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うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


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第32話「取り立ての作法」

手紙は3通になった。


書き上がるまで、まる1日かかっている。あの人がひとつの紙に1日かけるのを、俺は帳面の検め以外で見たことがなかった。机の脇に控えて、下書きの読み合わせをさせられたから、削られていった言葉も知っている。最初の下書きにあった「遺憾」は2度目で消えた。感じたことを書く欄はありませんの、と彼女は言った。「賊徒の凶行」は「賊」に、「卑劣なる買い占め」は、そっけない「買い付け」に。形容を削るたびに紙は薄情になり、薄情になるほど、読む側の逃げ場が消えていく。罵る紙には言い返せますのよ、と彼女は下書きを裏返した。数字の紙には数字でしか言い返せませんわ。向こうに、その数字はありませんの。


インクが乾く間、彼女は窓辺で指を組み替えながら、誰にともなく言った。


「取り立てには、作法がありますのよ。第一に、求めるものを正確に言う。第二に、期限を切る。第三に、期限まで指一本動かさない。……どれを欠いても、取り立てではなく、ただの喧嘩になりますわ。喧嘩でしたら、谷が負けますの。あちらは銀があり、こちらは紙しかありませんもの。だから、紙の勝てる戦い方にしますわ」


出来上がった3通は、香も焚き込めず紋も飾らず、恐ろしく読みやすい字で書かれていた。


1通目はボルツ男爵宛て。


書き出しは時候の挨拶で、続きは勘定書きだった。昨秋ヴェルデン領を襲った賊について、貴家の使いが金子と武器と絵図を運んだ旨、生き残りの証言があること。賊の襲りで領が失った物資、焼けた納屋、立った墓の数。それを麦に直した嵩、174袋。ついては期限を14日と定め、相場値での賠償をお願い申し上げたい。期限を過ぎた場合は、しかるべき筋へしかるべき紙を回すことになる。文面はそこで終わらず、最後に一行こうあった。蔵の麦は春の湿りに弱うございます。お検めの際は奥の列からどうぞ。


2通目は蔵方頭フンケ宛ての照会状。


貴殿の差配する蔵の、封ごとの出納の写しを請いたい。ならびに、昨年からこの春までに貴家の払いに用いられた銀貨の、鋳所と年記の一覧を請いたい。商いの作法に則り、回答の期限は14日。回答なき場合は回答なし、という事実を記録する——それだけの紙だ。脅し文句はひとつもない。訊かれた側にだけは、何を握られているかが正確に分かる訊き方をしていた。


3通目はザルテンの両替商組合宛て。


こちらはもっと短い。貴組合の保証台帳について、2件の照会。第一に、保証の可否を定める基準の写しを請う。第二に、近時街道筋に流通する新鋳の銀貨につき、貴組合の天秤が検めた結果があれば写しを請う。同封の品は当方の鋳掛屋が検めた銀貨1枚。欠け口を、検められたい。封の中で、あの鉛色の断面が、何よりも雄弁な一筆になっていた。


「……男爵への期限は、本気ですか。14日で、払うとは思えない」


「思っておりませんわ」彼女は封蝋を温めながら言った。「これは、払わせる紙ではありませんの。断らせる紙ですわ。私が礼を尽くして頼み、向こうが断る。その順番を、紙の上に残しますの。取り立てというのはね、レンツ。最初の一歩を、こちらの足で踏んではいけませんのよ」


「組合への手紙は……あれは、組合がボルツを切る、と読んでのことですか」


「組合は、誰の味方でもありませんわ。銀の味方ですの」封蝋に判が沈む。「贋の銀を保証台帳に載せてしまった両替商は、台帳ごと信用を失いますわ。連中はいま、知らずに鉛を量っている。教えて差し上げるのが礼儀ですし——教えられた瞬間から、連中は知っていて量った者になりますの。動かずにはいられませんわ」


3通は塩売りの荷に乗って峠を越えた。正規の使者は立てない。立てれば途中で止められる、というのがヴェンツェルの読みで、彼女もそれを採った。代わりに写しが3部ずつ作られる。1部は帳面に綴じ、1部は司祭が預かり、残る1部は——広場の板に貼られた。


司祭は預かりの写しを受け取るとき、長いこと黙っていた。


「……わしに預けるということは、代官殿。館が焼かれる場合を、勘定に入れておられるのか」


「入れておりますわ。教会まで焼く敵でしたら、写しの心配より先の心配をいたしますの」彼女は綴じ紐を結んだ。「それに、あなたの手元がいちばん安全ですのよ、司祭様。あなたは、預かったものを開けずにいられる、数少ないお人ですわ」


「買いかぶりですな。わしは、もう読み申した」老人は綴りを祭壇の下の櫃に納めた。「読んだ上で、預かり申す。……ひとつだけ言うておきますぞ。あなたの紙は正しい。正しいが、正しい紙で人を追い詰めると、追い詰められた者は、紙の読めぬ者を雇いますでな。剣に、お気をつけなされ」


板の前はその朝、いつもの倍の人垣になった。


賠償174袋。期限14日。贋の銀貨。読み上げ役のヴィムの嗄れ声が、一語ずつ区切って読むのを、谷は息を詰めて聞いた。読み終わると、グンナルが太い声で訊いた。


「……断られたら、どうなさる」


「次の紙を出しますわ」と、彼女は人垣の前で答えた。「それも断られたら、その次を。紙の順番が尽きたところで、紙ではないものの順番になりますの。順番は、いつも通り、この板に貼ります」


紙ではないもの。誰も聞き返さなかった。聞き返さないことが谷の答えだ。人垣の後ろの方で、ゲルダ婆さんが杖の先で地面をこつんと突いて、隣のヘルガに言うのが聞こえた。見てごらん、騎士様の顔。礼儀正しいってのがどういう合図か、あの若いのも、もう骨で覚えてるよ——余計な観察だった。当たっているから、なお悪い。


詰所ではハイラムが3通の写しを読み比べて、煙草を消した。


「……俺は字の戦ってのを、ずいぶん馬鹿にして生きてきたがな。これは、布陣図だ。男爵への紙が正面、フンケへの紙が脇腹、組合への紙が——退路だな。退き道に火を点けてやがる」


「向こうが14日の間に、先に剣で来たら」


「来るさ」古傭兵は当然のように言った。「来るように書いてあるんだ、ありゃ。読んだろう、騎士様。賊の生き残りの証言、と書いて、誰とは書いてねえ。蔵の奥の列から検めろ、と書いて、何を知ってるかは書いてねえ。……身に覚えのある悪党が、ああいう紙を受け取るとどうなるか。夜、眠れなくなるのよ。眠れねえ悪党は、必ず先に手を出す。出した瞬間、向こうは賊で、こっちは被害者だ。冬にグンナルを止めた理屈の、ちょうど裏返しさ」


先に殴る一発を敵にくれてやる。あの晩ハイラムが若い連中から取り上げた一発を、彼女は紙に包んで、峠の向こうへ送りつけたのだ。


期限までの14日を、谷は妙な静けさの中で暮らした。


板の隅にはヴィムの手で日数の数字が毎朝書き換えられた。残り、11。残り、10。配給の列は数字を横目に椀を受け、野良へ散っていく。量りは3割減のまま、苗代の麦は青いまま、何も起きない日が何かの前の日として積み上がっていく。子どもらまでが数字を覚えて、残りいくつ、と言い合うのを母親たちは叱りもせず聞き流していた。叱る言葉が見つからなかったのだと思う。あれは脅しの数字ではなく約束の数字で、約束を数えて待つことを、この谷はあの板に教わってきたのだから。


返事は9日目に来た。


フンケからの1通だけだ。男爵からの返事はなく、組合からも表向きは何もない。フンケの紙は慇懃で、長くて、何も答えていなかった。出納の写しは商いの秘事ゆえ容赦願いたい。銀貨の鋳所は当家の与り知らぬこと。賊云々については、心当たりがないばかりか、むしろ心外である。彼女はそれを二度読んで帳面に綴じ、フンケの頁に一行書き足した。回答なし、の事実を記録、と。


「心外、と書いてきましたわ」と、彼女は言った。「心当たりのない者は、心外、とは書きませんのよ。問いが7つあって、答えがゼロ。沈黙も、数えれば証言ですわ」


裏では別の報せが先に動いていた。


ヴェンツェルの組が泳がせている塩売りが、ザルテンの空気を運んでくる。両替の通りで、新鋳の銀貨の検めが始まったらしい。表立ってではない。閉めた帳場の奥で、天秤と坩堝と青い顔。預かり証の書き換えを渋る店が出はじめた。蔵方の銀貨での払いを、何のかのと理由をつけて断る。そういう店が1軒、2軒と出てきた。銀の通りの変わり身は、いつも静かでいつも速い。


そして12日目の夜、峠の見張りから報せが落ちてきた。


北の杣道に火が2つ。物見だ。翌13日の夜は4つ。荷を持たない男たちが、夜だけ動いて、昼は谷を見下ろす尾根に伏せている。ヴェンツェルが自分の足で確かめに登り、明け方に戻って、指の数で報せた。9人。革鎧の揃い。得物は剣と、手斧と——火矢の束。


「狙いは蔵じゃねえな」と、元賊は言った。「蔵を焼いたって、麦は男爵の懐に戻らねえ。狙いは継ぎの納屋と、それから——板だ。あの板と、帳面。谷の紙を焼けば、取り立ての証文ごと燃える。そういう絵図を描く頭が、向こうにはいる」


執務室で、彼女は配給線の図を広げた。継ぎの納屋の丸印を、ペンの尻でひとつずつ叩いていく。それから、いつもの帳面の高さで、いつも通りの順番で指図を並べた。納屋の麦は今夜のうちに分散。量り場の帳面は写しを教会へ。女子どもは杭の内の奥へ。ハイラムは正面、ヴェンツェルの組は尾根の裏。


麦の分散は夜のうちに行われた。


松明は使わない。月明かりの下で、男たちが背負子と天秤棒で、継ぎの納屋の麦を5か所の隠し場へ運び分けていく。声を出すな、とは誰も言われていないのに列は黙々と動いた。ブレヒトが組分けの名簿を読み、ヘルガが移した袋の数を量り場の帳面に控える。グンナルは打ったばかりの閂を、隠し場の戸に順に嵌めて回る。途中、若いのがひとり、背負子の下で小声をこぼした。うちの麦なのに、なんで夜逃げみてえに運ぶんだ——応えたのは隣のテオだった。逆だろ。夜逃げさせとけば、焼かれねえんだよ。袋がじゃねえ。俺たちの冬がだ。


冬、という言い方を、テオはもう当たり前にする。袋の数と冬の長さが同じものだということを、この谷は2度の冬で骨に刻んでいた。火矢の的を、麦から空の納屋に変えておく。それだけのことのために、谷はひと晩、眠りを削った。削った眠りの分だけ、燃える袋が減る。あの人の算盤はいつもそういう両替でできている。


最後に、彼女は窓の外の暗い峠を見た。


「14日の期限は、明日の日暮れですわ。……間に合いましたわね、向こうも」


「殺すと決めるまでは、礼を尽くす」と、俺は条文を口の中で転がした。「……もう、お決めになったんですか」


「期限までは、決めませんわ」彼女は配給線の図を畳んだ。「決めるのは、向こうの足が杭を越えた瞬間ですの。それまでは、お客様ですわ。——越えた後の段取りだけ、先に組んでおきますのよ」


期限の前に手を出させる。紙に書いた礼儀の、最後の一行の意味を、谷はこれから知ることになる。明日の夜は長くなる。

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