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うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


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第24話「雪の中の行列」

寒波はハイラムの読みより半日早く来た。


まず雪が2日、息もつかせず降った。降り止んだ3日目の朝、空が嘘みたいに晴れた。晴れた分だけ冷えが底を抜く。井戸の釣瓶縄は芯まで凍って棒になり、軒下に吊るした塩漬けの樽が凍て割れ、詰所の戸の鉄の引手にうっかり素手で触れた傭兵が皮を持っていかれた。夜明けの見回りで、雪の上に小鳥が3羽、落ちて転がっているのを見た。凍えて、枝から落ちるのだ。そういう寒さが来た、ということだった。


触れは寒波の前の晩のうちに貼られていた。


配給の刻限を、朝から昼に繰り下げる。列は組ごとに四半刻ずつ刻限を分け、外で待つ時間を短くする。年寄りと病み上がり、乳飲み子持ちは、届けを出して配達に切り替えること。これは願いではなく、沙汰として。


触れはそれだけではない。夜番は四半刻ごとの刻み回しに変えられ、詰所の火は夜通し落とさない許しが出た。留め置きの家と産み月の家には、薪の割り増しが前倒しで運ばれる。橇の道の杭には赤い布が継ぎ足され、雪に埋まっても先が見えるようになった。寒波の名前も顔もまだ見えないうちに、谷の備えだけが先に並んでいく。ハイラムが触れの板を読みながら、配下にぼやいたそうだ。籠城戦の前の晩ってのは、どこもこういう匂いがするのよ——敵が冬だというだけで、やっていることは砦の戦支度と変わらなかった。


最後の一行で揉めた。


「冗談じゃねえぞ、騎士様」と、ヴィムは教会の火の番の場所から梃子でも動かない顔で言った。「わしの椀は、わしが取りに行く。ひと冬そうしてきた。いまさら寝床で椀を待つ年寄りに戻れってか」


「沙汰だ。あんたの名前は配達の紙に載ってる」


「ならその紙を破け。……騎士様よ、あんたは知らんだろうがな、列に立つってのは、椀の話じゃないんだ。列の中に居るってことなんだ。届けだの配達だの、ありゃ便利だがな、便利の分だけ、わしは世間から一歩ずつ下がる。下がりきった先がどこか、わしは知っとるんだ。椀の欠けが3つ並ぶまで、誰にも気づかれん場所よ」


言い分は筋が通っている。通っているだけに、俺の手には余って、結局そのまま彼女のところへ上げた。彼女はヴィムの言い分を最後まで聞き——例によって、聞き終えるまで一度も遮らなかった——それから、短く裁いた。


「並ぶ自由は、認めますわ。凍える自由は、認めません」


「……同じもんだろうが、この寒さじゃ」


「ですから、分けますの」彼女は紙を1枚引き寄せた。「ヴィム。明日から量り場の検め役をなさい。屋根の下で、火鉢の脇で、量りと帳面の突き合わせ。座り仕事の第1順ですわ。列の見える場所で、列の全部があなたの前を通る。——列の外ではなく、列の元締めの側ですわよ」


同じ沙汰を受けたゲルダ婆さんの方は、あっさりしたものだった。配達の紙が回ってきた日のうちに、自分の名前の脇へ判をもらいに来て、ついでに編み物の届けを2枚出していく。意地を張らないのかと、つい余計なことを訊いた俺に、婆さんは杖を突き直して答えた。あたしゃもう、列の中だって知ってるんだよ、騎士様。知ってる者は家で待てるのさ。知らされたことのない者ほど、並んで確かめたくなるもんでね——ヴィムの意地の出どころを、本人より先に言い当てる物言いだった。


年寄りは口を開けて、何か言い返そうとして、やめた。翌日から量り場の台の脇に、火鉢と、ヴィムの曲がった背中が据わった。椀を受け取る者は、量り役の柄杓と、ヴィムの検めの目の前を順に通る。世間から一歩下がるどころか、世間の方が全部、年寄りの前を通る寸法だ。怒鳴り込んだ手前、本人はむすりとした顔を作っていたが、量りの突き合わせを読み上げる声は火の番の時より張っていた。


いちばん冷えた朝の列を、俺は生きているうちは忘れないと思う。


晴れて、風のない朝だった。風がないのに、息を吸えば胸の奥に細い針が立つ。広場の雪は踏むと軋むのを通り越して、硬く高い音で鳴いた。その雪の上に列があった。


組ごとの刻限は守られ、外套の上に毛布を被り、誰の手にもほどき糸の指なしがある。婆さんたちの編んだ手袋は、もうとっくに30組を超えて谷を回っていた。順番が来るまで、誰も無駄に喋らない。喋れば喉が冷えることを、みんな体で知っている。湯気を立てる鍋の前で、量り役の柄杓が規則正しく上下し、椀を受けた者から黙って家路につく。睫毛に霜の花を咲かせた女房が、椀を外套の内側に抱いて、胸で温めながら歩いていった。


途中、ロルフの上の子が椀を抱えたまま雪の照り返しに目を細めて、母親の外套の陰に顔を埋めた。前の谷なら、この寒さは家族の誰かを連れていく寒さだったはずだ。いまは椀の湯気が頬に当たるだけの朝で、子どもはそれを、生まれつきの当たり前の顔で受け取っている。当たり前の顔ができるまでに何が積まれたかは、列の大人たちの背中が知っている。


声のない、長い列だった。


声がないのに、あれほど雄弁な列を、俺は見たことがない。この寒さだ。一日くらい列が乱れても誰も咎めはしない。家に籠って、貯めた欠片を齧って、椀を諦める者がいても不思議のない朝だ。誰も諦めなかった。来られない者はひとり残らず届けを出している。配給の終わりにパウルが帳面を締めて、読み上げた員数がそれを言った。


「本日、欠けなし」


欠けなし。配られた椀と届けの数を足すと、谷の頭数にちょうど揃う。誰も漏れず、誰も諦めず、誰も忘れられていない朝がこの冬いちばん寒い朝に成立していた。列はもう、ただ椀を待つ並びではないのだ。毎朝同じ刻限に谷が谷自身の頭数を検めて、全員いるな、と確かめ合う仕組みだ。いつの間にか、そういうものに育っていた。誰が言い出したのでもない。順番を決めた人がひとりいて、その順番が一度も狂わなかった。それだけの材料で、人の群れはここまでの物を編むらしい。


列の最後尾にはいつもの場所に、いつもの人が立っていた。彼女の睫毛にも霜は咲く。咲いたまま列が進む速さで進み、最後の椀を受け取って、立って飲んだ。それを誰ももう振り返って確かめもしない。確かめるまでもないことを、確かめる者はいない。


ヤーコプが下りてきたのはその翌日だ。


枝沢の継ぎ橇は大雪で2日止まっていた。麦はまだ小屋にあるはずだが、3日目を待たない男が山の上にいる。腰まである雪の斜面に、上から一筋、杖の穴と踏み跡が刻まれて下りてきていた。見ていた川下の連中が、最初は熊かと騒いだという。ゲルダ婆さんの小屋まで雪を分けて下りてきた男は婆さんの炉で湯だけ貰って、継ぎ橇の止まった詫びを言いに来た役の方が恐縮するのを手で払い、それから生まれて初めて配給の列の尻についた。


炭焼きの寡婦の兄。ひと冬のあいだ帳面の上の名前でしか知らなかった男が、その朝、生身の姿でそこにいた。


痩せた、背の高い男だった。歳は40の手前というところか。煤の染みた外套に炭の籠を背負ったまま、屋根のある場所には決して入らずに、雪の上で順番を待った。籠の炭は届け仕事の納め分だ。量り場の台にそれを降ろすとき、男は台の屋根の下に、足の先しか入れなかった。先の代官の取り立てが、屋根の下で行われたのだという。呼び込まれて、囲まれて、証文に判を押させられる。それ以来、役人と屋根の組み合わせを、体が受けつけない——後でゲルダ婆さんから聞いた話だ。


パウルが帳面を繰って、事務の声で言った。


「枝沢、2名分。炭の納め、検めました。今日の量りは2割減です」


それだけだった。誰も男を見物せず、誰も話しかけず、列は列のまま進んだ。山から下りない変わり者、と聞いていたはずの連中がだ。男は麦の袋を受け取って、空いた籠に納め、それから列の後ろの方を確かめるように一度だけ見た。


「……あれが、代官か」


呟きはたぶん俺にだけ聞こえた。最後尾の藍色の外套を顎で指して、男は信じない顔をしていた。列のけつに並ぶ役人なんぞ、いるものか。いるのだ、と答える代わりに俺は黙って頷いた。男は鼻から白い息をひとつ吐いて、それ以上は何も訊かず、山へ戻る雪道へ歩き出した。背負った麦は2名分。妹の分と自分の分だ。


夜半、館の戸が叩かれた。


マルコの女房が産気づいた。よりにもよって、冬がいちばん深く咬んでくる晩にだ。産婆はすでに雪をついて川向こうへ渡ったという。報せに来たマルコは、戸口で口をぱくぱくさせて、薪をとだけ言った。湯を絶やせない。産の家の薪は足りるはずが——彼女は帳面を開きもしなかった。


「産み月の届けは、先々月に出ていますわ。届けの出た家の産の薪は、割り当ての紙の3列目。蔵の脇に、ひと山、縄を掛けて取ってあります」


最初から、あったのだ。産婆の見立ての紙が出た日から、誰も触れない薪の山が蔵の脇にひと冬、雪を被って待っていた。マルコは礼の言葉も忘れて橇を曳いていき、俺は護衛がてら、その尻を押した。


マルコの家の前で、俺は朝まで立ち番をした。頼まれてはいない。ただ、湯を沸かし続ける家の窓の灯と雪の軋む音と時折漏れる長い呻きの下で、立っている以外にできることがなかった。途中で一度、見回りの彼女が通りかかる。家の灯を見上げて、薪の橇の跡を目で辿って、足りているのを確かめるとそのまま行った。掛ける声も覗く顔もない。あの人の見舞いは、いつも、勘定が合っているかどうかの一瞥だけだ。


産声を聞いたのは明け方だった。


凍てた谷の、物音という物音が死んだ静けさの底で、その声だけが生まれたてのまま響いた。細くて、すぐ途切れて、それからむきになったように太く続いた。男の子だという。井戸端の氷を割りに出ていた女房連中が、声の方角に頭を巡らせて、誰からともなく笑った。鐘も触れもないのに、昼までには谷じゅうが知っていた。いちばん寒い夜を選んで生まれてきた、屋根葺きの倅の話を。グンナルは鍛冶場の戻りに小さな鉄の匙を打って、祝いだと言って戸口に置いていったらしい。匙はテオの領分だと冷やかされて、鉄のは歯が生えてからのだ、と大真面目に返したという。


帳面の生者の頁に、名前がひとつ書き足される。今度のペンは止まらずに走ったはずだ。


それを確かめに行く用事を、俺はわざわざ作らなかった。代わりに執務室に呼ばれた。机の上には帳面が、見たこともない数、積んである。蔵の出納に配給の量り、届けの綴り、貸借の証文と名前の帳面。ひと冬分の紙の山の前で、彼女はペンを構えていた。


「峠の雪が締まれば、市の季節ですわ」と、彼女は言った。「その前に、勘定を締めます。——数えますわよ、レンツ。この冬を、全部」

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