第28話「一手、遅い」
受け渡しの刻限は昼の鐘だった。
橋の袂の継ぎ宿には朝のうちに着いて、橇を川端に並べ、ハイラムが護衛の立ち位置を決めた。雪解けの川は嵩を増して、橋桁に当たる水音が絶えず低く鳴っている。彼女は宿の床几に座って、証文の綴りを膝に置いたまま、街道の南から目を離さずにいた。昼の鐘が鳴り、鐘の余韻が水音に呑まれ、街道はまだ空のまま。荷というのは遅れるものだ、と誰かが言い、誰も返事をしなかった。半刻が過ぎたころ、南の街道に土埃がひとつ立った。橇の列の起こす埃ではない。馬1頭分の、細い埃だった。
橋の袂の継ぎ宿に、ロイターの荷は来なかった。
来たのは馬1頭と、店の印半纏を着た若い番頭がひとり。橇の3台と護衛の列が待ち受ける中へ、番頭は転げ落ちるように鞍を降りて、油紙の包みを両手で差し出した。中身はこちらの渡した手付の銀と、証文の控えと、蠟で封をした詫び状だった。
彼女は橋の欄干の脇で、その場で封を切った。
読み終えるまで、長くはかからなかった。読み終えて、彼女は番頭に二つだけ訊いた。ロイター殿はご無事ですの。店は続けられそうですの。番頭は泣きそうな顔で二度頷いた。それで終いだった。怒声も談判もない。荷のない橇は来た道をそのまま戻るしかなかった。
詫び状は帰りの橇の上で読ませてもらった。
堅い店の主人らしい、削いだ文面だった。受け渡しの3日前、ザルテンの両替商組合から店に通告が来た。第一に、ヴェルデン代官の証文は重罪人の判によるものゆえ、組合の保証台帳に載せられない。第二に、保証なき大口取引を行う店には、組合としての貸し付けをすべて見合わせる。——店には春の仕入れの借りが両替の通りに3口ある。貸しを引き上げられれば、店は半年保たない。先代からの奉公人が12人いる。それを書き並べた末尾に、男は言い訳をひとつも置かず、ただこう結んでいた。
貴殿の証文に、疑わしい点は一字もなかった。疑わしいのはそれを疑えと命じた銀の出どころである。小店の力ではその銀に逆らえなかった。手付は全額お返しする。利息分は詫びとして上乗せした。商人ロイター。
「……組合を動かしたのは、ボルツの銀ですわね」
「でしょうな」と、ハイラムが橇の脇で言った。「両替の通りごと買われてた。あんたが冬に言った通りだ、お頭。——剣より頭のいい得物ってのは、こういう面をしてやがる」
俺は詫び状の一行から目が離せずにいた。重罪人の判。あの断罪の日から、彼女が一度も言い訳をしなかった罪状が、半年後の春に橋の袂で麦50袋を消した。剣で来るなら俺の仕事で、嘘で来るなら帳面の仕事だ。だが生まれと判で来られたら、この谷の誰の得物が届く。
「レンツ。私の読み違いを、お探しなさい」
館に戻ったその晩、彼女は帳面と証文の綴りをまとめて、机のこちら側へ押して寄越した。命じられた意味が、最初は分からない。探せと言われて、俺は3刻かけて、この春の手の全部を頭から読み直した。種籾を先に買った順番。蟻の列の組み方。ロイターへの証文の文言。どこかに穴があるなら、それを直せば次は勝てる。
穴はなかった。
「……ありません。読みに、誤りは」
「ええ。ありませんの」彼女は綴りを引き取った。「ですから、これは読み損ないの負けではありませんわ。私が流刑の罪人であること。この谷に銀が無いこと。両替の通りがボルツ領の銀で詰まっていること。——今朝までに変えられた札は、この中に1枚もありません。最初から無い札では、どう並べても、あの50袋には届きませんでしたの」
「なら、誰の落ち度でもない」
「いいえ」即答だった。「帳面は、落ち度を書きませんのよ、レンツ。帳面が書くのは、間に合ったか、間に合わなかったか。それだけですわ」
彼女はロイターの詫び状を、証文の綴りに挟んで仕舞った。捨てないんですか、と訊いた俺に紙は取っておきますわ、と答えが返った。紙の値打ちは書いた者が思うより長持ちしますの——その紙が後にどこで開かれるかを、この時の俺はまだ知らない。
翌朝の板はこの春いちばん重い紙になった。
ロイターの50袋が来ないこと。理由が両替の組合の通告であること。蟻の列は続いており、月に40袋まで育つ見込みであること。ただし、それで穴が埋まるのは、ひと月先になること。
そして、手当て。量りは2割減から3割減へ。子どもは1割減のまま、身重と病人、乳飲み子の家は2割減のまま据え置き。野良と梁と山菜の組は届けを倍に増やす。配給の刻限はそのまま、量りの検めもそのまま。
ひと月先、のところで、板の前の空気が動いた。麦は来る。来るが遅い。誰かの口から、こぼれるともなく言葉が落ちた。間に合うのかい、それで——誰も答えない。答えの代わりに、列はその朝も崩れずに並び、3割に絞られた柄杓を黙って受けた。椀の嵩がどれだけ欠けたかは、誰の目にも一目で分かる。それでも柄杓の動きを疑う者はおらず、代わりに、量りの検めの帳面を覗きに来る首がいつもより増えた。減らした朝ほど、人は数字の見える場所に寄る。ゲルダ婆さんが量り場で、若い量り役に低く言うのが聞こえた。手元を見な。絞った量りの日ほど、手元を見られてるよ。狂わせるんじゃないよ、髪の毛1本分もね。
その晩の詰所で、火の出る方の声が上がった。
口火はグンナルだった。大男は鎚を握る手で卓を叩いて、言った。峠の北には倍で買われた麦が錠の下で山積みだ。うちの谷を賊に襲わせた銭で買われた麦だぞ。奪り返して、何の罰が当たる。若い連中がそれに乗った。橇なら3晩で往復できる、蔵の錠なんぞグンナルの鏨で——膨れ上がりかけた相談を、戸口からの声がひとつで潰した。
「やるなら俺の屍を越えてけ。お頭の沙汰より先にゃ、指一本動かさせねえ」
ハイラムだった。古傭兵は卓の真ん中まで歩いて、若いのの顔を順に見た。
「いいか。向こうの銀は、王都の両替まで届いてる銀だ。そういう相手の蔵を破ってみろ。翌朝にゃ、流刑の罪人が隣領を襲った、って紙が王都の机に載る。賊の絵図も、買い占めも、ぜんぶその紙の下に消えるんだ。……敵が欲しがってるのはな、麦の蔵じゃねえ。こっちが先に殴る、その一発よ。くれてやる馬鹿がどこにいる」
殴る理由が山ほどあるのに殴れない、という戦を、俺はこの晩初めて見た。剣の届く敵なら、この谷には剣がある。届かない場所から絞ってくる敵には、量りと紙と辛抱しか返す札がない。グンナルは鎚だこの浮いた拳を長いこと卓に置いたまま動かさず、最後に分かった、とだけ言って鍛冶場へ戻っていった。翌朝、鍛冶場からはいつもより長く、鉄を打つ音が聞こえた。行き場のない一発を、あの男は鉄敷の上で打っていたのだと思う。
鵞鳥の沙汰はその晩に出た。
帳面の隅に1行だった。館の鵞鳥6羽、つぶして塩漬けに。肉は産後の家、留め置きの病家、乳飲み子の家へ順の紙の通りに。
あの鳥どもは秋からずっと館の裏にいた。知らない足音に喚き、彼女の足音には嘴ひとつ上げず、番犬の代わりを半年務めた連中だ。翌朝、館の裏が静かだった。それだけだ。彼女は検めの行き帰りに、空になった囲いの前を、歩く速さを変えずに通った。マルコの女房の枕元に、鵞鳥の出汁の椀が届いたと聞いたのはその昼のことだ。乳の出が良くなる、と産婆が言ったそうだ。番をする鳥より、番をされる赤子。あの人の順の紙は、最後の1羽まで、そういう並びでできている。
俺はあの静かな囲いの前で、一度だけ足を止めた。騎士の感傷だと言われれば、それまでだ。留め置きの病家の婆さまが塩漬けの欠片で粥を啜り、マルコの倅が乳を飲んで太っていくのと、囲いの静けさが同じ1行から出ている。その1行を書ける者がこの谷に一人しかいないことだけは、感傷抜きで分かっていた。
種籾の話も一度だけ出た。
ブレヒトが言い出しにくいことを言い出す時の揉み手で切り出したのだ。蒔いた残りの種籾が、納屋にまだ俵で2つございます。あれを挽けば、ひと月の穴の、せめて半分は——彼女は最後まで言わせなかった。
「種は、食べません」
「で、ですが、現に椀が」
「種を食べた谷を、私は知っていますの」声は、変わらなかった。変わらないまま、部屋の温度だけが下がった。「春を食べて夏を生き延びて、秋に、蒔くものがないことに気づきますわ。次の冬は、今年の冬より長くなりますの。永遠に、ですわ。——俵2つは、来年の谷の頭数そのものです。今年の穴は、今年の手で埋めます」
来年の谷の頭数。そういう言い方をされると、納屋の俵が、急に俵に見えなくなる。村長は引き下がり、種の俵には、蔵の麦より厳重な縄が掛かった。
勘定を並べ直してみる。
蔵の残り、3割減の量りでおよそ20日。蟻の列、ひと月でおよそ40袋。畑の菜が口に入り始めるまで30日。梁の魚と山菜が椀の外の腹を少しずつ埋める。全部を足すと数字は届く。届くが——どの数字にももう余りがない。雪の冬を越えたとき、帳面には15日分の余りがあった。いまはゼロだ。誰かが3日寝込めば、橇がひとつ泥に嵌れば、その分だけどこかの椀が欠ける。
「帳面から、余りという欄が消えましたわ」
夜の執務室で彼女はそう言った。余りという勘定はこの世にない、と言い切った人が、その欄の消えた帳面をいつもより半刻長く開いていた。それから、独り言ともこちらへの言葉ともつかない高さで付け足す。
「読みは合っていましたの。手も、打てる順に全部打ちましたわ。それでも——一手、遅い」
盤面の話をする声だった。盤面の話として聞くには、駒の名前が、麦と椀と谷の頭数でできていた。
泥が最後の敵だった。
雪解けの道は冬の雪道より性質が悪い。橇は走らず、車輪は沈み、人の足だけが頼りになる。配給線の継ぎの日程が、泥の深さに合わせて間延びし始めた。ホルバッハへの継ぎが3日おきから4日おきに。川下が2日おきから3日おきに。そして枝沢は——ゲルダ婆さんの小屋を継ぎ場にした、あのいちばん細い線は、5日おきが7日おきになっていた。
彼女は配給線の図を机に広げて、継ぎの日付を端から検めていった。ペンの尻が枝沢の線の上で止まる。
「枝沢の前回の継ぎは」
「6日前です。泥で1日延びて、明日の組に入っています」
「明日の朝いちばんに繰り上げなさい。荷は橇ではなく背負子で。ヴェンツェルの組から足の強いのを2人」彼女は線の端の、小さな丸をペンで二度叩いた。「7日は、長すぎますわ」
指図はその晩のうちに組まれ、荷は麦と塩漬けと膏の貝殻まで検めを終えて、背負子は夜明けと共に出た。
俺はそれを館の門で見送った。空は晴れて、雪解けの水音が谷じゅうで鳴っている。いい朝だった。いい朝だったことを、俺はこの先ずっと、忘れられないだろうと思う。




