第34話「敵の葬式」
峠の向こうの崩れ方は雪崩に似ていた。最初の3日は音だけで、4日目から、全部が一度に落ちた。
報せは蟻の列が運んでくる。最初の報せは両替の通りが男爵家の預かり証の引き受けを止めた、というものだった。次が貸しの引き上げ。3口、5口と、数えるのも億劫な速さで銀の通りは一斉に同じ向きを向いた。贋の銀貨を検めてしまった両替商にもう逆は向けない。台帳に鉛を載せたままでは店ごと沈むからだ。7日目にはザルテンの川端の蔵に、組合の差し押さえ札が並んだという。交差した鍵の封紙の上に、別の紙が重ね貼りされる絵を、塩売りは身振りつきで語った。
そして蔵が開いた。
借金の形に差し押さえられた麦は、銀に換えるために売るしかない。倍値で買い集められ、錠の下で寝かされていた麦が、春の市にまとめて転がり出た。値は崩れた。冬前の相場を割り、なお下がる。北の村々が抱えていた銀貨——本物の方の——で、ようやく麦を買い戻し始めた。
谷も買った。
秋渡しの証文と、わずかに残った銀と、蟻の列の足。崩れた値の麦を110袋。帳面の上で、端境の穴がきしみながら閉じていく。彼女は板に新しい紙を貼らせた。量りの3割減は明日から2割減。10日のち、蔵の検めを終え次第、満度に戻す。満度、という字の前で、人垣は長いこと動かなかった。声を上げる者はいない。紙を二度読み、三度読みして、確かめてから散っていく。ゲルダ婆さんが量り場のヘルガに言ったそうだ。満度って字をね、あたしは生まれて三度目に見たよ。一度目は嫁に来た年で、二度目は——忘れちまった。三度目のがいちばん信用できる字だ。書いた女が量りの嘘をつかないからね。
2割減に戻った最初の朝の列を、俺は量り場の脇で見ていた。
柄杓がひと回り深く沈むだけのことだ。それだけのことに列の背筋が変わる。マルコの女房は椀を受けて、湯気の高さを確かめるみたいに鼻を寄せ、それから赤子の頬に自分の頬をつけた。パウルの教室の子どもらは椀の嵩を見比べて、増えた増えた、と騒いで年寄りに小突かれている。ヴィムは検めの帳面を読み上げながら、数字の合間で一度だけ咳払いをした。あの咳払いが何の代わりだったのかは訊かないでおいた。
椀の嵩を半年絞り続けた人がいる。絞ったから今日の谷に列を作る者が残っていて、その同じ人の紙が峠の向こうで男爵家を沈めていく。深くなった柄杓と、沈んでいく家と、どちらもあの執務室のひとつの机から出ている。そのことを、列の連中はもう知っている。知った上で、椀を受けて頭を下げて、仕事に行く。谷の朝というのは、つくづく図太い生き物だ。
祝いの話はその晩のうちに出て、その晩のうちに消えた。
言い出したのはブレヒトだ。蔵も開きました、賊の頭も折れました、ひとつ谷で祝いの火を——彼女は首を振った。
「祝いません」
「は……し、しかし、勝ち戦でございますぞ」
「敵の家から、葬式の出る勝ちですわ」彼女は帳面を繰る手を止めなかった。「祝いの火は、峠の向こうから丸見えですの。麦を取り戻した谷が、隣の領主の沈む晩に火を焚いて踊った——その絵は、10年残りますわ。麦より高くつく絵ですの。火は、焚かせません」
葬式、という言葉が単なる言い回しでなかったことを、谷は3日後に知った。
ボルツ男爵が死んだ。
報せの形は王都の召喚状の写しと一緒に峠を越えてきた。贋金——銀貨の私鋳は王権への手出しだ。両替の組合は自分の台帳を守るために、検めの結果を王都の上の方へ送り上げ、王都は男爵の身柄を求めた。護送の朝、男爵は勘定部屋で冷たくなっていたという。机の上には検めかけの帳簿が開いたままだったと、報せはそこまで運んできた。蔵方頭フンケは証人として王都へ連れられていったらしい。指の白い算盤の男は、最後まで判で死なず、判で生き延びる方の側にいた。
執務室で、彼女は名前の帳面を開いた。
ボルツ。歳は50と2。日付。死因の欄に自死。そして、その下に1行。
——取り立てによる。死なせたのは取り立ての主である。
「……そこまで、書くんですか」と、俺は言った。「手を下したわけじゃない。縄を掛けたのは組合で、召喚状を出したのは王都だ。あんたは、紙を3通書いただけだ」
「紙を3通、あの順番で書けば、こうなることを知って書きましたの」ペンが置かれる。「縄の代わりに銀を使い、刃の代わりに台帳を使いましたわ。得物が違うだけで、狙って、当てましたのよ。書かなければ——数えずに殺したことになりますわ。それは、しませんの」
名前の終わりに、見覚えのある小さな滲みが、ゆっくりと丸くなった。敵の名前の上でも、あの人のペンは止まる。半年前に盗み見た帳面の決まりは、今夜も変わっていなかった。
葬式は峠の向こうの男爵家の礼拝堂で行われた。
彼女は行くと言った。ハイラムが珍しく強く渋った。死んだ男爵の領地のど真ん中に、男爵を死なせた当人が乗り込む。石のひとつも飛んでくりゃ上等の部類だ、と。彼女は聞いて、頷いて、それでも行くと言った。殺すと決めた相手の葬式に出ないのは、作法が半端ですわ。作法、という言葉に古傭兵は何かを諦めた顔をして、それからヴェンツェルが黙って供の人選を始めた。供は俺と、ヴェンツェルの組の2人。橇ではなく馬で半日の道だ。
北の街道筋はひと月前と別の土地になっていた。
戸の閉まっていた村々に人が出ている。買い戻した麦を挽く水車が回り、痩せた子どもが、それでも道端に出て馬の列を眺めていた。石は飛んでこない。代わりに、妙なことが二度あった。畑の中の年寄りがひとり、馬上の彼女をじっと見て、それから腰を折ったのだ。深くはない。ほんの会釈ほどの角度で、けれど確かに折った。二度目は水車小屋の女房で、こちらは慌てて目を伏せる方だった。贋の銀貨の谷を干上がらせた女の顔を、街道筋はもう知っているらしい。恐れているのか、それ以外の何かなのか、馬上からでは見分けがつかなかった。礼拝堂までは入らない。門前の道の脇に馬を降り、棺の列が通るのを待った。
列は短かった。男爵の格に比べて、あまりにも短い。貸し手は来ず、王都の付き合いも来ず、来ているのは家の者と村の年寄りが少しだけ。先頭を歩く喪主は、16かそこらの息子だった。列が俺たちの前を過ぎるとき、彼女は道の脇で深く一礼した。あの完璧な礼だ。300人の査問の場で見せた礼と、寸分違わない角度で、敵の棺に頭を下げた。
喪主が足を止めた。
少年は彼女を見て、誰なのかを悟って、白い顔をさらに白くした。
「……あなたが、父を殺した」
「ええ」
否も飾りもなかった。少年の拳が震えて、開いて、また握られる。周りの家の者が腕を取るのを少年は振り払った。
「取り立ては」と、彼女は同じ高さの声で続けた。「あなたの代には、持ち越しませんわ。帳面は、閉じました。……ひとつだけ、引き継ぎを申し上げます。蔵方の買い集めた麦の、湿った袋から先にお売りなさい。乾かし直した麦は、夏を越えませんの。売り先は、飢えている村から順に、相場で。それが、お家の信用の、いちばん安い買い戻し方ですわ」
少年は何か言いかけて、言葉にならず、結局は列に戻っていった。あの引き継ぎが恨みの上にどう積もったかは分からない。その夏ボルツ領の村々に湿った麦が相場で出回り、腹を下した者がひとりも出なかったことだけは、後から塩売りが運んできた。
帰りの峠で、ヴェンツェルが馬を寄せてきた。
「……騎士様。うちのお頭はよ、敵の葬式に礼をして、敵の倅に商いの引き継ぎをしていったぜ。ありゃ、何の作法だ」
「分からん」
「俺は分かる気がするんだ」元賊は前を向いたまま言った。「殺すと決めた相手にゃ、決めた日から先、憎む資格がねえのさ。憎しみってのは、まだ殺すかどうか迷ってる奴の持ち物だ。……決めて、終わらせた者は、礼をするしかねえんだよ」
谷に戻ったのは日暮れ前だった。
彼女は館に入らなかった。馬を降りると、外套も替えずに、墓地への坂を歩き出す。供を断る手の振り方をしたが、俺は半歩——ではなく、十歩離れてついていった。護衛の職分だ、と自分に言い訳をして。
墓地には夕方の光が斜めに入っていた。30の穴の列のうち、埋まっているのは2つ。アルマ婆さまの土饅頭には草が厚く、その隣の新しい方には、まだ土の色が残っている。空のままの28は、雪が消えてみると、浅い窪みの列にしか見えなかった。あれほど谷の喉に刺さっていた黒い長方形が、草の中で、所在なげに口を開けている。
ヤーコプの土饅頭は、春の草に半分覆われていた。
彼女は墓の前で手袋を外した。素手になった指が、土饅頭の縁の、伸びすぎた草を抜いていく。検めの指つきだった。麦の袋に差し入れる、あの指つき。草を抜き終えると、彼女は懐から小さな布包みを出して、開いた。新しい麦がひと掴み。崩れた値で買い戻した、あの110袋の麦だ。それを、土饅頭の上に、量りで量るように静かに撒いた。
「麦は、戻りましたわ」
声は帳面の高さのままだった。
「……あなたの分が、いちばん遅くなりました」
それきり、彼女は立っていた。日が落ちて、谷の灯がひとつずつ点り、蛙が鳴き始めても立ったままでいる。俺は十歩離れた暗がりで待った。今夜は時刻を訊かれない。半刻が過ぎ、一刻が過ぎても、そのままだった。並んでいるものはいつか窓口に着く、と言ったのは司祭だ。後に回された悼みの順番が、いま窓口に着いている。長く待たされた客ほど、用は長い。
館へ戻る坂の途中で、彼女は一度だけ口を開いた。
「レンツ。明日の朝は、量りの検めから始めますわ」
「……はい」
いつも通りの指図が、いつも通りの高さで出た。それでよかった。あの人の悼み方を、俺はもう、これ以上知る必要がない。
その晩、執務室の帳面に、ヤーコプの頁が開かれていた。責は帳面の管理者にある、と書かれた行の下に、新しい1行が乾きかけている。
——取り立て、了。麦、戻る。間に合わせ損ねた分、量り済み。
数字の付かない「量り済み」を、俺はあの帳面で見たことがなかった。何をどう量ったのかは書いていない。書いていないことが、たぶん、答えなのだった。
帳面が閉じられた後、彼女は珍しく、窓を開けた。
夜気と一緒に、蛙の声が部屋に流れ込んでくる。インクと蝋燭のにおいの部屋に、春の水のにおいが混ざった。彼女はしばらく窓辺に立って、灯の点る谷を見下ろしていた。何を数えていたのかは知らない。戸口で控えていた俺に、閉める前の窓の方を向いたまま、ひとつだけ言った。
「これで、冬の帳尻が合いましたわ。……ふた冬がかりで、ようやく」
峠の向こうの雪崩は、これで止まった——と思っていた。雪崩の音というのは、谷を越えて、ずいぶん遠くまで届くものだ。それがどこまで届いていたかを、俺たちはまだ知らずにいた。




