただの、古い現場屋の鼻だ」伯は彼女をまっすぐ見た。敵意はどこにもない。それが、いちばん性質が悪かった。「ここは、みごとな野戦病院でござる。効率のいい、おそらく私の見てきた中で最良の野戦病院だ。……だが、人の谷ではない」


風が墓地の草を一斉に撫でた。


「ここでは、生きることに台帳が要る。順番が要り、働きが要り、検めが要る。皆、生きておる。生きておるが、生かされておるのだ、一人残らず——あなたという量りの上で。人はな、代官殿。量られずに生きる場所をどこかに持って、初めて人でござる。それを赦しと呼んでも、慈悲と呼んでも、無駄と呼んでもよい。この谷には、その置き場が見当たらん。板にも、帳面にも、あなたの椀の寸法にも」


彼女は黙って聞いていた。聞き終えて、答えた。


「ええ。野戦病院ですわ」


否まなかった。伯の眉が初めて動いた。


「一年前、この谷は野戦の只中にありましたの。敵は雪と、空の蔵と、賊と、隣の領主。野戦の最中に人の谷を建てれば、墓穴の方が先に埋まりますわ。ですから私は、病院を建てましたの。……野戦が終わっておりましたら、伯爵様。あなたの仰る谷の建て方も、勘定に入りますわ。終わっているかどうか、私はまだ、終わったとは書いておりませんの」


「終わっているかどうかを、調べに参った」と、伯は言った。「それと——もうひとつ。野戦を理由に建てた病院が、野戦が終わっても病院のままでいる例を、私は職分で数え切れぬほど見てきた。院長が、野戦を手放せなくなるのだ。……あなたがその例かどうかも、見せていただく」


坂を下りる伯の背中を見ながら、俺は寒気の方に同意していた。


賄賂の通じる相手なら、銀の話だ。面子の使いなら、面子の話。だがあの人は墓の前で膝を折り、谷の出来を本気で誉め、誉めたその口で本気で斬り込んできた。あれは口実探しの目ではない。本当に見える目だ。本当に見える目が、王都の誰かの口実探しの道具に選ばれている。本物の善意ほど、使い手にとって上等な得物はない。研ぐ必要がないからだ。


坂を下り切ったところで、伯は連れの医官を呼んだ。


「調べの間、医官の手が半分空く。望む者がいれば、領民を診させたい。薬料は取らぬ。……許しを願えるか」


「条件をひとつ、頂きますわ」と、彼女は言った。「診た者の名と、診立てと、渡した薬を、帳面に控えさせてくださいまし。こちらの産婆と付き合わせますの。薬は、続きの世話を知らずに渡すと、効く前に切れますわ」


「……薬を施して、帳面の話で返されたのは、初めてでござるよ」伯は短く笑い、すぐに笑いを納めた。「よろしい。控えの写しは、そちらの産婆殿に渡させる。診立てを引き継ぐ者がいる土地なら、薬も働きがいがあろう」


施しを断らず、施しのまま受け取りもしない。善意を谷の仕組みに繋ぎ込んでから通す、あの手つきを伯は黙って見ていた。見て、書記官に何か短く書き取らせた。何と書かせたのかは分からない。分からないことが、この日から谷に増えていく。


昼には伯は教会にも顔を出した。ヨーゼフ司祭とは、初対面のはずなのに、四半刻で旧知のような声の高さになっている。帰り際、司祭が俺にだけこぼした。


「……困った御仁じゃよ、騎士殿。わしと同じ言葉で、神の慈悲の話をなさる。同じ言葉でな。——そして、わしがひと冬かけてあのお人と組み上げてきた折り合いを、ご存じない。慈悲と量りの折り合いというものは、説いて分かるものではないのじゃ。並んで、冬を越して、初めて分かる。あの御仁は、まだこの谷の冬を知らん」


昼の配給を、伯は列の脇で最後まで見ていた。


量りの検めを覗き、ヘルガの手元を眺め、ヴィムの読み上げを聞く。それから列のゲルダ婆さんに帽子を取って何か訊いた。婆さんの返事はあとで本人から聞いた。並ぶのは辛くないか、と訊かれたからね、こう言ってやったよ。辛いよ。けどね、お貴族様。並ばされてるんじゃない、並んでるんだ。違いが分かるかい、って。そしたらあの爺様、笑いもしないで「分かる、その違いを確かめに来た」とさ。……ありゃあ、騎士様。善人だよ。筋金の入った、性質の悪い方のね。


詰所に寄ると、ハイラムが窓から、宿舎にあてがわれた納屋の方を眺めていた。護衛の12騎が馬の世話を自分たちでやっている。馬糧も自前、寝藁も自前。規律のいい連中だった。


「……どうだ、騎士様。本物の感想は」


「怖い、というのが正直なところです。賊の方が、まだ分かりやすかった」


「だろうな」古傭兵は窓枠に肘を載せた。「賊は、欲しいものを取りに来る。あの伯爵はな、正しいと信じるものを確かめに来てる。欲は値切れるが、信心は値切れねえ。……それとな、もうひとつ教えといてやる。あの護衛の頭、夕方、谷の見取りを歩いて回ってたぜ。井戸の位置、蔵の位置、杭の線。調べの護衛の仕事じゃねえ、あれは。万一の段取りを組む者の歩き方だ。善人の調べの後ろに、善人じゃねえ仕事の手配りがくっついて来てる。——伯爵が知ってるかどうかは、知らんがね」


夕刻、館の広間で、調べの段取りが申し渡された。


帳面の検めは明日から、書記官4人がかりで。並行して、聞き取り。領民をひとりずつ、伯が自分で聞く。場所は教会を借り、立ち会いは書記1名のみ。


「代官殿と騎士殿は」と、伯は俺の方も見た。「同席を遠慮願う。誰が何を話したかも、お伝えせぬ。……ご懸念めさるな。話を歪める者がいれば、私が見抜く。それが職分でな」


「結構ですわ。お好きな順で、お好きなだけ」


「では、明日の最初の聞き取りだが」伯は書状を畳みながら、何でもない事務の声で言った。「領民ではない者から始めたい。——この谷で最初に死んだ27人。賊の襲来で葬られた者たちと、その埋葬について。立ち会った者の話を聞こう。司祭殿と」


伯の目がこちらへ向いた。


「騎士殿。あなたからだ」


夏の夕日が広間の床に長く差して、俺の影だけが伯の足元まで届いていた。谷の言葉と王都の言葉と、どちらの訛りで喋るのか。決めずに済む時間は、今夜ひと晩しか残っていなかった。

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