第33話「夜のうちに終わる」
月のない夜を向こうは選んだ。こちらはその選び方ごと読んでいた。
期限の日の夕、配給はいつもの刻限に行われ、灯はいつもの数だけ点された。谷の見てくれは何も知らない谷のままだ。違うのは中身だけだった。継ぎの納屋は空で、女子どもは杭の内の奥に集められている。ハイラムの組は街道筋の岩陰に、ヴェンツェルの組は尾根の裏の杣道に、それぞれ夕方から伏せている。俺は館の前庭で、彼女の半歩後ろに立っていた。剣の柄を何度も確かめる。確かめるたび、掌が湿った。
「来ないかもしれない」と、俺は言ってみた。
「来ますわ」彼女は外套の前で手を組んでいた。「フンケの返事を、お忘れですの。心外、と書く男の主は、紙では来ませんのよ」
杭の内の奥では女子どもが教会に集められていた。様子を見に下りると、ヨーゼフ司祭が祭壇の前で、いつもより半音低い声で晩の祈りを延ばしている。引き延ばされた式文の下で、子どもらは床の藁に転がって眠り、母親たちは眠らない目で梁を見上げていた。ゲルダ婆さんだけが、戸口にいちばん近い長椅子に、杖を立てて座っている。逃げ足に自信がないからね、戸口がいちばんさ、と婆さんは言った。それから俺の腰の剣を見て、付け足した。
「賊の冬なら、三度くぐったよ。けどね、騎士様。今夜のは賊じゃない。銭で来る賊ってのは、つまり、雇い主の都合では二度でも三度でも湧くってことだ。……今夜で仕舞いにしておくれよ。仕舞いってのは、湧き口ごと、って意味だからね」
湧き口ごと。婆さんの注文はいつも彼女の条文と同じ場所を指す。俺は頷くだけ頷いて、前庭へ戻った。
風のない夜だった。火矢にはおあつらえ向きの夜だ。蛙の声だけが谷に満ちて、それがふっと途切れる瞬間を、俺たちは待っていた。
夜半すこし前、尾根で夜鳥の声が3度鳴いた。ヴェンツェルの組の合図だ。9人、峠を越えて二手に分かれた。6人が継ぎの納屋筋へ、3人が村の方へ——板と館だ。彼女は報せを聞いて、組んでいた手をほどいた。
「杭を越えましたのね」
「越えました」
「では、決めましたわ」
それだけだった。宣告でも号令でもない。帳面の頁をめくる音と同じ高さで、9人の夜が決まった。
戦いの方は書くほどのことが起きなかった。それがどれほど異常なことかは後から分かった。
納屋筋へ下りた6人は、空の納屋に火矢を射かけて、燃え上がる前に囲まれた。納屋の中には麦の代わりに濡れ筵が積んであり、火は屋根板を半分だけ焦がして燻った。逃げ道に張られた縄と、岩陰のハイラムの組。暗がりの中で剣を抜いた者が2人、その場で斬られた。古傭兵の手際は音が少ない。残る4人は得物を捨てた。
村筋の3人は板の手前の辻でヴェンツェルの組に塞がれた。1人が手斧を振って、テオの肩をかすめ、振り切る前に斬り伏せられた。もう1人は抗いもしない。最後の1人が身をひるがえして峠へ走った。
「追いなさい」
彼女の声は夜気の中で一度も大きくならなかった。「夜が明ける前に。——逃がすと、二度来ます」
ヴェンツェル自身が、2人連れて闇に消えた。元賊は賊の逃げ道を知り尽くしている。明け方近く、3人は戻ってきた。連れて、ではない。担いでだった。峠の手前の沢で追いつき、向こうが先に矢を射た、という。ヴェンツェルの報せはそれだけで、彼女もそれ以上は訊かなかった。
捕えた者は5人になった。斬られた者が3人に、沢で死んだ者が1人。差し引きは合っている。9人、誰も峠を越え返していない。
口書きは夜のうちに取られた。
詰所の土間に、蝋燭が3本立てられた。彼女は5人をひとりずつ通し、名と歳を訊き、雇われた経緯を訊いた。怒鳴り声はひとつもない。縄は座れる長さに緩められ、水は柄杓で回された。問いはどれも短く、答えやすい順に並んでいた。どこで雇われたか。前金はいくらで、どの銀貨で払われたか。指図の絵図は誰が描いたか。問いの並び自体が、答えの逃げ道をひとつずつ塞ぐ形になっていることに、3人目あたりで俺は気づいた。
最初の4人は似たような身の上だった。ザルテンの賭場の借り、隊商くずれ、食い詰めの渡り剣。前金は4人ともあの真新しい銀貨で受け取っていた。受け取った袋を検めさせると、2人の袋から、欠けばひと目で分かるあの鈍い芯が出た。雇い主は人殺しの前金まで贋で払っていたのだ。それを知らされたときの4人の顔は、それぞれ違う形に歪んで、ひとりは声を出さずに笑い続けた。命を銭で売って、その銭が鉛だった男の笑い方を、俺はうまく書き残せる気がしない。
5人目が眉に刃物傷のある男だった。
ヴェンツェルが土間の隅に立つと、男は傷のある眉をわずかに上げた。顔見知りの渡世というのは、そういうものらしい。男はしばらく黙り、それから、彼女ではなくヴェンツェルに向けて顎をしゃくった。
「……どうせ、吊るすんだろう」
「吊るすね」とヴェンツェルは答えた。「それは決まってる。あんたが知ってる通りの女だ、約束は違えねえ。——なあ、兄弟。どうせ落ちる首なら、落とし前をつけて落ちな。誰の銭で吊られたか、紙に残してけ。渡世の仕舞いの作法ってやつだ」
男は長いこと天井の梁を見ていた。それから、喋った。秋の襲りの前、男爵家の蔵方頭から受けた指図。金子と新しい剣と狙い場の絵図を、賊の頭のもとへ運んだこと。此度の雇いの前金が、あの新鋳の銀貨で払われたこと。指図の場にいたのが、フンケと、もうひとり男爵の判を持つ家令だったこと。ヴィムの筆が嗄れ声の主とは思えない速さで土間を走り、書き上がった口書きに、男は自分の名と指の判を捺した。立会いは司祭とブレヒト。男の懐から出た絵図と、前金の革袋が、紙の脇に並べられた。絵図には継ぎの納屋と広場の板と館の寝所に、それぞれ印がついていた。
判を捺し終えると、男は初めて彼女を正面から見た。
「……ひとつ、頼みがある。ザルテンの西筋に、ロッテって女がいる。飲み屋の。……前金の残りを、届けてやっちゃくれねえか」
「届けますわ」彼女は帳面に女の名を書いた。「贋の銀貨は抜いて、本物だけを。贋を届ければ、その人が捕まりますの」
男は短く笑った。笑ってから、自分が笑ったことに驚いた顔をした。
宣告は日付の変わる前に行われた。
口書きが済むのを待って、司祭が彼女の前に立った。夜明けまで延ばされませぬか、と老人は言った。祈りの時間をもう少し。彼女は首を振った。
「祈りは、いまから縄までの間に。……夜が明ければ、谷の朝が始まりますの。子どもらの起きる谷に、これから死ぬ者を立たせてはおけませんわ。終わらせるなら、夜のうちですの」
司祭は5人のところへ行き、短い祈りを上げた。受けた者が何人いたかは今度も知らない。あの傷眉の男が、祈りの間だけ目を閉じていたのは見えた。
5人は楡の木の下に並ばされ、彼女は蝋燭の灯りで5つの名を読み上げた。罪状はひとつだけ。ヴェルデンの内側に、武器を持って踏み入った。よって、死。誰かが命乞いをしかけて、隣の男に肘で止められた。止めた方はあの傷眉だ。仕舞いまで作法で行く気の男に、楡の木は、半年前と同じ枝を貸した。
俺は今度は目を逸らさなかった。縄と枝の軋む音は五度。それきりだ。長引かせる工夫も、見せしめの飾りも、何ひとつ足されなかった。決めたら、迷わない。嬲らない。あの条文の通りのことが、条文の通りの速さで終わった。骸は夜のうちに下ろされ、杣道の脇の、22人の列の隣に埋められた。9つの名前——名乗らなかった2人は人相のまま——が、帳面に書き足されていく。
自分の剣を検めたのは館へ戻る途中だ。
抜いてはいた。辻でテオが手斧を受けたとき、体が勝手に前へ出て、柄を握っていたのだ。振るう前に、ヴェンツェルの組が男を斬り伏せていた。それだけのことだ。それだけのことなのに、鞘に戻した剣が妙に重い。誰のために抜いたのか、と自分に訊いてみる。テオのためだ、と答えが返る。谷のためだ、とも。半歩前に立っていた人のためではない——ないはずだ。問いと答えの間の半端な隙間を、俺は埋めずに歩いた。埋めない方がいい隙間というものもある。
明け方、空が灰色に緩むころ、彼女は執務室で2つの包みを封じた。
1つは口書きの写しと銀貨を添えた、ザルテンの両替商組合への包み。1つは同じ写しを添えた、男爵への最後の通告。文面は短い。期限は過ぎ、賠償はなく、代わりに9人が参りました。よって取り立ての作法は、本日をもって紙を離れます。蔵の麦の売り値を、相場にお戻しなさい。それが最後の勘定書きです——。
「……王都へは、まだ送らないんですか。これだけ揃って」
「王都は、最後ですわ」封蝋に判が沈む。「贋金の話は、両替の通りが先に知るべきですの。銀の信用は、銀で商う者の命綱。連中は王都の沙汰なんて待ちませんわ。明日には男爵の預かり証を投げ売りして、貸しを引き上げて、蔵の麦を借金の形に差し押さえにかかりますの。……男爵を裁くのは、王法より先に、銀ですわ」
朝の板には夜の次第が全部貼られた。
賊9。死、9。うち楡の木、5。沢、1。剣、3。当方の手負い、1——テオの肩は、産婆の針で6針だった。口書きの要旨。雇い主の名。前金の贋銀貨のこと。隠しごとはひとつもなく、人垣は長いこと板の前を動かなかった。読み終えた者から、黙って仕事へ散っていく。あの散り方を、俺はもう何度も見てきた。怖がる段はとうに過ぎているのだ。谷が確かめに来るのは、数字が合っているかどうかそれだけになっていた。
テオは肩を吊ったまま量り場の手伝いに出て、ヘルガに追い返されていた。6針の男が量りに寄りかかったら狂うだろう、と。追い返されながら、テオは妙に晴れた顔をしていた。手斧の的になった男の顔ではない。湧き口を塞ぐ夜に、自分の肩も勘定に入っていた——そういう顔だった。
包みを塩売りに託して、彼女はようやく窓の外を見た。谷はもう、いつもの朝の支度を始めている。配給の鍋に火が入り、湯気が立ち、列の最初の年寄りが欠伸をしながら椀を抱えて歩いてくる。昨夜、火矢が空の納屋を焦がすだけで終わったことを、列の半分はまだ知らない。知らないまま、今朝の椀が今朝も出る。それがあの濡れ筵と、削った眠りと、楡の木の5本の縄の釣り銭だった。
「終わりましたわね」と、彼女は言った。
「……終わった、とは」
「夜の分は、ですわ」帳面が閉じられる。「昼の分は、これから峠の向こうで終わっていきますの。私たちの手は、もう要りませんわ。——10日ほどで、蔵が開きます。男爵の手で開くか、男爵ごと開くかは、銀の決めることですけれど」
男爵ごと開く、という言い方を、俺はそのときは聞き流した。帳面の隅ではもう新しい頁に線が引かれている。頁の頭に書かれた名前は、フンケではなかった。ボルツ、とだけあった。
その読みがどちらの形で当たるのか。報せが峠を越えてくるまで、谷はあと9日、いつも通りの朝を重ねることになる。




