↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

27/61

第26話「隣の領は高く買う」

峠越えは2日かかった。


雪は締まっていたが、日の高いうちは表面が緩んで橇の足を取る。夜明け前に発って、雪の硬いうちに距離を稼ぎ、昼は雪洞で湯を沸かして待つ。ヴェンツェルの仕切る冬峠の旅程は、賊の稼業で磨かれた段取りそのままで、つまり間違いがなかった。橇が2台、ヴェンツェルの組が3人、俺と彼女。代官が領を空けることには、ハイラムが申し訳程度に渋い顔をして、それから留守の差配を半日で組み上げた。渋い顔は役目で、本音が別の場所にあるのは、組み上げの速さで知れた。あの古傭兵も塩売りの話に同じにおいを嗅いだのだ。


ザルテンの市は表向き、いつものザルテンだった。


両替商の通りには天秤のきしみが鳴り、塩と革と鉄物の店は荷を広げ、人混みの嵩も冬明けの市らしい賑わいだ。違うのは穀物の台だけだった。


空なのだ。


正しくは空ではない。台はあり、量り升もあり、商人も座っている。だが袋がない。麦はと訊くと、商人は揉み手で答える。あいにく今朝方、まとまった買い手がついちまいまして。明日なら、いや明後日なら——明後日も同じ台が同じ口上を言うことを、商人の目が先に白状していた。


「いつからですの」と、彼女は升の埃を指でなぞって訊いた。


「……ひと月前にゃ、もう」と、商人は声を落とした。「最初は古麦からでさ。次が新麦、いまは種籾だ。倍出されちゃ、あっしらは止められませんや。代官様、悪いことは言わねえ、麦がご入り用なら、北へはお行きなさんな。北はもっとひでえ」


両替商の店にも寄った。ハイラムの預かり証を扱った、あの石蔵の店だ。


冬峠の買い出しの折は、渋りながらも紙を銀に替えた店が、今度は天秤を持ち出す前から歯切れが悪かった。春は紙物の検めが厳しゅうございましてな、組合の寄り合いもございまして、と番頭は揉み手の数だけ言葉を増やす。証文で麦を買う段取りの話は、結局、預かり置きという曖昧な形で棚に上げられた。店を出るとき、帳場の奥で主人が、こちらを見ないようにしているのが見える。冬には目を合わせた男だった。


「……感じが、変わりましたね」


「ええ。両替の通りごと、誰かに先に買われた感じですわ」


彼女は店の看板を見上げて、それだけ言った。銀を扱う者は銀の出どころに逆らわない。あの通りに最近どんな銀が流れ込んだかを思えば、店の変わりようは、それ自体がひとつの報せだった。


北へ行った。ひどさを、値段ではなく目で測るためにだ。


峠の北の市場町は、ボルツ領の門前町にあたる。穀物蔵の並ぶ川端に、新しい錠が並んでいた。蔵という蔵の戸口に、交差した鍵の紋の封紙。ボルツ男爵家の蔵方の封だ。荷揚げ場ではよその村から来たらしい百姓の橇が、麦の袋を下ろして銀貨を受け取っていた。受け取った銀貨を男は日に透かして、噛んで、それからやっと頬を緩めた。真新しい、打ち立ての艶のある銀貨だ。


「いい商売をなさる」


声を掛けてきたのは向こうの方だ。


蔵方頭はフンケと名乗った。背が低く指の白い、算盤だこのある男で、毛皮の襟巻きだけが場違いに上等だった。ヴェルデンの女代官殿でいらっしゃいましょう、噂はかねがね、と腰は低い。低い腰のまま、男は値札を読み上げるように言った。


「麦をお探しとか。あいにく、この街道筋の麦は、当家が買わせていただいております。春の相場は荒れますからな、殿様は領民おもいでいらっしゃる。——もっとも」


フンケはそこで初めて笑った。


「ヴェルデン様がどうしてもとおっしゃるなら、お分けできなくもございません。当家の買値の、そうですな、3倍ほどで」


それから男は頼まれもしない世間話を足した。お宅の谷はこの冬は上々の首尾だったそうで。餓死がゼロ、と広場の板にお貼りになったとか。蔵の残りは33日分、でございましたかな——板の数字だ。誰でも読める場所に貼ってある、うちの谷の数字。読めるように貼ったのは彼女で、読みに来る者を選べないのも、貼り紙という道具の性分だった。フンケは指の白い手を揉みながら、数字を口の中で転がして、味でも見るような顔をした。


「結構ですわ」


彼女の返事に、フンケの眉が薄く動いた。買うのか、と思ったのだろう。違った。


「3倍の値札に、結構、と申しましたの。値札は商人の顔ですわ。あなたの顔は、よく分かりました」彼女は一礼した。査問の場で300人に向けたという、あの完璧な礼だ。「それから、うちの板の数字をようご存じで。ええ、全部ほんとうの数字ですわ。お宅の蔵の封紙と違って、開けて検めてくださって構いませんのよ。——殿様によろしく。蔵の錠は、湿気りますとよく落ちますの。麦と一緒に、お気をつけあそばせ」


帰り道、ヴェンツェルが小声で訊いた。いまの、脅しで?


「挨拶ですわ」と彼女は言った。脅しと挨拶の違いを、俺はいまだに正しく言えない。


買い付けは市の外で行われた。


競りで勝てない時は競りの外で買う。彼女は宣言通り、市場をあきらめて納屋を回った。街道から外れた村々の、まだ蔵方の銀貨が届いていない農家。狙いは麦より先に種籾だ。早生の種、苗代用の種。値は相場の1割増し、支払いは反物と縄と炭、足りない分は証文で。


最初の村では門前払いを覚悟した。よその領の、罪人上がりの女代官が、銀貨も持たずに種を買いに来たのだ。ところが3軒目の親爺が、彼女の名乗りを聞いて手を打った。ヴェルデンの、あの貼り紙の代官様か。冬峠を越えて麦を倍値で買ってった谷の。塩売りの常で、商人は荷と一緒に話を運ぶ。量りの狂わない谷、書いた通りに払う代官。傭兵の隠居銀を証文で借りた話まで、街道筋の納屋には届いていた。親爺は俵を3つ出して証文の文言を読み上げさせ、読めない自分の代わりに倅に二度読ませてから、判を突いた。


「銀貨より紙がいいって日が来るとはなあ」と、親爺は自分で笑った。「だがよ、代官様。あの蔵方の銀貨は、どうも裏が冷てえ。受け取った隣の村の連中も、喜んだのは晩飯までで、朝になったら妙な顔をしてやがった。麦のねえ銀貨ってのは、嚙んでも、腹の足しにゃならねえもんなあ」


麦のない銀貨は腹の足しにならない。市場の理屈のいちばん底を、字の読めない親爺がいちばん正しく言った。


俺は最初、順番が分からなかった。谷で待っているのは食う麦の口で、種は秋まで実らない。種より麦が先ではないのか。雪洞の夜、訊いた俺に、彼女は火の上の鍋を見たまま答えた。


「種籾は、食べられない麦ですわ。だから先に買いますの」


「……分からない。食えないものを、なぜ先に」


「食えないからこそ、買い手がつくと真っ先に消えますのよ。麦は毎年湧きますわ。種は、絶えたら来年の麦ごと絶えます」鍋の湯気が、彼女の顔の前で揺れた。「あの蔵方の買い方をご覧なさい。古麦、新麦、種籾。仕舞いに買うべきものを、最初の月から買っていますわ。あれは春を荒らす買い方ではありません。来年ごと枯らす買い方ですの。——狙いがそれなら、こちらも来年から守りますわ」


「今年の腹は、どうします」


「今年の腹は、手がまだ4つ残っていますの」彼女は指を折った。「蔵の余りの15日。畑の脇に蒔く早い菜。川と山の、雪解けの恵み。それから——売り手のいる場所まで、こちらの足で買いに行くこと。市場が閉じても、麦の生る納屋までは閉じられませんわ。閉じられるとすれば、納屋と私たちの間の、道の方ですの」


道の方、という言い回しを、この時の俺は聞き流した。後になって、あれが本当の戦場の名前だったと知る。


納屋回りは3日で11軒。種籾はヴェルデンの作付けに要る嵩の7割まで集まった。麦はわずかに4袋。それでも種の橇に積まれた俵を撫でて、ヴェンツェルの組の若いのが戦利品だ、と笑った。笑えたのはそこまでだった。


4日目の朝、前日に手付を打った2軒が、相次いで断ってきた。


1軒は戸を開けず、戸越しに、女房の声が手付の銭を桶に入れて返して寄越した。すまねえ、すまねえ、とそれだけ繰り返す。もう1軒の親爺は、せめて顔を出して、雪の上に手をついた。昨日の晩、蔵方の使いが来たのだという。倍の値と、それから、来年の地代の話をしていった。うちの畑は男爵様の街道に水路を借りてる。水を止められたら、種があっても育てられねえ——。


「分かりましたわ。手付はお返しなさい。証文は、私の手で破きます」


彼女は親爺の目の前で証文を破いた。それから、破いた紙の半分を男の手に握らせた。


「これは、あなたが約束を破った紙ではありませんの。あなたの水路が人質に取られた、という私の覚えですわ。——名前と水路の場所だけ、教えてくださいまし。帳面につけておきます」


最後の晩、宿場の軒下で、彼女は破った証文の控えに水路の場所を書き込んでいた。地代と水路で農家を縛る手口は、銀貨の倍値より、よほど性質が悪い。銀貨は断れるが水は断れない。書き終えた頁の隅に、彼女は小さく何かを足した。覗き込むと、それは数字ではなくフンケ、という名前だ。名前の尻に、見覚えのある小さな滲み——ではなかった。インクは乾いて、点は走り書きのままで終わっていた。名前の帳面とは書く手が違う。あの帳面は悼む名前の置き場で、この頁は、別の用途の置き場なのだ。


帰りの峠は行きより荷が重く、空気はもっと重かった。


種籾7割。麦4袋。手付を返してきた農家、2軒。蔵に錠を下ろした蔵方と、真新しい銀貨と3倍の値札。橇の上で勘定を並べ直すと、戦果と呼ぶには欠けが多く、敗けと呼ぶにはまだ早い嫌な数字の列になった。あの人は峠の上りのあいだ、ずっと黙って、橇の尻で帳面に何かを書き続けている。揺れる橇の上の字は、さすがに乱れていたが、名前の帳面ではないのにペンの止まる場所がいくつもあるのが後ろから見えた。


「騎士様」


峠の頂で休んだとき、ヴェンツェルが俺の隣に来た。煙草を借りる振りをして、声だけ落とす。


「あの蔵方の後ろに、護衛が2人付いてたろう。革鎧の、揃いの」


「……いたな。雇い剣か」


「片っぽの面に、見覚えがある」元賊は、煙を吐かずに言った。「思い出せねえのが気に食わねえ。だが堅気の剣じゃねえ、あれは。どこで見たか——思い出したら、お頭より先に、あんたに言うよ」


眼下に、ヴェルデンの谷が見えた。雪解けの始まった谷は、上から見ると、白い毛布の裾がほつれていくようだった。あのほつれの下に、配給の列と夜なべの灯と1813の名前がある。それを思うと同時に、峠の北側の錠の下りた蔵の列も、嫌でも思い出された。


倍で買って、売らない麦。あれが売られる日が来るとすれば、それは値段の話ではないのだろう。彼女の言った言い回しが、橇の軋みと一緒に、頭の中で繰り返されていた。


誰かがこの街道筋の冬を、もう一度作ろうとしている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。