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うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


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第36話「視察、という言葉」

王都の使者が谷に入るのを、俺は着任からこっち、一度も見たことがなかった。月次の報告は峠の宿場の駅逓に預ける決まりで、王都は谷に、紙一枚寄越したことがない。その王都が初めて寄越したのがこれだった。


正式の使者だ。王家の紋の鞍掛けに埃よけの白い外套。供は2騎。使者は馬上から降りると、出迎えた彼女に対して礼の角度を測りかねたのが見て取れた。罪人に対する角度か、代官に対する角度か。結局、中途半端な角度の礼と一緒に封書がひとつ差し出された。


封蝋には王家の印璽。彼女はその場で封を切り、その場で読み、読み終えると使者に受領の署名を渡した。使者は茶の一杯も所望せず、来た道を戻っていく。谷に泊まるな、と言いつけられてきた者の背中だった。


紙の中身はその日の夕方には板に貼られた。


——王命により、ヴェルデン代官統治の実情を調査する。調査団はひと月ののちに当地に入る。調査の主たる条目、以下の通り。一、代官による即決の処刑、その権限の出所について。一、教会財産の接収について。一、配給における選別、ならびに領民の処遇について。一、隣領ボルツ男爵家の没落に関わる経緯について。


読み上げを終えたヴィムの嗄れ声が、いつもより半拍早く途切れた。人垣は静かだった。黴の冬とも買い占めの春とも違う静けさだ。あのときの敵は雪で麦だった。今度の紙の敵は谷の言葉が通じる気のしない遠いところから来る。


人垣の散り方もいつもと違った。


すぐには散らず、固まりがいくつもできて、低い声が行き交う。古株の連中はまだ言葉の置き場を探している顔だった。先に動いたのは皮肉なことに新入りの方だ。北から入った17人のうちの年寄りがひとり、板の前で吐き捨てるように言ったという。調べなら、知ってるよ。うちの村にも来た。蔵が空になった年に、税の取り立ての帳尻を調べに、王都から紙の束を抱えてね。……調べてる間、誰も椀をくれなかったっけが。


テオは吊っていた肩をとうに直して、薪割りの手を止めずに言った。


「処刑の権限、ってのが分からねえ。賊が来た。吊った。次の賊が来なくなった。……それのどこを、ひと月も調べるんだ」


「調べることが仕事の連中ってのが、世の中にはいるのさ」と、ゲルダ婆さんが答えた。「いいかい、騎士様。あたしらは知ってることを訊かれる。見たまんまを言えばいい。厄介なのはね、あっちが知りたいことと、あたしらの知ってることが、最初から別の棚に載ってる場合だよ」


「……人道調査、というそうですわ」


執務室で、彼女は写しを綴じながら言った。人道、という言葉を、彼女は初めて口にする単語みたいに一度だけ平らに発音した。


「調べの条目を、ご覧なさい。処刑。接収。選別。男爵家。——どれも、事実ですわ。私がやったことの一覧として、過不足がありませんの。書いた者は、よく知っていますのね、この谷のことを」


よく知っているはずだった。条目の4つとも出どころに心当たりがある。俺の月次だ。賊9人、即日処刑。教会の備蓄、台帳に編入。配給は順位制、板に公示。男爵家への取り立ての経緯——半年分の報告の目次が、そのまま調べの条目に化けて戻ってきた。ありのままに書いた紙が、ありのままの形で縄に編まれている。


「……俺の報告です」と、俺は言った。口の中が乾いていた。「条目の4つとも、俺が書いて送った。俺の紙が、この調べを呼んだ」


「呼びませんわ」彼女は綴じ紐を結んだ。「調べを呼んだのは、男爵家の沈んだ音と、王都の誰かの面子ですの。あなたの紙は、条目の品書きに使われただけ。……レンツ。あなたが書かなくても、調べは来ましたわ。書かれていなければ、条目はもっと粗く、もっと出鱈目になっただけですの。事実の条目なら、事実で受けられますわ。出鱈目の条目は、出鱈目でしか受けられませんのよ。あなたの紙は、私の不利に見えて、谷の有利に働いていますの」


慰めの言い方ではなかった。帳面の貸し借りを読み上げる言い方だった。それでもその晩の俺が手控えに書いた文字が乱れていたことは、書いた本人が知っている。


詰所の読みは割れなかった。


「口実探しだな」とハイラムが言い、ヴェンツェルが頷いて、それで終いだ。古傭兵は条目の1番を太い指で叩いた。


「権限の出所、ときたか。……いいか騎士様、ここが急所だ。賊を吊ったことの善し悪しを調べるんじゃねえ。吊る権利があったかどうか、を調べるのよ。善し悪しなら、谷の連中が証人だ。100人が100人、あれで助かったと言う。だが権利の話になりゃ、証人は紙だけだ。代官の権限なんてのは、もともと曖昧に書いてあるもんでな。曖昧な紙ってのは、読みたいように読めるのさ」


「つまり、答えはもう決まってると」


「決まってる側に賭けるね、俺は」ハイラムは煙草に火を点けた。「考えてもみな。あの査問で死なせ損ねた女が、勝手に育って、男爵をひとり潰して、歌にまでなった。もう一度死なせるには、新しい罪がいる。——条文の2番だよ、騎士様。あの人がこの谷を生かした、まさにその条文が、罪状の形にいちばん切り出しやすいんだ」


罪状の形に切り出しやすい。楡の木の縄が谷を守った縄が、王都の机の上では別の結び方に見える。ヨルクの言った「縄の長さを測りに来る」が、冗談に聞こえなくなっていた。


「ところでよ、騎士様」ヴェンツェルが、煙草の煙ごしに俺を見た。「あんた、どっち側で訊かれるんだ」


「……どういう意味だ」


「王都の月次報告役だろう、あんたは。調べの連中から見りゃ、あんたは谷に置いた自分らの目だ。真っ先に呼ばれて、たっぷり訊かれるぜ。代官はどんな女だ、処刑の場で何を見た、報告に書かなかったことはないか、ってな」元賊は、煙を細く吐いた。「で、あんたは答える側だ。谷の言葉で答えるのか、王都の言葉で答えるのか。……いまのうちに、決めとくんだな。あの手の連中はな、決めてねえ顔ってのを、嗅ぎ分けるのが商売なんだ」


谷の言葉と王都の言葉。半年前なら、考えるまでもなかった。俺は王都の騎士で、ここへは貧乏くじで来た。いまは——いまの俺の言葉が、もうどちらの訛りで喋っているのか、自分でも怪しい。手控えの紙に書き溜めてきたものは、王都の読む話ではないものばかりだ。


「決めてねえ顔か」と、俺は言った。


「おう。今のあんたの、その顔よ」


ブレヒトが館に上がってきたのはその翌晩だ。


村長は揉み手を3度往復させてから、声を潜めて切り出した。帳面でございますがと。あの、名前の帳面の——賊の頁を、調べの前になかったことには。


「燃やせ、と仰いますの」


「め、滅相もない。ただその、綴じ直すと申しますか、賊の分だけ別の綴りに……いえその、別の場所に」


「ブレヒト」彼女は帳面の山の上に手を置いた。「あの頁を抜けば、帳面は嘘になりますわ。嘘の帳面は、検めに1か所でも穴が見つかれば、全部の頁が疑われますの。餓死ゼロの頁も、量りの検めの頁も、配給の順の頁も、全部。……賊の頁は、私が9人殺した証文ですわ。同じ帳面が、谷の1800が生きている証文ですの。切り離せませんのよ、あれは。1冊で、両方なの」


「で、ですが、それでは代官様の首が」


「私の首の勘定と、谷の帳面の信用の勘定は、別の頁ですわ」声の高さは変わらない。「混ぜて勘定すると、両方落としますの」


村長は長いこと黙って、それから、来たときより深い礼をして下がっていった。階段の下で、村長が洟をすすった音を聞かなかったことにした。


ヨーゼフ司祭の見立ては、また別の角度から来た。


「人道、人道とな」教会の軒下で、老人は調べの写しを返して寄越した。「わしは長いこと、神の慈悲を説いてきた。慈悲を知らぬあのお人と、ひと冬やり合うてな、いまだに折り合うてはおらん。……だがの、騎士殿。王都の言う人道とやらが、わしの慈悲と同じものかどうかは、まだ分からんぞ。慈悲は、目の前の一人に椀を差し出す手の名じゃ。人道は——遠くから谷を量る、物差しの名のように聞こえる」


「司祭様は、調べに何と答えるんです。接収のこと、訊かれますよ」


「ありのままじゃよ」老人は事もなげに言った。「わしは反対した。いまも、やり方は間違うておったと思うとる。そして、あの備蓄が配給の網に組み込まれたから、わしの教会の前に、冬を越した顔が並んでおる。両方とも、ほんとうのことじゃ。片方だけ言えば、神に嘘をつくことになる」


そして谷の暮らしの方は、通告の翌朝から、何ひとつ変わらなかった。


変えない、というのが指図だった。配給は同じ刻限、量りは同じ検め、野良の届けも梁の組も字の教室もそのまま。調べが来るからと髪を撫でつけた谷は、撫でつけた分だけ嘘になりますわ——彼女はそう言って、掃除のひとつも足させなかった。畑の麦は膝の高さを越え、豆の莢は重くなり、夏の谷は調べの影など知らない顔で青く茂っていく。変わったものをひとつだけ挙げるなら、夜の執務室の灯が、また半刻長くなった。机の上で、半年分の帳面が1冊ずつ検め直されている。誰かに見せるための検めではない。見られる前に、自分の数字を自分でもう一度疑う——あの人の言う「紙の支度」は、そこから始まっていた。


団長の名前が知れたのは、通告から10日目だった。


ザルテンの代書屋経由で、調査団の触れの写しが手に入った。団員は書記官4名、医官1名、護衛12騎。そして団長の名が紙の頭にあった。


セヴェリン伯。


その名前は俺でも知っていた。兵舎にいたころ、年かさの連中が酒の席で語る、数少ない「悪く言われない貴族」だ。南方の飢饉の年、自領の備蓄を全部吐き出し、足りずに屋敷の銀器を売って街道に粥の鍋を並べた人。王都の付き合いより領民の床を選ぶ変わり者。敵までがあの人だけは本物だ、と言う——そういう種類の話の主だった。


「本物の善人が、来るわけですか」と、俺は言った。「……都合のいい偶然とは、思えない」


「思わなくてよろしいわ」彼女は団員の名簿を写し終えて、ペンを置いた。「偽物の調べ役なら、銀の話で済みますの。脅しの利く相手なら、脅しの話。……本物だけは、値がつきませんのよ。買えず、脅せず、欺けば一番深く刺さる。この人選をした者は、私の潰し方を、よく考えていますわ」


彼女は名簿の頭の名をしばらく見ていた。それから王都の頁にようやく1本目の線を引いて、その先にセヴェリン伯の名を書き、妙なことを言った。


「お会いするのが、少し楽しみですわ」


楽しみという言葉と、潰し方という言葉が、同じ卓の上に並んで乾いていく。ひと月先の谷の夏に、本物の善意が、護衛12騎を連れて歩いてくる。

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