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うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


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第29話「間に合わなかった名前」

背負子の組を見送った朝の、あの雪解けの水音を、俺はまだ良い音だと思って聞いていた。


午前のうちはいつも通りの谷だった。配給の列が立ち、苗代の水口で男たちが泥にまみれ、量り場ではヴィムが帳面の突き合わせを読み上げている。3割減の柄杓にも、列はもう慣れ始めていた。慣れる、というのがどういう貯金を切り崩した上の話か、誰も考えずに済んでいた最後の午前だった。


報せは昼前に駆け戻ってきた。


枝沢へ上がった背負子の組の、足の速い方だ。男は門の前で膝に手をついて、息の合間に、言葉を3つだけ寄越した。竈の煙が無え。小屋の戸が内から閉まってる。呼んでも女の声しか——。


彼女は報せの途中で立ち上がっていた。産婆を呼びなさい、背負子に重湯の支度、俺には剣と縄。指図は歩きながら飛び、館を出るときには列の形になっていた。泥の山道を彼女は先頭の組のすぐ後ろについて登り、裾が泥を吸って重くなるのも構わず、休みは一度も取らなかった。


小屋の戸は俺が外した。


中は冷えた灰のにおいがした。囲炉裏の火は落ちて久しく、灰の中の燠さえ死んでいる。その囲炉裏の脇にヘルガがいた。生きている。毛布の塊の中で目だけ動かして、入ってきた俺たちを見、奥の床の方を見た。見る、というより、もうずっとそこしか見ていなかった目だった。


ヤーコプは床の上で死んでいた。


毛布は妹の方に2枚、自分には外套1枚。横向きに丸まって、眠っているのと変わらない形で——頬のこけ方だけが、眠りの形ではなかった。雪の中を熊と間違われながら下りてきた、あの背の高い男の体は、外套の下で枯れ枝の束ほどの嵩しかなくなっていた。


産婆が見立てて、首を振るまで、長くはかからなかった。死んで1日半。争った傷も病の熱の痕もない。飢えて弱って、冷えて、眠ったまま——あの死に方だった。ゲルダ婆さんが三度くぐったという飢えの冬の、椀がだんだん薄くなる、あの死に方。


ただし、薄めたのは他人ではなかった。


納屋の検めでそれが分かった。配給の麦は継ぎ場から2人分、きちんと届いていた。袋には兄妹それぞれの印がある。妹の袋には麦がまだ残っていた。兄の袋は空だった。空の袋の底に、妹の印の袋へ移し替えた粉の筋が白く残っている。自分の取り分を妹の袋へ移して、自分は空の袋の口を、几帳面に紐で結び直してあった。


「兄さんは、山で食ってるから、って」


ヘルガの声は灰のにおいの中で切れ切れに動いた。山には罠があり岩茸がある、俺は炭焼きだ、山が食わせてくれる。そう言って、椀の粥を妹に寄越した。雪のあるうちはほんとうに山で何か獲っていたのかもしれない。雪解けの山はいちばん何もない。罠は流され、芽はまだ出ない。それでも兄は山で食ってる、と言い続けた。言いながら、立てなくなる日まで炭を焼いていた。


「気づかなかったのかい、と言うんだろう」と、ヘルガは誰も訊いていないことに答えた。「……気づいてたよ。気づいてて、あたしは椀を受けちまった。飢えた冬の家ってのは、そういうふうに、できてるんだ」


彼女は小屋の中で一度も声を荒らげなかった。


ヘルガの脈を産婆と検め、重湯の支度を自分の手で指図した。いきなり粥を食べさせてはいけません。重湯を匙で少しずつ。半日かけて薄い粥に。塩はひとつまみから——手順は淀みなく、産婆が目を見張るほど細かかった。飢えた体に食わせる順番を間違えると、戻った命がもう一度こぼれる。そういう間違いを、あの人はどこかで、数えるほど見てきたのだろう。


それから、ヤーコプの枕元に膝をついて、死んだ男の顔を長いこと見た。手は合わせない。祈りの言葉もなかった。外套の襟元を、寒くないようにするのと同じ手つきで直して、立ち上がった。


「ヘルガは里へ下ろします。担いで」


「……いやだ」と、毛布の中から声がした。「ここは、うちの竈だ。兄さんの竈だ。あたしは——」


「山に1人は、置きません」


声はいつもの帳面の高さのままだった。


「あなたの竈は、消えません。炭焼きの届けは生きたまま、雪が締まる季節に焼きに上がればよろしい。ですけれど、寝起きは里でなさい。……ヘルガ。この谷で、帳面の外で人が減るのは、これで終いにしますの」


ヘルガは長いこと黙って、それから、毛布の中で小さく頷いた。背負子に乗せられて小屋を出るとき、女は一度だけ振り返り、竈と床の上の兄の形を見る。あと2日遅けりゃ、妹の方も保たなかったよ——下りの道で産婆が低く言った。背負子の繰り上げがなければ、あの小屋は、戸の内側で2人とも終わっていた。前の日の朝いちばんに、と日付を切ったあの指図が、妹の側の命を拾ったのだ。拾えたのは片方だけだった。


板にはその晩のうちに貼られた。


死者、1。枝沢のヤーコプ、39。死因、飢え。配給線の継ぎの遅れ、1回。手当て——枝沢線は廃止、ヘルガは里へ。継ぎの日延べは以後、いかなる泥でも2日を超えさせない。


冬じゅう、餓死ゼロと書き続けた板だ。その板に、あの人は自分の手で飢え、の二文字を書いた。隠す道も薄める言い回しもいくらでもあった。病で弱った、とでも書けば、誰も検めようがない。書かなかった。書かないことを、谷はもう知っている。だから板の前の人垣は、二度読んで黙って散った。


散り際の声をいくつか拾った。テオが薪を抱え直しながら、誰にともなく言う。あの人でも間に合わねえことが、あるんだな——責める声ではなかった。責める声でないことが、かえって深いところを冷やした。あの人は間に合う、という思い込みの上に、この谷の春は立っていたのだ。立っていた地面が、初めてひと揺れした。


それを受け止めたのは、ヴェンツェルの声だ。元賊は詰所の戸口で、煙草も持たずに言った。


「1人だ」


「……なんだと」


「この春、峠の北じゃ、麦を売っちまった村が、いま順番に静かになってってる。塩売りの数えで、ひと村まるごと戸が開かねえとこが、もう2つだ」男は谷の灯を見た。「銀貨を抱えて飢えてる連中の中で、この谷は、1人だ。1人で済んでる、なんて言い方を、俺は死んだ男にする気はねえよ。ただ……騎士様、帳面の外の勘定ってのも、あるんだぜ。それだけは忘れんな」


どちらの声も正しいのだろう。1人は多すぎる。1人は奇跡のように少ない。ふたつの正しさは打ち消し合わずに、両方とも、胸の別の場所に沈んだ。


埋葬は翌日の昼に行われた。


墓地の30の穴の、2つ目が口を開けた。1つ目の隣だ。アルマ婆さまの土饅頭には、もう雪がなく、春の草の最初の青がうっすらと刺し始めていた。寿命の墓の隣に飢えの墓が並ぶ。ひと冬かけて空のまま守り抜いた穴の列が、冬の明けた春に、いちばん埋めたくなかった埋まり方をした。


ゲルダ婆さんは穴の縁で長いこと杖を握っていた。


「言ったろう、騎士様。誰のせいでもない殺し方ってのが、あるのさ」婆さんの声は、皺の底から出てきた。「あのお人の紙は、その口をよっぽど塞いだ。塞いだが——戸の内側までは、紙も届かない。届かない場所がまだあったんだよ、この谷には」


それから婆さんは、俺の腕を杖の先で小突いた。


「だがね、言っとくよ。前の谷なら、ヘルガも一緒に埋めてた。兄妹そろって、夏まで誰にも気づかれずにね。……片方の椀が戻ってくるってのが、どういう谷か、あんたは分かってるかい」


司祭は式文を終えてから、彼女の前で足を止めた。慰めの言葉を探す顔で、結局、置いていったのは司祭らしい勘定がひとつ。春の名読みに、名前がひとつ増え申した。読みまする、昼の側で——彼女は一礼を返した。昼の側。寡婦の亭主や、アルマ婆さまと同じ側ということだ。山から下りない変わり者は、最後の最後に、谷の昼の側の名簿に入った。


黴の冬のことを、俺は思い出していた。あの時失ったのは袋30だ。母の形見が消え、ハイラムの20年が崩れ、椀が2割軽くなった。痛かった。痛かったがあれは全部、銀と麦の話だ。失くした物の名前を、帳面は袋いくつと書けばよかった。今度のは書く欄が違う。名前の帳面の側だ。袋は買い戻せる。形見も理屈の上ではいつか買い戻せる。39で死んだ炭焼きの男だけは、秋の刈り入れがどれだけ豊かでも、もう買い戻す店がこの世のどこにもない。


葬列の最後尾に、彼女はいつも通り立った。


司祭の祈りが終わり、土が落とされ、人垣がひとりまたひとりと引き上げていく。ヘルガは産婆の肩を借りて、最後の方まで残って、それでも下りていった。残ったのは彼女と、半歩後ろの俺だけになった。


彼女は立っていた。


土饅頭の前で、背筋はいつものまま、手は外套の前で組んだまま。雪解けの水音が墓地の下の沢で鳴り続けている。四半刻が過ぎた。あの人が用のない場所に四半刻立つのを、俺は見たことがない。半刻が過ぎようとして、彼女が口を開いた。


「レンツ。いま、何刻ですの」


谷じゅうの刻限を決めている人が時を訊いた。日は中天を過ぎていますと答えると、彼女はそうと言ったきり、まだしばらく動かなかった。


帳面の頁を見たのはその晩だ。


呼ばれて執務室に入ると、机の上に名前の帳面が開いていた。隠す素振りもなかったから、見えた。ヤーコプ。歳、39。日付。死因の欄に飢え。そしてその下に彼女の手で1行。


——配給線、一継ぎ遅れ。責は帳面の管理者にある。


敵の名前はどこにもなかった。ボルツともフンケとも、両替の組合とも書いていない。書く場所なら、いくらでもあったはずだ。買い占めがなければ、麦は消えなかった。麦が消えなければ、量りは絞られず、継ぎは延びずあの小屋の袋は空にならなかった。それを全部知っていて、あの人は、責の欄に自分の職名だけを書いている。名前の終わりの滲みは、これまでのどの頁よりも深い。インクは紙の裏まで抜けて、次の白い頁に薄い影のような写りを残していた。


「一度だけ」


と彼女は言った。帳面を見たまま、こちらを見ずに。


「名前を書きながら、泣いたことがありますの。ずっと、昔に。……そうしたら、次の判断を、ひとつ間違えましたわ。死人が、ひとり増えました。ですから決めましたの。数えるのが先。悼むのは、冬が明けてから、と」


窓の外で、雪解けの水音が鳴っていた。昼も夜ももう止まない音だ。


「冬は、明けていますわね」


彼女はペンを取って、インクを含ませて、含ませたまま置いた。書かれなかった何かが、ペン先で乾いていくのを、俺は黙って見ていた。


「悼みの順番は、来ています。来ていますけれど——後に回しますわ。ボルツの取り立てが、済んでから」


自分で作った物差しを、自分の手で曲げる音を、俺はこの晩初めて聞いた気がする。音もなく、顔色も変えず、声の高さも変わらないまま。それでも確かに何かが軋んだ。条文を書き換えるとき、あの人はいつも板に貼って全員に知らせる。この書き換えだけは貼られない。貼られないまま、帳面の裏写りの影だけが、次の頁で待っている。


「レンツ」


帳面が閉じられた。


「明日から、忙しくなりますわ。……ええ、約束しましたもの。フンケに、よろしく、と」

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