第31話「彼女が泣かない理由」
ヘルガが量り場に立つようになったのは、里へ下りて10日目からだ。
それより前、産婆の家に寝かされていた女が床を払った日に、彼女はヘルガを執務室へ呼んだ。掛ける言葉を選びに呼んだのではない。仕事を言いに呼んだのだ。量り場の検めに、目がもうひとつ要りますの。あなたは炭の目方を20年量ってきた。麦も量れるでしょう——それだけだった。すまなかった、の一言もない。気を落とすな、もない。ヘルガは黙って頭を下げて、翌朝から量りの前に立った。
「妙だと思うかい、騎士様」
水汲み場の脇で、ゲルダ婆さんが俺の顔を読んだ。最近、谷の連中は俺の顔で天気を読む。
「兄を亡くしたばかりの女を、人前の量り場に立たせる。酷だと言う者もいるよ。けどね、あの女は今、手が空くと兄さんの竈のことしか考えられないんだ。手をふさいでやるのが、いちばんの薬さ。仕事ってのはね、悲しみに渡す松葉杖だよ。……あのお人は、それを知ってて言いつけてる。優しさじゃないよ。あのお人のは、いつだって手当てだ」
実際、量り場のヘルガは確かだった。柄杓の嵩を目で当て、検めの帳面と突き合わせ、狂いがあれば容赦なく言う。炭焼きの目は麦の上でも狂わなかった。列の連中もじきに慣れた。兄の取り分まで食って生き残った女、という陰口は、量りの前では立つ瀬がない。量りは過去を訊かないからだ。
谷の春はそうやって、欠けたまま進んでいく。
蟻の列は月40袋の見込みへ向けて育ち、畑の菜は最初の間引き菜が椀の汁に浮くようになった。梁には魚がかかり、苗代の麦は筋になって青い。パウルの字の教室では、子どもらが板の写しで読み書きを習っている。いちばん小さいのが「ししゃ、いち」と指でなぞるのを、年上が黙らせたと聞いた。黙らせた方の子は、ヤーコプに鉈の研ぎを教わったことがあるのだという。板の数字が子どもの指の下で名前に変わる。あの板はそういうものまで運ぶようになっていた。それでも量りは3割減のままで、帳面の余りの欄は空のままだ。彼女は朝の検めから昼の野良の見回り、夜の帳面まで、判で捺したように動いていた。フンケの一件からこちら、執務室の灯の消える刻限だけが、毎晩すこしずつ遅くなっている。
泣かない、という話は消えなかった。
テオが詰所で落とした独り言は、拾われなかったくせに、いつの間にか谷のあちこちに転がっていた。悪意のある転がり方ではない。椀の薄い春には、人は手の中のものを何度も裏返して見る。洗い場で、女房連中が言い合うのを聞いた。あの人は石でできてるのさ、と若いのが言う。貴族ってのは泣き方を習わないんだよ、と別のが言う。ブレヒトの女房は、洗い物の手を止めずに言った。泣いてる代官と、泣かない代官と、あんたどっちの谷で冬を越したいんだい。それで話は終わるのだが、終わるたび、別の場所でまた始まった。
詰所ではハイラムが煙草の煙と一緒に、傭兵の見方を吐いた。
「泣く指揮官なら、俺は3人知ってる」古傭兵は指を立てた。「1人目は、部下の骸の前でよく泣いた。いい男でな、みんな好きだった。次の戦で、退き時を半日間違えて、隊の半分を沼に置いてきた。2人目は、泣いてる振りのうまい男だ。葬式のたびに濡れた目で回って、給金の未払いをうやむやにした。3人目は——ありゃ本物の涙もろさでな、敵の捕虜の身の上話で泣いて、縄を緩めた。寝込みを刺されたよ、その捕虜に」
「……泣かない指揮官は」
「数え切れねえほど見たさ。大方は、ただ薄情なだけの男だ」ハイラムは煙を流した。「だがな、騎士様。ごく稀に、別口がいる。泣くのを、荷物だと思ってる手合いだ。戦の最中に涙の荷を背負うと、判断が半拍遅れる。半拍で人が死ぬ商売だと、そう骨に刻んでる奴は——荷を、置いてくる。どこか、俺たちの見えねえ場所にな」
置いてくる、という言い方が、しばらく耳に残った。捨てる、ではないのだ。
一度だけ、その話が本人の耳に届く場に俺は居合わせた。
野良の見回りの帰りだった。畦で転んだ子どもを母親が抱え起こし、泥だらけの膝を見て、先に母親の方が泣き出した。疲れている春だ。涙は安いところから出る。彼女は足を止めて子どもの膝を検め、「擦り傷ですわ、洗って布を」とだけ言って歩き出した。その背中に、母親が涙声のまま、礼とも恨みともつかない調子で言ったのだ。
「代官様は……泣いたこと、おありですか」
彼女は止まらなかった。歩く速さも変わらない。半歩遅れて、答えだけが返った。
「泣いて治る傷でしたら、私が泣いて差し上げますわ。その傷は、水と布で治りますの」
母親はぽかんとして、それからなぜだか少し笑って、子どもを連れて帰っていった。答えになっていない、と思う。答えになっていないのに、あの母親が抱えていたものは、確かにひとつ軽くなっていた。ああいう手品を、俺はほかに知らない。
ヘルガとは量り場の仕舞いの刻に、何度か言葉を交わした。
兄の話を、女は自分からはしない。一度だけ、帳面を閉じる手を止めて、訊かれもしないことを言った。
「……村の連中はね、騎士様。あたしの顔を見ると、すまなそうな顔をするか、泣きそうな顔をするんだ。どっちも、こっちが支えてやらなきゃならない顔だよ。疲れるんだ、あれは」
女は量りの皿を布で拭いていた。毎晩ああして拭く。炭の粉を払う癖が、麦の量りにも残っているのだ。
「あの人だけだ。あたしに、仕事をくれたのは。……兄さんが死んだ晩から、誰もあたしに、何かをさせようとしなかった。あの人だけが、あたしがまだ使い物になるって顔をした。——泣かれるより、よっぽど効いたよ」
泣かれるより効いた、という言い方を、俺は手控えに書きかけてやめた。これは王都の読む話ではない。
ヨーゼフ司祭にも、一度だけ訊いてみた。春の名読みの支度で、教会の長椅子を並べ直すのを手伝った日だ。あの人は泣かないのか、と俺が言う前に、老人は並べる手を止めずに答えた。谷の連中と同じ問いを、司祭はもう何度も預かっているらしかった。
「涙はな、騎士殿。神への祈りの中でも、いちばん古い形のものじゃ。言葉より先にあった祈りよ。……あのお人がそれを使わんのは、神への意地かと、わしも初めの頃は思うておった」
「今は、違うんですか」
「今はな——順番の問題かと思うておる」司祭は最後の長椅子を、こつんと床に据えた。「あのお人は、何でも順番にする。麦も、薪も、悼みもじゃ。祈りにまで順番をつける者を、わしは罰当たりと呼びたい。呼びたいがの、騎士殿。順番の後ろの方に置かれたものは、捨てられたものとは違う。列に並んでおるものは、いつか、窓口に着くのじゃよ」
並んでいるものはいつか窓口に着く。配給の谷で聞くと、妙に腹に落ちる言い回しだった。
ではあの人は泣かないのか。
夜の執務室で、俺は何度か、答えの欠片らしきものの前に立った。たとえばフンケの頁。あの会見の晩から、頁には線と数字が増え続けている。賊の銭の流れ。蔵方の封の数。水路を人質に取られた農家の名前と場所。書く手はいつも通りに走って、止まらない。生きている者の数字の上を、あの人のペンは走る。それを見るたび、俺は反対のことを思い出す。死んだ者の名前の上でだけ止まる、もう1冊の帳面のことをだ。名前の尻にひとつずつ残る、小さな黒い溜まり。誰も見ていない紙の上で、一人につき一度ずつ、ペンが立ち止まる。あれを何と呼ぶのかを、俺はまだ決めかねている。決めかねたまま、誰にも話していない。話す筋のものでもない。あれは俺が見ていいものですら、なかったのだから。
泣かない理由なら、谷じゅうがそれぞれの説を持っている。石でできている説。貴族は泣き方を習わない説。泣く間も惜しい説。どれも半分くらいは当たっている気がして、どれも、肝心なところで外れている気がする。俺が確かに知っているのは、形のあることだけだ。あの人はヤーコプの墓の前で半刻立って、谷じゅうの刻限を決めている人のくせに俺に時刻を訊いた。あの人の帳面のインクは、名前の終わりでだけ滲む。そして悼みの順番は、来ているのに、後に回されたままだ。ボルツの取り立てが済むまでと本人が言った。
つまり、あの人の中で何かが、まだ閉まっていない。
その晩、執務室に呼ばれた。机の上にはフンケの頁が開いている。その隣に、見慣れない小皿があって、銀貨が4枚載っていた。あの真新しい、打ち立ての艶の銀貨だ。
来た筋は蟻の列だった。北の村々は麦を売った銀貨を抱えたまま春を迎えて、今になって行商の荷の塩や針を、銀貨で買おうとする。行商は受け取った銀貨を、谷の払い場に持ち込む。その何枚かを、鋳掛屋が天秤に掛けた。鞴を直します、と的の外れた答えで雇われた、あの元賊の鋳掛屋だ。金物の目利きは賊に落ちても錆びていなかった。
「重さが、合わないそうですの」と、彼女は言った。「同じ打ち型の銀貨で、古い年のものより、わずかに軽い。それでいて、嵩は同じ。——軽くて嵩の同じ銀は、中に銀より軽いものが入っていますわ」
彼女は銀貨を1枚つまんで、卓の角に当て、押し切るように力を入れた。やわらかい音がして、銀貨の縁が欠ける。欠け口は銀の白ではなかった。鈍い、灰色がかった色——鉛だ。銀の皮の下に、鉛の芯が入っている。
「ボルツの銀貨は、嚙んでも腹の足しにならないどころではありませんでしたのね」彼女は欠けた銀貨を皿に戻した。「銀の顔をした、鉛ですわ。男爵は、贋の銀で街道筋の麦を買い占めましたの。麦は本物、払いは贋物。……これは商いの罪ではありませんのよ、レンツ。銀貨の鋳造は王家の独占。贋金は、王権への手出しですわ」
「……王都に、報せますか」
「順番がありますの」ペンの尻が、フンケの頁を二度叩いた。「贋金だけでは、男爵は鋳掛屋の言いがかりだと笑いますわ。賊の絵図だけでは、眉の傷ひとつの話。水路の人質だけでは、地主の権利の話。1本ずつなら、どれも切れる縄ですの。——綯い合わせれば、切れませんわ」
彼女は皿の銀貨を布に包み、封をして、それから初めてこちらを見た。
「支度が、揃いましたの。明日、男爵に手紙を書きますわ」
「手紙……取り立ての、ですか」
「ええ。礼儀正しいのを、ですわ」
礼儀正しい、というところで、俺は理由もなく首の後ろが冷えた。殺すと決めるまでは礼を尽くす——あの人の条文の中で、いちばん寒いのはたぶんあれだ。礼儀正しさが何の前触れなのかを、楡の木の谷はもう知っている。
窓の外で、雪解けの水音はとうに絶えて、代わりに蛙が鳴き始めていた。春の谷の、生きている音だ。その音の向こうの峠の先で、贋の銀貨を積んだ男が、まだ自分の帳面の検め方を知らずにいる。




