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うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


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第27話「買い占めの匂い」

帰着の翌朝、板の前に谷が集まった。


貼られたのは峠の向こうの報せだ。市場の麦が買い占められていること。種籾は要る嵩の7割が買えたこと。食う麦は4袋しか買えなかったこと。買い占めの主が峠の北の領主であること。数字はいつも通り並び、いつも通り、言い訳がひとつもなかった。


そして彼女は人垣の前で、古い貼り紙を一枚剝がした。


量りの2割減は市が立つまで——黴の冬に貼られた、あの紙だ。


「私はここに、市が立つまで、と書きましたわ」彼女は剝がした紙を掲げた。「市は立ちました。ですからこの紙は、今日から嘘になります。約束の文句が現実と食い違ったときは、貼った者が自分の手で剝がして、新しい数字を貼り直す。それが、この板の決まりですわ」


新しい紙にはこうあった。量りの2割減は続ける。期限は麦の手当てがつくまで。手当ての見込みは、この板につき次第すぐ貼る。


人垣は静かだった。黴の冬の静けさと似て、少しだけ違う。あのときの静けさは怯えの色をしていたが、今度のは、奥歯を嚙む音がしそうな静けさだった。敵が雪なら、耐えるしかない。だが今度の敵は峠の向こうで麦を蔵に積んで錠を下ろしている。ブレヒトの女房が、人垣の後ろで吐き捨てたそうだ。倍で買って売らないなんてのは、麦への罰当たりだよ——罰当たり。この谷の最上級の悪態が初めて人に向いた。


穴の大きさも隠されなかった。


執務室の帳面で、彼女は端境の見積もりを引き直し、その要点を板に貼った。蔵の麦は2割減の量りで残りおよそ21日。新しい麦が谷の畑から上がるのは早くて120日先。差し引きおよそ100日の穴を、麦に直せばおよそ140袋。埋める当ては4つ。峠の向こうから買い足す麦。畑の脇に蒔く早い菜と豆。雪解けの川と山の恵み。そして、蔵の量りの絞り方。最初のひとつが太く埋まらなければ、残りの3つは細い継ぎ木にしかならない——数字は、そういう形をしていた。


畑の方はもう待ったなしで始まっていた。


種籾7割の作付け割りが組まれ、苗代の水口をグンナルの打ち直した鋤が切っていく。神様への返済の畝は、約束通りいちばん日当たりのいい段に取られた。ふた冬ぶりの春仕事に、谷は朝から人が出払う。土を返す手は弾んでいて、昼の椀は2割減のままだ。働きが増えて、椀が増えない春。彼女は野良仕事の届けに、川魚の梁と山菜の組を足して、椀の外で腹に入るものを増やしにかかった。雪解けの沢で採れる蕗の薹は、苦くて、椀の薄さを束の間忘れさせる味がした。


対抗の手は貼り紙と同じ日に動き出した。


ひとつは紙の手だ。秋渡しの買い証文——いま納屋の麦を売ってくれれば、代金は秋に、利息1割を載せて払う。担保は谷の蔵と、出来秋の麦と、街道筋に知れ渡ったあの貼り紙の評判。銀貨は一枚も使わない。使える銀貨がもうほとんどないからでもある。


もうひとつは足の手だった。塩売りに小間物屋、鋳掛屋に薬売り。峠を歩く小商人を館に呼んで、彼女は仕事を出した。荷のついでに麦を運ぶこと。1袋から買う。2袋なら手間賃を上乗せ、裏道経由ならさらに上乗せ。蔵方の目は街道の大口に張りついている。荷橇1台の麦は止められても、行商の背負子の底の半袋までは誰も数えられない。


「蟻の列ですわ」と、彼女は地図の裏道をなぞって言った。「熊の爪は、蟻を潰せませんの。数が多くて、道がばらばらで、一匹あたりが軽すぎますから」


俺の耳に残ったのは、その後の言葉の方だ。荷を検める段になって、彼女は行商人たちに値の理屈を説いた。あなた方は買値を疑うでしょう。飢えかけた谷が、なぜ相場どおりの値で買うのか、と。足元を見て買い叩く真似を私はしません。代わりに、嘘の麦も買いません。——飢えている土地から麦が出ていくことを、飢餓輸出と言いますの。私はそれの逆をやりたいだけですわ。


飢餓輸出。飢えた土地から、麦が出ていく。言葉の組み合わせ自体が間違っているような語感で、しかし彼女の口ぶりは、見てきたものを呼ぶときの口ぶりだった。どこの言葉です、と訊く隙は、例によって与えられなかった。


蟻の列は思いのほか早く歩き出した。


最初の麦は薬売りの荷の底で来た。2袋。受け取りの検めの場で、薬売りは妙な土産話をした。峠の北の村じゃ、銀貨が余って麦が無え。銭で量りを買えた試しはねえのに、みんな今ごろ気づいてまさ。おたくの貼り紙の話をしたら、年寄りが急に黙りこくって、それから訊くんで。その谷は列の順番を紙に書いて貼るってのはほんとうかね、って——話の続きを促した俺に、薬売りは首を振った。続きはありませんや。あの年寄りは二度、ほんとうかね、と言ったきりでさ。


次が塩売りの橇で3袋、鋳掛屋の背負子で1袋。ほかの行商の荷の底も合わせて、10日で14袋。蔵の出納に、ひと袋ずつ几帳面に書き足されていく。大した嵩ではない。ないが麦の消えた街道筋で、消えたはずの麦がぽつりぽつりと谷に届く。その絵だけで、配給の列の背筋が変わった。手があるのだ。熊の爪の届かない手が。


ヴェンツェルが思い出したのはそんな最中だった。


夜、詰所の裏で、元賊は俺と彼女の前に立った。珍しく、座らなかった。


「フンケの護衛の片割れ。思い出した」


「……どこの顔だ」


「秋だ。俺たちの頭んとこに、街から使いが来てた。金と、新しい剣と、それから狙い場の絵図を置いてった使いだ。あの使いにくっついてた護衛と、同じ面だよ。右の眉んとこの、刃物傷まで同じだ」ヴェンツェルは、唾を吐きたいのを呑んだ顔をした。「お頭。俺たちゃ雇われてたんだ、知らねえうちに。谷を襲った賊の銭と、いま麦を買い占めてる銭は——同じ財布から出てる」


執務室の蝋燭がひとつ揺れた。


彼女は何も言わずに例の頁を開いた。フンケの名前の頁だ。名前の下に線が1本増える。賊の襲り、武器の出どころ、絵図。書き終えて、彼女はペンを置いた。


「秋は剣で、春は銀貨。得物が変わっただけで、やっていることは同じですわ。——賊で潰し損ねた谷を、今度は囲んで、干上がらせる」


「報せますか。王都へ」と、俺は訊いた。月次の報告がある。隣領の領主が賊を雇った疑いとなれば、国法の領分だ。


「疑い、の段では紙が弱すぎますわ。眉の傷ひとつでは、向こうの言い逃れに紙を1枚使わせるだけ」彼女は首を振った。「証文と銀貨の流れで、首根っこまで辿ってからですの。それまでこの頁は、寝かせておきますわ」


「……俺の月次には、どう書けば」


「ありのままに。買い占めの事実と、谷の手当てと、数字を」彼女はそこで、ほんのわずかに首を傾げた。「疑いの方は、お好きになさい。あなたの紙ですもの。ただ、王都の机は、隣領の貴族の疑いより、流刑の罪人の失敗の方を読みたがりますわよ。読みたい話の隣に置かれた読みたくない話が、どう扱われるか——それも含めて、あなたの紙ですわ」


書く側の苦労まで見透かされた気がして、俺はその月、事実と数字だけを並べる。疑いは書かず、代わりに手控えの方へ、眉の傷の人相書きを残した。紙には置けない覚えの置き場が、俺にも要るようになっていた。


掘り出し物が持ち込まれたのはその翌週だ。


新顔の行商人だった。革の胴着の、舌のよく回る男で、荷は驚いたことに麦が20袋。値は相場の1割引きだという。麦の消えた春に20袋。広場の荷揚げ場がどよめいた。配給の列の連中まで、仕事の手を止めて集まってくる。20袋は谷の2割減を半月戻せる嵩だ。


ブレヒトが先に膝を折る勢いだった。代官様、買いましょう。20袋ですぞ、と。値切りもせず即金でなくていいなら、と男の方も愛想がいい。彼女は返事の代わりに、荷揚げ場の台に袋を上げさせた。


彼女は袋の口を解かせて、いつものように素手の指を差し入れた。


奥まで入れて、目を閉じる。指を抜いて、匂いを嗅ぐ。隣の袋。その隣。4袋目で彼女は手を止めた。


「お引き取りなさい」


「な……どこに文句が! 検めたって、どこも」


「上の3寸は、いい麦ですわ。その下は、湿りを乾かし直した麦。乾かし直しても、黴の根は死にませんの」彼女は指の腹を男の方へ向けた。「炊けば食えます。食えて、10日後に腹を下し、弱った年寄りと子どもから順に倒れますわ。——この値で20袋を、いまこの街道筋で揃えられる仕入れ先は、ひとつしかありませんのよ。帰って、お伝えなさい。毒は、量りませんでしたわ、と」


男は何か喚いて、荷ごと峠の方へ消えた。どよめきは今度は別の向きでざわめく。麦の消えた谷が目の前の20袋を突き返した。突き返せたのは検めの指が湿りを摑んだからで、あの指が凍傷の痕ごと谷の物差しであることを、列の連中はみんな知っている。それでもその晩のブレヒトの顔は晴れなかった。毒でも上の3寸は食えたんじゃ——村長の未練は、村長の職分としては正しい。彼女はそれにも数字で答えた。20袋の上澄みは6袋分。腹を下す者が出れば、看病と床上げで失う働き手の日数は、6袋では買い戻せませんわ。後日峠向こうの村がよく似た麦を買い、よく似た腹下しを出したと、塩売りが報せてきた。買わなかったという手柄が、また、起きなかったことの側にひとつ積まれた。


そして、大口の報せが来た。


南の街道筋の穀物商、ロイター。先代からザルテンに蔵を持つ、堅いので知られた店だ。秋渡しの証文に応じる、と返事が来た。麦50袋。受け渡しは7日後、ザルテン街道の中ほどの、橋の袂の継ぎ宿で。証文の文言を、彼女は三度引き直し、ロイターの側も三度引き直してきた。堅い店ほど、紙に時間をかける。かけた時間の分だけ、紙は強くなる。


50袋。蟻の列の14袋と合わせれば、およそ140袋の穴の半分近くが埋まり、残りは蟻の列の育ちと菜と梁と蔵の絞りで届く範囲に入る。帳面の上の端境期が、初めて、越えられる形になった数字だった。


橇は3台、護衛はハイラムが自分で出ると言った。荷が荷だ、というのが表向きで本音は別だろう。眉に傷のある護衛の話は、傭兵の頭にも届いている。賊の銭と買い占めの銭が同じ財布なら、その財布は、橋の袂の50袋を黙って見ているだろうか。出立の段取りを検めながら、古傭兵は誰にともなく言った。荷を奪りに来るなら、まだ分かりやすくていい。俺が嫌なのはな、騎士様、敵が剣より頭のいい得物を使ってくる時よ。


受け渡しの前夜、彼女は橇の段取りを検め終えて、最後に天気を読みに外へ出た。星のよく見える、風のない晩だ。妙に静かですね、と言った俺に、彼女は空を見たまますぐには答えなかった。


「……静かすぎますわ」


それだけ言って、館に戻っていった。あの人の言う静かさが天気の話でなかったことを、俺は翌日の橋の袂で知ることになる。

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