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うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


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第38話「十七歳ではない目」

検めの夜は蝋燭4本から始まった。


執務室の机に、帳面が年の順に積まれている。蔵の出納が3冊、配給の量りが4冊。取り立てと証文の綴りが2冊、触れの控えが1冊。夏の夜気にインクと蝋のにおいが混ざり、開いた窓から、夜の谷の湿った草のにおいが薄く入ってくる。明後日の朝には峠の上に12騎が並ぶ。その前の、最後の夜なべ仕事だった。


検めのやり方は単純で容赦がなかった。彼女が数字を読み上げ、俺が控えと突き合わせる。逆もやる。1冊終わるごとに蝋燭の芯が切られ、白湯が注ぎ足され、次の帳面が開かれる。数字は合っていた。合っていない場所がひとつだけあって——黴の冬の選り分けの歩留まりが、控えと半袋ずれていた——彼女はそれを見つけると、直さずにずれの脇に注記を入れた。誤記。正しくは控えの通り。発見は本日、と。


「……直さないんですか。書き直せば、分からない」


「直せば、消えますの」彼女はペンを置いた。「間違いを消した帳面は、間違いのない帳面ではなく、間違いを消す帳面ですわ。検めに来る連中が探すのは、間違いではありませんのよ。消した痕ですの」


「全部、見せるんですね。本当に」と、取り立ての綴りを閉じたとき、俺は確かめた。「この綴りには、男爵を追い込んだ手順が、日付ごと残ってる。楡の木の9人の口書きも、宣告の文言も。……条目の1番と4番に、そのまま使える紙だ」


「そのまま使えるのは、こちらも同じですわ」彼女は次の帳面を引き寄せた。「あの9人の口書きがなければ、賊と男爵の繋がりは私の作り話にされますの。宣告の文言がなければ、私は闇討ちで9人殺した女になりますわ。……レンツ。私に不利な頁と、谷を守る頁は、同じ頁ですのよ。破って守れるものなら、とうに破っていますわ」


帳面を隠した代官の谷は帳面ごと疑われる。量りも餓死ゼロの板も全部。だからあの人は自分の首の絞まりかねない紙を、紙の順番まで揃えて差し出す。谷の信用と自分の首を同じ皿に載せないこと——それが、この検めの夜の正体だった。


夜半を過ぎて、最後の1冊になった。


名前の帳面だ。彼女はそれを机の真ん中に置いて、頁を頭から繰り始めた。読み上げはしない。突き合わせる控えが、この帳面にはないからだ。死んだ者の名前は、どこにも写しがない。彼女は1頁ずつ目を通し、俺は蝋燭の向こうでそれを見ていた。


着任の週の47人。炭焼きのアルノと、街道のマルテン爺さん。最初の冬の、賊の27人。アルマ婆さま。ヤーコプ。ボルツ。楡の5人と、沢の1人と剣の3人。賊の9人。頁をめくる手の速さは変わらない。名前の上を通る目の速さも変わらない。どの名前の終わりにも、あの小さな滲みがあるのを、俺はもう知っている。


イェノ、17。


その頁で俺の目が止まった。彼女の手はもう次の頁に掛かっていたのに、俺の方が止まってしまった。


口減らしに出されて、飯で拾われて、ひと月足らずで楡の木に吊られた小作の四男。歳を訊かれて、しゃくり上げながら、17と答えた。あの数字を聞いた瞬間の、奥歯の感触まで覚えている。彼女と同い歳——あのとき俺はそう思って、思ったまま、一年近く仕舞い込んできた。


仕舞い込んできたものはほかにもある。重湯は匙で少しずつ、と産婆より細かく指図した手順。雪洞の掘り方と旅程の組み方。贋の銀貨の見抜き方。種籾を麦より先に買う順番。聞いたことのない言葉たち。慈悲がいちばん人を殺す、と言ったときの、あの間。17の娘が知っているはずのないことの目録が、俺の手控えの裏側に、書かれないまま積もっていた。


「レンツ」


頁をめくる音が止んでいた。彼女がこちらを見ていた。


「手が、止まっていましてよ」


「……ひとつ、訊いてもいいですか」


言ってから、引き返せないことに気づいた。蝋燭が4本ともまっすぐ燃えている。風のない夜だった。


「明後日から、あなたはあの連中に何百も問われる。俺も問われる。代官はどんな人間か、と。……俺はこの一年、月次にあなたのことを書いてきた。事実は全部書けた。だが、書けなかった問いが、ひとつだけある。報告の様式のどこにも、書く欄がない問いだ」


「伺いますわ」


「あなたは——何者なんですか」


蝋燭の芯がひとつ、小さく爆ぜた。


「17の公爵令嬢は、飢えた体に重湯を匙で含ませる順番を知らない。雪峠の旅程を組めない。贋金の芯を疑わない。殺した数を忘れる人間がどうなるかを、知っているはずがない。……あの条文は、誰かが机の上で考えた決まりじゃない。あれは、使い込まれてる。何度も、何度も、使った痕がある。俺は剣しか知らない男ですが、使い込まれた得物の見分けだけは、つくんです」


しばらく、彼女は何も言わなかった。


それから、帳面を——名前の帳面を静かに閉じた。閉じて、両手をその上に重ねた。検めの指つきでも、判を捺す指つきでもない。ただ、置いた。


「その問いは、報告書には書けませんのね?」


「書けません。書いても、誰も信じない」


「でしたら、答えますわ」


声の高さは帳面の高さのままだった。いつもより、わずかに遅かった。


「私は一度、生き終えていますの」


蝋燭の火が4つとも揺れずに立っていた。


「この体の前に、別の生がひとつ。……飢えと、戦と、流行り病の土地を、30年歩く仕事をしておりましたわ。麦を運んで、列を作らせて、足りない分を誰から欠かすかを決める仕事。国がいくつも替わって、土地の名前は覚え切れませんけれど、仕事は最後まで同じでしたの。50をいくつか過ぎた年に、仕事場で死にました。流れ弾だったか、倒れた壁だったか——終わりの方は、よく覚えておりませんのよ。気がついたら、17の娘の寝台で、絹の天蓋を見上げておりましたわ。熱の夢だと思って、3日待ちました。覚めませんでしたの。それだけですわ」


それだけ、と言って、彼女は本当にそれだけで口を閉じた。


何を言われたのか、頭が最初、受け取りを拒んだ。別の生。30年。50過ぎ。言葉はひとつずつ分かるのに、並べると、足元の床が一枚ずれるような話だ。笑うところか、とどこかで思った。思っただけで、笑いはどこからも出てこない。出てくる代わりに、仕舞い込んできた目録が、音を立てて棚から落ちてきた。聞いたことのない言葉。黒タグ。配給線。私はその数を知っていますの。数えるほど見てきた、飢えた体に食わせる順番。条文の、使い込まれた痕——ばらばらに積もっていたものが、一本の糸でまとめて持ち上がる。信じる信じないを決めるより先に、勘定の方が先に合ってしまった。合ってしまったものはもう戻せない。


「……条文は」と、俺はやっと言った。「あの7つは、その30年で」


「私が考えたものでは、ありませんのよ」彼女は帳面の上の手を動かさなかった。「ひとつ間違えるたびに、人が死にましたの。死んだ数だけ、文が残りましたわ。7つで済んでいるのは、私の覚えが良かったからではなく——同じ間違いを、何度もする暇がない仕事だったからですの」


「……この谷は」言葉を選ぶ才覚は、もう残っていなかった。「あなたにとって、前の生の、何なんですか。償いか。やり直しか」


「仕事ですわ」


迷いのない速さだった。


「償いは、死んだ者の方を向いた勘定ですの。私の帳面は、生きている者の方を向いておりますわ。……前の生の終わりごろ、私はひとつだけ決めごとをしておりましたの。私の管理の内側で、数えられずに死ぬ者を出さないこと。決めごとは、体が替わっても消えませんでしたの。谷がたまたま、私の管理の内側になった。だから、数えますし、生かしますわ。償いより、よほど長持ちする理由ですのよ」


「なぜ、谷の連中には」


「言いません。最後まで」即答だった。「領民に要るのは、量りの狂わない代官ですわ。前の生の話は、量りを1匁も確かにしませんの。混ぜれば、話の重さで量りが狂うだけ」


「なら、なぜ俺には」


訊いてから、これがいちばん訊きたかったことだと気づいた。彼女は初めて帳面から手を離した。


「あなたが、ありのままに書く人だからですわ」


「……書けない、と言ったはずです」


「ええ。ですから、あなたの中に置いておけますの」白湯の椀を、彼女は両手で持った。湯気はもう立っていない。「紙に置けないものをひとつ、預かっていただきますわ。明後日からの調べの中で、あなたはきっと、私の言うことと17の小娘の見てくれの間で、何度も足場を失いますもの。……足場を、差し上げておきますの」


冷めた白湯を、彼女はひと口飲んだ。俺は何も飲まなかったのに喉の奥が熱かった。


謎が解けた、というのとは違う。解けたのは目録の糸だけで、目の前の人は解ける前と同じ顔と同じ高さの声で、冷めた白湯を飲んでいる。変わったのは俺の見る側だ。17の娘がなぜ、と一年問い続けてきた問いが根元から消えた。あの目は17の娘が作れる目ではない。何百の名前を書いて、名前の数だけペンを止めてきた目だ。歩いた土地の名前を覚え切れないほどの場所で、誰から欠かすかを決め続けて決めた分まで全部数え、それでも数え続けると決めた人間の目。年寄りの目とも違う。あれは——勘定を、一度も踏み倒さなかった者の目だ。


「ひとつだけ」と、彼女は椀を置いた。「言い足しておきますわ。いま話したことは、私の言い訳には使えませんのよ。賊の9人も、最初の冬の27人も、殺したのはこの手のこの私。前の生の傷は、由来であって、免罪ではありませんの。調べの場で私が裁かれるなら、裁かれるのは、いまここにいる代官ですわ。……あなたの帳面でも、そう扱いなさい」


窓の外がわずかに白み始めていた。夏の夜は短い。蝋燭は4本とも根元近くまで燃えて、最後の1冊の検めは結局、夜明けと引き換えになった。


机の上で、名前の帳面がいちばん上に載っている。一度生き終えた人が、二度目の生で書いた死者の名簿。あの滲みのひとつひとつが、どちらの生の癖なのか——訊かなかった。訊かなくても答えは出ている気がした。一人につき一度ずつ止まるペンを、人は一生のうちに覚えるか覚えないかのどちらかだ。あの人は、覚えるまで止められない場所を30年歩いてきたのだ。


「言っておきますけれど」と、彼女は机を片づけながら付け足した。「いま話したことで、明日からの私の言うことが急に重くなったり、急に正しくなったりは、しませんのよ。数字はこれまで通り、検めてから信じなさい。……50年生きた人間も、間違えますの。間違えた数なら、誰よりも知っておりますわ」


窓の外で最初の鳥が鳴いた。


彼女は立ち上がって、窓の外の、まだ暗い峠の方を見た。


「さて。……寝る時間は失くしましたわね。レンツ、湯を沸かしなさい。濃いのを淹れますわ。今日の昼までに、受け入れの段取りを終えて——」


言いかけた指図の途中で、峠の見張りの角笛が、遠く細く鳴った。


夜明けと同時に、視察団が峠を登り始めたのだ。報せにあった朝より、まだ早い刻限だった。彼女は窓辺で手袋を嵌め直した。いつもの朝の、いつもの仕草で。けれど俺はもう、その手が何年分の朝を嵌め直してきた手なのかを、知ってしまっている。


「参りましょうか」と、うちの領主は言った。「——お客様の足が、早くてよ」

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