第25話「冬を越えた数」
雪解けは音から来た。
ある朝、屋根という屋根の軒から、雫の落ちる音が揃って始まった。昼には道の雪が足の下で重くなる。夕方の水汲み場で、誰かが土のにおいがする、と言った。ふた冬のあいだ、誰も嬉しがる余裕のなかった春の先触れを、谷は今年仕事の手を止めて嗅いだ。寒の戻りの牙はもう抜けている、とハイラムが空を読み、彼女が帳面の山を机に積み上げたのはその晩だ。
冬の勘定締めは3日がかりの仕事になった。
執務室の机に紙の山が立ち、俺は読み上げ役を仰せつかった。蔵の出納に配給の量りの綴り、届けの紙の束、貸借の証文。彼女が突き合わせ、検算し、月ごとの小計を年の表に移していく。算盤も使わず、ペンの尻で列を辿るだけで桁が合っていくのは、いつ見ても薄気味のいいものではない。3日目の晩、最後の頁に線が引かれて、ヴェルデンの冬は数字の形で机の上に載った。
読み上げてみる。
谷の頭数、1813。秋の検めの日から、出ていった者12、入ってきた者27。冬のあいだに死んだ者、1。生まれた者、1。差し引きで、頭数は雪の前より15増えた。
死んだ1はアルマ婆さま。死因の欄は寿命。飢えで死んだ者、ゼロ。凍えて死んだ者、ゼロ。流行り病で死んだ者、ゼロ。
蔵の残り、2割減の量りで33日分。峠の市まで、雪の締まり具合からみて、おおよそ14日。冬の終わりに、初めて勘定が黒い側で締まった。秋には18日の穴だったものが、教会の麦とハイラムの銀と雪峠の28袋とふた月の2割減で埋まって、市の立つ日に15日分の余りを残す勘定に化けている。
表はそれで終わりではない。夜なべの品の目録が続く。反物9反、縄が荷で6つ。匙と椀の箱が3つ、編み物の籠が2つ、炭が橇で4台分。峠の市での売り見積もりが品ごとに書き添えられ、その下に、出ていく側の勘定が並ぶ。ハイラムへの返済と利子の1割。神の麦44袋と豆6袋、利息を載せて秋の刈り入れから。種籾の買い入れ、苗代の手間、鍬と鋤の打ち直しの鉄。春というのは帳面の上では、入ってくる季節ではなく出ていく季節なのだった。冬を守り切った蓄えが、ここから全部、秋への賭け金に積み替えられていく。
墓地の穴、掘った数30。使った数、1。
最後の行を読み上げたとき、自分の声が少し変わったのが分かった。30の穴は秋の俺には、この谷の冬の見積もりそのものに見えた。雪の下で口を開けて待っている、帳面の上の死者の席。ひと冬かけて、谷はその席をひとつしか埋めなかった。それも椀の満ちた、温かい床の上の寿命でだ。
「……29、余りましたな」
読み上げの手がそこで勝手に止まった。穴の数を読むのに、声の支度が要るとは思っていなかったのだ。机の向こうで、彼女は顔も上げなかった。
「ええ。余らせるために掘りましたの」
彼女は表の写しを取りながら、何でもないことのように言った。掘った時から、あれは脅しでも諦めでもなく、上限の見積もりだったのだ。見積もりを下回らせるために、貼り紙と量りと縄のひと冬があった。空の穴の数はこの谷でいちばん雄弁な、冬の成績表だった。
写しは翌朝、広場の板に貼られた。
数字の表というのは、字の読めない者には絵にもならない代物のはずだ。それが板の前から人垣が引かなかった。パウルが昼まで読み上げ役に立ち、字の教室帰りの女房連中が、覚えたての数字を自分の指でなぞって確かめる。死んだ者、1。その行のところで、誰もが同じ間を置いた。47人を埋けた秋を覚えている谷が、1という数字を読む。読んでから、隣の行を読む。生まれた者、1。
「……差し引き、ゼロかね」と、誰かが言った。
「ゼロなもんかい」ゲルダ婆さんが、即座に打ち返した。「死んだのは80の婆で、生まれたのは屋根葺きの倅だよ。80年先まで、勘定は黒さ」
人垣がこの冬いちばんの声で笑った。笑い声の中で、ヴィムが量り場の検め役の顔のまま、目だけ赤くしているのを俺は見た。年寄りが声を出さずに泣くときは、ああやって、笑いの中に紛れるのがいちばんいいのだろう。
ベルタは入ってきた者27、の行の前に長く立っていた。その27の中に、自分と子ら4人が入っている。読み終えて、女は板に向かって小さく頭を下げた。礼を言う相手が紙だというのは妙な絵だが、この谷では誰も笑わない。書いてあることが書いてある通りになる紙には、それだけの礼をして釣り合うことを、ここの連中はもう知っている。
祝いの話はその日のうちに村長が持ってきた。
冬越しの宴。ふた冬ぶり、いや、三冬ぶりでございます。納屋に隠れて冬を数えた谷が、表で冬を送れるのです。どうか、ささやかでも蔵から——ブレヒトの口上は途中で止まった。彼女が顔を上げたからだ。
「断ります」
「……へ、へい。そうおっしゃると思っとりました」村長は、それでも食い下がった。「ですが代官様、人ってのは、数字だけじゃ締まらんもんで。区切りってもんが」
「区切りなら、もう貼ってありますわ」彼女は板の方を指した。「冬を越した祝いは、次の冬を越す備えが立ってから。蔵の麦はこれから種と苗代に化けますの。宴に化かす分は、1椀もありません。——量りの2割減も、市までは解きませんわ」
蔵の残りに15日分の余りが出ることは、谷じゅうが板で読んで知っている。知っていて、なお解かない。村長が肩を落として帰ったあと、俺はつい口を出した。余りの15日分くらい、量りを戻して春を迎えさせてやってもいいのではないか。ひと冬、よく辛抱した連中だ。
「レンツ。余り、という勘定は、この世にありませんのよ」
彼女はペンを置かずに答えた。
「あるのは、まだ使い道の決まっていない備え、だけですわ。市の麦の値が見積もり通りなら、15日分は種籾に化けます。春の種と端境の継ぎを思えば、あの余りは厚みではありません。薄皮ですの。値が崩れていれば、つなぎの椀に化ける。どちらに化けるかが分かる日まで、誰の腹にも入れさせません。……祝いは逃げませんわ。逃げるのは、いつも備えの方ですの」
備えは逃げる。妙な言い回しだと、その時は思っただけだった。あれが虫の知らせの類だったのかどうかいまも分からない。あの人は虫の知らせなど信じない。信じないから、晴れの日も雨の備えを緩めない。ただの習い性が後から振り返ると、虫の知らせの顔をして見えるのだと思う。
司祭が祝いの代わりを宣言したのは次の礼拝でだ。
宴はせんでよろしい。だが春の名読みは、雪解けの最初の礼拝で、例年通りに執り行う。死んだ者の名を読み、それから——と老人が説教壇から付け足した——今年は、生きて冬を越した者の数も神に申し上げることにする。1813。覚えやすい数じゃ、忘れんようにな。会衆は笑っていいのか分からない顔で笑った。祈りに数字を混ぜるようになった司祭の、あれが落とし前のつけ方だった。
この時の谷の浮き立ち方を、俺は後々まで思い返すことになる。浮かれていたのだ、誰もが少しずつ。俺も含めてだ。数字は黒く締まり、穴は29余り、春の土のにおいがする。祝いを断られたことにすら、谷はどこか誇らしげだった。うちの代官様は固い、固いから冬が越せた、と。冬という敵しか、まだ誰も知らなかった。
塩売りが峠を越えてきたのはその3日後だ。
例年より早い。雪の締まっているうちの方が橇が走る、というのが口上だったが、荷を解く男の顔にいつもの商いの艶がなかった。広場の市はいつも通りに立ち、いつも通りに賑わって、店じまいのあと塩売りは館に上がってきた。彼女に呼ばれたのではない。自分から、売り物にならない話を持って来たのだ。
「妙な買い手が出ましてね、代官様」
囲炉裏の火を挟んで、塩売りは声を低くした。
「ボルツ男爵。峠の北の、隣領の殿様でさ。あすこの蔵方がこの月の頭から、街道筋の市という市で、麦を買い集めてる。それも相場の倍で。古麦も新麦も、構わず倍。売り手は祭りみてえに喜んでますがね……あっしはどうも、気味が悪い」
「倍で買った麦を、男爵は、どこに売っていますの」
「そこでさ」塩売りは膝を打った。「売らねえんですよ。どこにも。倍で買って、蔵に積んで、錠を下ろしたきりだ。商人なら、倍で買った荷は3倍の売り先があって初めて買うもんです。売り先のねえ買い占めなんてのは、あっしらの商いにゃ、ねえ手だ」
「種籾は」
問いは塩売りの話の腰を折って出た。あの人が人の話を遮るのを、俺は着任からこっち、一度も聞いたことがなかった。
「……へ?」
「麦と一緒に、種籾も買われていまして?」
塩売りは目をしばたたいて、それから、ゆっくり頷いた。むしろ種の方が念入りで、苗代用の早い種から先に消えている、と。彼女は立ち上がって、壁の釘から街道筋の地図を外し、机に広げた。ザルテン、峠の北の市場町、ボルツ領と街道の枝分かれ。地図の上を、ペンの尻が川を遡る魚みたいに走っていく。
「支払いは、何で」
「真新しい銀貨で、と聞きやした。打ち立ての、艶のあるやつだそうで」
ペンの尻が止まった。
俺には何が起きているのか、まだ半分も見えていなかった。麦が高く売れるなら、売る側の谷には良い話のはずだ。うちには夜なべの品があり、秋には返済をはさんでも麦が穫れる。だが部屋の温度は、塩売りの話が進むほど、囲炉裏があるのに下がっていった。倍で買って、売らない。種から先に消える。新しい銀貨。
「レンツ。ヴェンツェルを呼びなさい。今夜のうちに」
彼女は地図から顔を上げずに言った。声はいつもの帳面の声のまま。いつもの声だということが、なぜか、いちばん良くなかった。
「峠を越えますわ。市の立つのを待つのは、やめます」
「……買い付けに、ですか。まだ雪が」
「ええ、買い付けに。雪のあるうちに」彼女はペンを置いて、ようやくこちらを見た。「麦が市場から消える前に、ですわ。——もう始まっていますのよ、レンツ。これは商いではありません。誰かが、この街道筋の冬を、もう一度作ろうとしていますの」
ヴェンツェルは夜半前に上がってきた。
地図を挟んだやり取りは短かった。橇は2台、行きは空荷、ザルテンより先の北の市場町まで足を伸ばす。買うのは種籾を先に麦を後に。値は相場の1割増しまで即決、それより上は持ち帰り。元賊は段取りを呑み込むのが早く、ひとつだけ訊いた。倍出す買い手と競り合ったら、どうします。
「競りませんわ」と彼女は言った。「競りで勝てない時は、競りの外で買いますの。市に出る前の麦は、まだ百姓の納屋にありましてよ」
男はにやりとして、夜のうちに支度に下りていった。残された地図の上で、ボルツ領の名前のあたりに、ペンの先の小さな点がひとつ打たれているのに俺は気づいた。名前の帳面の、あの止まり方と同じ深さの点だ。冬をひとつ越えた谷の春が、静かに、別の季節に変わろうとしていた。




