第37話「春の前の静けさ」
谷の連中の言う春は暦の春ではない。
雪解けはまだ冬の尻尾で、苗代も端境の入り口に過ぎない。ふた冬飢えた谷にとっての春は、新麦の初俵が蔵に入る日だ。ゲルダ婆さんがそう言うのを量り場で聞いた。あとふた月もすれば、畑の麦は色を変える。膝丈を越えた青い穂が風で一斉に倒れては起きるのを、年寄りどもは日に何度も見に行く。あれはまだ春じゃない、春の前だよ、と婆さんは言った。春の前がいちばん静かで、いちばん油断ならないのさ。霜ってのは最後の最後に降りるんだから。
霜の方はひと月後に来ると日付まで知れていた。だから谷は静けさの使い道を決めていた。
板の数字はこの夏、ひとつだけ新しい欄を取り戻している。
余り、9日。
蔵の残りから、新麦までの日数を引いた差し引きだ。黴の冬に消えて、買い占めの春には欄ごと消えていた「余り」が、数字つきで板に戻った朝のことはよく覚えている。9日、という数字の前で、ヴィムが読み上げを一度止める。人垣の誰かが、9日か、と笑った。あの冬、雪峠の買い出しで埋めた穴が、ちょうど9日だった。同じ数字があのときは足りない方に、いまは余る方についている。たった9日。されど、誰かが3日寝込んでも橇がひとつ泥に嵌っても、まだ誰の椀も欠けない9日だ。蟻の列は月40袋の足で歩き続け、梁と畑がその脇を埋める。谷の勘定はようやく転んでも手をつける幅を取り戻していた。
紙の防備、とハイラムが呼んだ仕事だ。
執務室と教会と量り場で、写しの仕事が回り始めた。蔵の出納に、配給の量りの検め。取り立ての綴りに、板に貼った触れの控え。着任からの紙という紙が、2部ずつ写されていく。書き手は足りない。ヴィムの嗄れた手だけでは間に合わず、駆り出されたのは、パウルの教室の子どもらだった。字を覚えたての手が、餓死ゼロだの量り2割減だのと、自分たちの冬の数字を一枚ずつ写していく。年かさの子が写しながらパウルに訊いたそうだ。これ、全部ほんとにあったことか。お前も並んだ列だろう、とパウルが答えると、子どもはしばらく黙った。それから、字で見ると違って見える、と言った。字で見ると違って見える。調べに来る連中は、その「字で見た谷」だけを持って帰るのだ。
写しの1部は館に、1部は教会の祭壇の下の櫃に納められた。司祭は櫃の鍵を首から提げて、軽口とも本気ともつかない顔で言った。
「神の家が、帳面の写し場になるとはのう。……まあ、よい。あなたの帳面は祈りに似ている、と言うた舌の責任じゃ」
谷への触れは写しの仕事より短かった。板に貼られたのはたった3行だ。
——調べの者に問われたら、見たことを、見た通りに答えなさい。問われないことを、こちらから話す必要はありません。私のことを訊かれて困ったら、困った、と答えてよろしい。
読み上げの場で、ブレヒトの女房が手を挙げて訊いた。代官様の悪口を訊かれたら、どうするんです。彼女は少し考えて、答えた。
「思っている悪口でしたら、仰い。思っていない悪口を言わされそうになったら、それは断りなさい。……嘘は、どちらの向きでも、つかなくてよろしいの」
人垣の何か所かで短い笑いが起きた。笑いというものが調べの触れの前で起きること自体、考えてみれば妙なことだ。この谷は検めには慣れている。毎朝、量りで検め合って生きてきた。来るのが王都の検めだというだけで、検めそのものは、谷の庭みたいなものだった。
口裏の話を持ち出したのはヴェンツェルだ。
「楡の木の晩のことを訊かれたら、どう言わせる」と、元賊は執務室で単刀直入に訊いた。「俺の組の連中は、口の軽いのも、要領の悪いのもいる。あの晩、沢で死んだ男のことなんざ、訊かれ方ひとつで、どうとでも聞こえる話になるぜ。……筋書きを、揃えとくかい」
「揃えません」
「お頭。俺は谷のために言ってる」
「私も、谷のために断っていますのよ」彼女は写しの手を止めた。「ヴェンツェル。調べの一行が、ひと月、べつべつの相手にべつべつの順で問いますの。揃えた筋書きは、19人がかりの問いには必ずほつれますわ。ほつれた筋書きは、嘘の証拠になりますの。……ばらばらの正直は、突き合わせれば帳尻が合いますわ。なぜなら、起きたことが、ひとつしかありませんもの」
「沢の男のことも、か」
「沢の男のことも、ですわ。向こうが先に矢を射た。あなたはそう報せた。私はそれを帳面に書いた。ほんとうのことでしたら、19回訊かれても、19回同じ答えになりますの」
ヴェンツェルはしばらく彼女を見て、それから、降参の形に両手を上げた。計算できる主君が一番安全だ、と言って残った男は、その計算の桁がまたひとつ増えたような顔で出ていった。
揉めたのは客のもてなしの方だ。
「団長は伯爵様でございますぞ」とブレヒトは食い下がった。「書記官様が4人、医官様、護衛が12騎。せめて鶏を、いや、ザルテンから酒と白いパンを」
「出しません」
「だ、代官様!」
「客人の膳は、配給と同じ椀。望むなら量は2人前まで。酒は、谷に無いものは出せませんわ」彼女は受け入れの帳面に、先に数字を書き込んでいった。「18人がひと月、谷の蔵から食べますの。その分の出納も、全部板に貼ります。……ブレヒト。白いパンで歓心を買った谷と、配給の椀を黙って出した谷と、調べの紙にどちらが強く残るか、考えてごらんなさい。それにね、買える歓心は、買われた歓心ですわ。あの団長には、いちばん効かない品ですのよ」
蔵の麦はと言いかけた村長に彼女は先回りした。客の口を領民の倍に見積もっても、麦に直せばひと月で2袋足らず。蔵の傾く嵩ではない。嵩の話でもないのだ。視察の連中が谷の麦を何袋食ったかまで、谷じゅうの読める場所に貼る——検めに来た者ごと帳面に載せる、その作法の話だった。
静けさの底で、小さな暮らしの音は続いていた。
マルコの倅は這うのを覚えて、配給の列の脇を転がり回っては、ベルタに捕まえられている。ヘルガは量り場の検めのかたわら、雪の季節に焼く炭の木を、もう山の斜面で見立て始めた。寝起きは里、炭は山。あの沙汰の通りの暮らし方を、女は自分の段取りに直して暮らしている。グンナルの鍛冶場からは鎌を打つ音がした。刈り入れの鎌だ。打っては研ぎ、研いでは並べ、壁の掛けが鎌で埋まっていく。あの音は谷が秋を信じている音だった。
墓地の28の窪みのことは、ブレヒトが一度だけ訊いた。調べの目に触れる前に埋め戻してはと。縁起でもない穴ぼこの列を、伯爵様に見せることはございますまい——彼女の答えは短かった。
「埋めません。新麦の初俵が蔵に入った日に、埋めますわ。……冬の勘定は、まだ閉じておりませんの。閉じていない勘定の欄を消すのは、帳簿の偽りですわ」
飢えに備えて掘り、ひと冬で2つしか使わなかった穴。あれは谷の傷ではなく、谷の検算なのだ。28の空白ごと調べの目に晒す。隠さないという防備がどれほど神経の太さを要るものか、写しの山を運びながら、俺は何度も考えた。
「なあ、騎士様」城壁——というには低すぎる、館の崩れた外壁の上で、ハイラムが言った。「この稼業を40年やって、壁の穴を塞がねえ籠城ってのは、見たことがねえよ」
「塞がない、んじゃなく、塞げないんでしょう。紙の敵は、壁じゃ防げない」
「分かってるじゃねえか」古傭兵は笑って、すぐに笑いを消した。「だがな、忘れんなよ。紙の敵ってのは、紙だけ連れてくるとは限らねえ。護衛が12騎だ。書記官の調べが空振りに終わったとき、12騎が何のために連れて来られたのか——そっちの備えは、俺の仕事だ。お頭には言うな。言わいでも、知ってなさる」
量り場の仕舞いの刻に、ゲルダ婆さんとヘルガが、調べの稽古のようなことをしているのに通りかかった。
稽古といっても婆さんが勝手に問い役をやっているだけだ。あんた、代官をどう思うかね、と婆さんが声色を作って訊く。ヘルガが量りの皿を拭きながら、別にと答える。別に、はいけないよ、と婆さんが素に戻る。別に、ってのは、隠してる者の言葉に聞こえるんだ。思ってることをお言いよ。ヘルガは皿を置いて、少し考えて、言い直した。
「……兄さんが死んだとき、あの人は、間に合わなかった、って板に貼った。隠さなかった。それから、あたしに仕事をくれた。——以上だよ。これでいいかい」
「上等」と婆さんは頷いた。「飾りがなくて、全部ほんとうだ。王都の紙に載せても、目減りしない言葉だよ」
目減りしない言葉。俺はその晩、自分の月次の下書きを読み返して、同じ検めを掛けてみた。視察団の到着前につき、谷の支度の次第を記す。隠したものはなし。撫でつけたものも、なし。書きながら、ヴェンツェルに言われた「どっち側」の問いが、まだ胸の浅いところで揺れていた。事実だけを書くという答えで通せる間は、たぶんまだ決めずに済んでいる。決めなければならない日が来たとき、俺の言葉がどちらの訛りで出てくるのか。それだけが自分のことなのに、自分で読めなかった。
夕方の谷に、鎌を打つ音と子どもの歌う例の節と蛙の声が、重なって流れていく。平らかな、いい夕方だった。いい夕方を、いい夕方のまま信じられないのが、この半年で俺の身についた病気だ。
そして先触れはその病気の正しさを証明する形で来た。
7日早かったのだ。峠の宿場から駆け戻った見張りが報せを落とす。視察団、すでに宿場入り。明後日の朝、峠を越える、と。通告の日付より、7日早い。
「……7日早いのは、どういう意図です」
「試しですわ」彼女は写しの山の、最後の1冊に紐を掛けた。「支度の整わない谷を見たいんですの。撫でつける前の髪を、ね。——あいにく、こちらは撫でつけておりませんから、いつ来られても同じですけれど」
紐がきゅ、と鳴って結ばれた。
「レンツ。明日の夜は、帳面の最後の検めをしますわ。手伝いなさい。……長い夜になりますわよ」
「最後の検め、というのは」
「見せる帳面の検めではありませんわ。それはもう済みましたの」彼女は写しの山に手を置いた。「見せられない帳面が、この谷に1冊もないことの検め、ですわ。1冊ずつ、頭から。……あなたの目も借りますの。私の目は、私の数字に甘いかもしれませんから」
自分の目が自分の数字に甘いかもしれない、とあの人が言うのを、俺は聞いたことがなかった。検めの人の、最後の検め。その晩のうちに執務室の机には帳面が年の順に積み上げられ、いちばん下に、いちばん厚い1冊——名前の帳面が静かに据えられた。あれも見せるのか。見せるのだろう。賊の頁ごと滲みごと全部。
春の前の静けさはこれで終いだ。明後日の朝、峠の上に12騎の槍が並ぶ。




