第30話「全部やりましたわ、の続き」
フンケは自分の足で峠を越えてきた。
先触れの紙は前日に届いていた。ボルツ男爵家蔵方頭フンケ、主命により商談のため参上仕りたく——文句は慇懃だった。紙には香が焚き込めてあり、封蝋には交差した鍵の紋。あの蔵の封紙と同じ紋だ。彼女は受けるとだけ返事を出し、館の広間に卓と椅子を整えさせた。花は飾らない。酒も出ない。卓の上には帳面が2冊と谷の量りがひとつ。それから、ヨーゼフ司祭が呼ばれた。
「商談には立会人が要りますの。式文は要りませんわ。耳だけ、お貸しなさいまし」
「……耳なら、神から借りたのが2つござる」
司祭は壁際の椅子に掛けた。ハイラムは館の外回り、ヴェンツェルは峠の見張りに出たまま。広間に立つのは俺ひとりで、剣は帯びたままでよい、というのが指図だった。礼を尽くす場に剣ですか、と訊いた俺に、彼女は事もなげに答えた。騎士の剣は礼装ですわ。
フンケは護衛2人を戸口に残し、毛皮の襟巻きのまま入ってきた。算盤だこのある白い指が、まず卓の量りに目を走らせ、それから帳面の背に留まる。出されたのは白湯が1椀。男はそれを蔑みもせず、口もつけず、卓の端へ丁寧に寄せた。商人の所作だ。値のないものには手間もかけない。
「先だっては、北の市でご挨拶もそこそこに」と、フンケは腰から折れた。「本日は殿様の名代として、改めてのご機嫌伺いと、商いの話を少々」
「どうぞ」
「その前に、お悔やみを申し上げねばなりますまい。お宅の板、峠の下でも評判でございますよ。死者、1。死因、飢え、と」白い指が、悔やみの形に揉まれる。「正直は美徳でございますなあ。ただ、商いの世界では、ああいう紙を看板とは申しません。借りの証文と申します」
俺は半歩前へ出かけて、彼女の手袋がわずかに上がるのを見て、止まった。
「ご用件を」
「は。では、商いの話を」
フンケの口上はよく回った。春の相場は荒れている、当家の蔵には麦が唸っている、買値の4倍でお分けする用意がある——4倍。北の市で3倍と言った男が、悪びれもせず1枚上乗せしてきた。彼女が黙っていると、男は揉み手のまま、本題の方を卓に載せた。
「もっとも、お宅に銀がないことは、両替の通りがいちばんよく存じております。そこで殿様の、格別の思し召しがございましてな。麦は、相場の1割増しでお譲りする。今すぐ、要るだけ。代わりに、ヴェルデンの出来秋を向こう5年、当家が引き受けます。値は、そうですな——相場の、半値で」
「断ります」
即だった。フンケは驚かない。驚かない稽古を、峠の向こうで済ませてきた顔だった。
「数字を、ようお考えなされませ。今年の端境を越えられねば、5年も何も」
「考えましたわ。あなたの口上の間に」彼女は帳面を開きもしない。「半値の5年は、谷の5年を、生かさず殺さずの値で買う紙ですの。飢えさせず、肥えさせず、逃げ出す力も蓄えさせず。……あなたの殿様は、麦を売りにいらしたのではありませんわね。谷の首に、紐を売りにいらしましたの」
「……これは、商いの話でございますよ」
「ええ。ですから、商いの言葉でお返ししましたわ」
フンケは白湯の椀を半寸だけずらして、間を作った。それから声を一段落とす。落とした声の方がよく通る男だった。
「では、商いより上等の話をいたしましょう。代官様。——王都では、皆が気の毒がっております。あの査問は酷かった、と。毒だの階段だの、子供だましの筋書きで、公爵家の姫君を飢えた谷へ流した、と。殿様は王都に古いお付き合いが多うございます。再審の口利きも、できぬ相談ではございません。あなたは嵌められた。皆、知っております。争えばよろしかったのです。……今からでも、争えばよろしい。当家が、お味方いたしますよ」
息を呑んだのは俺の方だった。
査問の場のことを、この谷では誰も訊かない。訊かないまま冬がひとつ越えて、あの「全部やりましたわ」は、谷の暮らしの下に埋まっていた。それを掘り返したのが、よりにもよって敵の番頭だというのが、妙に腹立たしかった。
彼女は笑わなかった。困りもしない。帳面の数字を読み上げる時の高さのまま、言った。
「読み上げられた罪状に、事実もございましたのよ」
フンケの揉み手が止まった。
「男爵家の荷駄を、王都の市から3か月、締め出したことがありますわ。仕立屋と材木商と、市場の元締めに手を回して。あの家の商いがアルテンブルクの塩の道へ伸びてきましたから、伸びた先から枯らしましたの。法には、一度も触れておりません。向こうの番頭がひとり、首をくくったと聞きましたわ」
「……は」
「屋敷の下女をひとり、事情を聞かずに放り出したこともございます。蔵の銀に手をつけましたの。母親の薬代だったと、後で知りました。知っても、呼び戻しませんでしたわ。鍵を預かる者の盗みを事情で許せば、次の盗みにも事情がつきますの」
「いや、あの、代官様。手前が申し上げたいのは、そういう」
「毒は、盛っておりません」彼女は構わず続けた。「階段から人を突き落とした覚えもありませんし、恋文の偽筆も私の手ではありませんわ。……事実と違う罪状も、ありましたわね」
そこで彼女はほんの少しだけ首を傾げた。思い出す手間を惜しむ、あの傾げ方で。
「どうでもよいことですの。私が、争わないと決めた。それだけが事実ですわ」
「それでは……それでは勘定が合いませんでしょう。争えば、公爵家の姫だ。負けるにしても、ただでは」
「争えば、査問は年をまたぎますわ」
声の高さは変わらないままだ。
「屋敷の者が、順に証言台へ上げられますの。調書と違うことを言えば偽証の罪、調書の通りに言えば主売りの咎。あの台は、そういう作りでしたわ。私が口を開けば、料理人も、御者も、小間使いも、あの台の上で順番に挽かれましたのよ。判決は、変わりませんのに。羊皮紙は4枚とも、読み上げの前に書き終わっておりましたもの。あの場が欲しがっていたのは、私の涙と、家の鉱山。二つ目は、もう決まっておりましたの」
「では、何のために、罪をお認めに」
「勘定のためですわ」と、彼女は言った。「争えば、屋敷の20人を崖に立たせて、得るものはゼロ。認めれば、失うのは私ひとつ。……商人のあなたに、これより先の説明が要りまして?」
広間が静かになった。壁際で司祭が目を閉じている。祈りの形に似ていたが、手は組まれていなかった。
俺はあの大広間を思い出していた。証言台の縁を掴んで震えていた、十五かそこらの小間使い。全部やりましたわ、の一言が落ちた瞬間に用済みになって、偽証もせず主も売らずに済んだ娘。あれを慈悲と呼ぶのかどうか分からないまま、俺は半年あまり持ち歩いてきた。違った。慈悲ではない。あれはこの人がこの世でいちばん得意な手つき——損切りだ。20人と1人を量りに載せて、軽い方の皿を、自分で選んで降りた。頭では呑み込めたのに、胸の方が追いつくまでにしばらくかかった。安いという言葉と、この人ひとつという荷の嵩が、どうしても同じ皿に載らなかったからだ。
フンケが立て直しにかかった。
「……お志は、ご立派でございます。が、それならばこそ、再審を。あなた様は、戻れるお方だ。谷の代官などで終わるお方では」
「フンケさん」
彼女は男の名を呼んだ。
「あなたの仰る再審は、私を公爵家の娘に戻す紙ではありませんわ。男爵家の首輪に、私の首を通す紙ですの。それから——ひとつ、読み違いを直して差し上げますわ。あなたの殿様は、私が悔いている女だと思って、その紙を持たせた。悔いておりませんのよ。罪は申し上げた通りにありますし、場所が戻れば、私は同じことをまたしますの。私は気の毒な女ではありませんわ。……あなたの殿様にとっては、これから、気の毒の逆ですの」
フンケの白い指が、襟巻きの毛皮を一度だけ握った。火の入った広間で、寒さのせいにはできない握り方だった。
「……交渉決裂、と持ち帰ればよろしいか」
「覚え書きをお持ちなさい」
彼女は卓の紙に、会見の次第を読み上げながら書いていった。日付。名代の名。麦4倍の申し出。先売り5年の申し出。再審の口利き、1件。すべて断った旨。読み終えると自分の判を捺し、フンケにも判を求めた。商人は紙を二度読んで初めて判を渋った。
「……商談の覚えに、再審の件まで書くことはございますまい」
「あら。商いより上等の話、と仰いましたのに」彼女はペンを置いた。「お捺しにならないのなら、立会人の署名だけで仕舞いますわ。司祭様は、嘘をお書きになりませんの」
フンケは捺した。捺すまでの短い間に男の額へうっすら浮いたものは、北の市では見なかった類のものだった。
帰り際、戸口で男は一度振り返り、商人の顔に戻って言った。
「最後に、ご忠告をひとつ。王都であなた様がどう呼ばれているか、ご存じですかな。——血も涙もない女、と呼ばれておりますよ」
「存じておりますわ」彼女はもう帳面を引き寄せていた。「殿様にお伝えなさい。帳面を検めて、お待ちなさいまし、と。近いうちに、こちらの用件で伺いますの」
毛皮の襟巻きが護衛を連れて峠道を下っていくのを、俺は館の門から見送った。隣に司祭が並んだ。
「……騎士殿。わしは今日、呼ばれた理由が途中で分かり申した。告解なら、わしは何百と聴いてきた。悔いる者、偽る者、忘れたい者。今日のは、どれとも違う。あれは告解ではのうて、棚卸しですな。あのお人は、自分の罪まで帳面につけて、検めが済んでおる」
老人は館の方を見ずに付け足した。
「恐ろしいのはな、騎士殿。あの罪の山の中に、嘘がひとつも無かったことじゃよ」
夕の配給はいつもの刻限に始まった。会見のあった日も、量りは3割減のまま狂わず、列は崩れない。湯気の薄い椀を受け取ったゲルダ婆さんが、館の方へ顎をしゃくった。量り役のヘルガに何か言い、ヘルガが小さく笑う。後で聞けば、こうだ。あのお人はね、あたしらの5年を、半値で売らなかったんだとさ。今夜の椀が薄いのは、その釣り銭だよ——薄い椀の言い訳を、婆さんは婆さんの算盤で立ててやっていた。釣り銭、という勘定が合っているのかどうか俺には分からない。半値の5年を呑んでいれば今夜の椀は満ちていた。だが5年後の谷には、椀を持つ手が残っていなかったはずだ。それだけは分かる。
その晩、詰所は会見の話で持ち切りだった。話は半日で谷を一巡りし、巡るうちに形を変えた。フンケが裸足で逃げ帰ったとか、代官様が男爵の素っ首を所望したとか、威勢のいい尾鰭がついていく。椀の薄い春に、谷は強い領主の話で腹を温めたがっていた。その威勢のいい話の隅で、テオがぽつりとこぼしたのを、俺は聞いてしまった。
「……けどよ。あの人、ヤーコプのときも、泣かなかったよな」
責める声ではなかった。ふと置き忘れ物に気づいたような声だ。誰も拾わず、話は次の尾鰭へ流れていった。拾われなかった言葉ほど、後で重くなる。
執務室の灯はその晩も遅くまで点いていた。窓の明かりを見上げながら、俺はフンケの捨て台詞と、テオの置き忘れ物を頭の中で並べていた。血も涙もない。泣かなかった。——あの人が泣かない理由を、この谷で腰を据えて考えた者はまだ一人もいない。
俺も含めてだ。




