第23話「司祭は、まだ祈っている」
「お断りしますわ」
帳面をひと晩、という司祭の願いへの返事は、墓地の雪の上で即座に出た。あの帳面は毎日使う道具で、道具は夜も手元に置く——断りの理由までいつもの調子だ。司祭が眉ひとつ動かさなかったところを見ると、断られるのは織り込み済みだったらしい。彼女は続けた。
「代わりに、写しをお作りします。死者の頁を、全部。私の手で」
「……写し、とな」
「お入り用なのは、名前でしょう。春の名読みの」
今度は司祭の眉が動いた。俺も後で知ったのだが、春の名読みというのは、この谷の古い慣わしだ。冬のあいだに死んだ者の名を、雪解けの最初の礼拝でまとめて読み上げ、改めて祈る。冬の埋葬は仮の務めで、本式の悼みは春に行う。理由は信心よりも先に土だ。凍てた地面は墓を受け取らない。だから冬は埋めるだけ埋めて、悼む方は、土の解ける季節まで取っておく。
「悼むのは、冬が明けてから——」司祭は、自分の谷の慣わしを、初めて聞く文句みたいにゆっくり言った。「この谷の年寄りなら誰でも知っとる理屈ですわい。だがあなたは峠の向こうの、それも王都のお人だ。……どこでそれを、覚えなさった」
彼女は答えない。答えの代わりに、写しは3晩で仕上げますとだけ言って、雪道を館の方へ戻っていった。残された司祭は長いこと、その背中の消えた道を見ていた。
写しの仕事は宣言どおり夜なべで行われた。
俺は2晩目の途中を見ている。執務の終わった机に名前の帳面と新しい綴じ紙を並べて、彼女は一人ずつ写していった。速く写せば1晩で終わる嵩だ。終わらないのは写しでも、ペンが同じ場所で止まるからだった。名前の尻で一度ずつ。写し先の紙にも小さな滲みが、ひとつずつ増えていく。あれは癖などではない。誰に見せる紙の上でも変わらない、あの人の名前の書き方なのだ。
写しの待たれている側にも寄ってみた。
教会の祭具室で、司祭は過去帳を広げていた。革の表紙の、角の擦り切れた古い帳面だ。代々の司祭が洗礼と婚姻と埋葬を書き継いできたという。繰られた頁を覗いて、俺は黙った。三年前から、字が乱れ始めている。ふた冬前の冬の頁は、名前が5つばかり並んだところで、インクが途切れていた。
「書けなんだ」と、司祭は訊く前に言った。「弔いが続きすぎてな。鐘を鳴らして、土を掛けて、次の弔いに走る。夜になると手が、ペンより先に眠りよった。……春になって書き足そうとしたら、もう、順番が思い出せなんだ。誰が先で、誰が後か。同じ月に逝った者の、どっちの葬式で雪が降っていたか」
老人は途切れた頁を、撫でるでもなく、ただ手を置いた。
「47人。あのお方は、着任の週にそれを数え直された。わしが祈りながら取り落とした名前を、祈りもせん人が、一人も落とさず拾い直した。……騎士殿。わしが帳面を借りたいのはな、祈りのためばかりではない。この過去帳の欠けを、あれで埋めたいのですわい。教会の帳面が、代官の帳面に借りを作る。沽券に関わる話じゃが——沽券と名前なら、名前の方が重い」
3晩目に騒ぎが起きた。写しの話がどこからか漏れて、春の名読みに賊の名前が混ざるらしい、という形で谷を回ったのだ。
教会に乗り込んだのは、川向こうの寡婦だった。秋の賊の襲りで亭主を亡くした女だ。寡婦は祭壇の前で司祭に詰め寄った。声は教会の石壁に当たって割れた。
「読むのかい、司祭様。うちの人を殺した男の名前を。うちの人の名前と、同じ朝に、同じ口で」
居合わせたのは間の悪い偶然で、彼女は写しの確かめに来ていた。寡婦は振り返って、矛先を変えた。あんたの帳面だろう。あんたが殺した賊まで帳面に載せるから、こんなことになる。消しとくれ。せめてあの名前だけ、紙から消しとくれ——。
「消しませんわ」
返事は考える間も置かずに来た。寡婦が息を呑むのと、司祭が手を上げかけるのが同時で、彼女の声だけがいつもの帳面の高さのまま続いた。
「名前を消しても、あなたの夫を殺した男が、居なかったことにはなりませんの。居たから、殺しました。殺したから、数えましたわ。……数えてあるということは、忘れないということです。私の帳面は、あなたの夫の名前と同じ頁の続きで、あの男のしたことを覚えていますの。消してしまえば、覚えておく場所が、なくなりますわ」
「あ、あたしは、覚えてなんかいたくないんだ……!」
「ええ。あなたは忘れてよろしいの」彼女は頷いた。「忘れる仕事は遺された者の、覚えておく仕事は帳面の。手分けですわ」
寡婦は泣き出して、泣きながら、もう消せとは言わなかった。教会の冷えた石の床に、嗚咽だけがしばらく続く。香草の燃え残りのにおいが、まだ祭壇の方から薄く流れていた。あの泣き方は得心の泣き方ではない。得心など、できるはずもない。忘れる仕事と覚えておく仕事の手分け、という言い方が、悲しみの置き場をひとつだけ作った。置き場があるのとないのとでは泣き方が変わる。その違いの大きさは、あの石の床に立ち会った者にしか分からないだろう。
落とし所をつけたのは司祭だ。老人は寡婦の肩に手を置いて、実務の声で言った。名読みはふた回りに分けよう。あんたの人たちの名は、日のあるうちに鐘を鳴らして。あの者どもの名は、日が落ちてから、わし一人の声で。神は両方お聞きになるが、あんたは、昼の分だけ聞けばよい。——寡婦は何度も頷いて、帰っていった。神学なのか段取りなのか分からない裁きだったが、この谷では、たぶんそれがいちばん正しい形だった。
炭売りの婆さまの熱が重くなったのはその週だ。
留め置きの家から産婆が戻って、首を横に振りかけの見立てを置いていった。峠は今夜か明日。年寄りの熱は夜中に坂を転がる。報せを聞いた司祭は、塗油の壺を取りに祭具室へ立った。終油——死の床の者に、教会が最後にしてやれる務めだ。
館から下りてきた彼女が、教会の戸口でそれを止めた。
「お待ちなさい。あの家は、まだ留め置き中ですわ」
「死にかけておる者の枕元の話ですぞ、代官殿」司祭の声に、初めて棘が立った。「魂の看取りまで、あなたは配給なさるおつもりか」
「ええ」と、彼女は言った。言い切ってから、続けた。「あなたは、この谷に1人しかいない職ですの。字の教室も、春の名読みも、次の弔いも、全部あなたの肺で回っていますわ。その肺を、熱の盛りの病間にただでは入れられません。——入り方を、決めます」
「入り方、とな」
「ええ。入るな、とは申しませんわ。死にかけている者から司祭を取り上げる権利は、私の帳面のどこにもありませんの。私が決められるのは、あなたが入って、出て、生きて教室に立つまでの手順だけ」
決められた手順は、紙に書けば3行だった。口と鼻を酢で湿した布で覆う。病人に触れるのは塗油の指1本、終わればその場で焼いた灰汁で洗う。出たら着替えて、3日は教室を休む。司祭は3行を二度読んで、それから皮肉とも感心ともつかない息を吐いた。
「……祈りの作法を、代官に決められる日が来ようとはな」
「祈りの中身は、決めておりませんわ」
司祭は布で顔を覆って、病間に入った。終油は終油として行われ、そして婆さまは、その晩死ななかった。明け方に熱が下がり始め、3日後には粥の椀を自分で持ったという。産婆は首を捻り、司祭は塗油が効いたと言い、彼女は何も言わずに留め置きの日数を引き直した。誰の手柄でもいい。婆さまは生きていて、司祭の肺も無事で、教室は3日休んだだけで再開した。あの3行の紙の値打ちは、例によって、何も起きなかったという形でしか残らない。
写しが渡されたのはその数日後だ。
夕の祈りの後の教会で、司祭は綴じ紙を受け取って、その場で頁を繰った。最初はゆっくり、それから、あるところで手が止まった。賊の頁だ。老人は名前の列を指でなぞって、しばらく黙って、それから顔を上げた。
「同じ字だ」
「同じ手で書きましたもの」
「字の話ではござらん」司祭は綴じ紙を、聖書の隣に置いた。「丁寧さの話ですわい。あなたは、敵の名前を、領民の名前と同じ丁寧さで写しておられる。……代官殿。わしは長いこと、あなたのあの帳面を、神を恐れぬ女の道具だと思うてきた。今は、こう思うておる」
蝋燭が4本、祭壇で揺れていた。字の教室のために増やされた、あの4本だ。
「あなたの帳面は、祈りに似ておりますな」
「祈りではありませんわ。勘定です」
即答だった。司祭は怒らない。むしろ、その即答を待っていたような顔で、ゆっくり首を振った。
「分かっとります。あなたは祈らん。わしは数えん。……いや、それも、もう嘘か」老人は綴じ紙の上に、節くれた手を置いた。「近頃のわしは、朝の祈りの前に、広場の板を見に行きますのじゃ。蔵の残りと、留め置きの家の数と、椀の量りを頭に入れてから、祭壇に立つ。祈りの文句は40年変わっとらんのに、祈っとる中身に、数字が混ざるようになり申した。……数字の入った祈りを神が受け取られるものか、わしには分からん。分からんが——」
司祭は綴じ紙をそっと叩いた。
「受け取られる気がしてならんのが、近頃のわしの、いちばんの悩みでしてな」
彼女は何も答えず、一礼だけして教会を出た。あれは彼女なりの最大の礼だったと思う。論で勝てる場面で、論を置いて帰ったのだから。雪道を並んで戻りながら、俺は思っていた。司祭は陥ちたのではない。あの人は明日も祈り、彼女は明日も数える。ふたつの務めは最後まで交わらないだろう。交わらないまま、同じ谷の同じ名前を二重に書きつけて守っている。片方は帳面に、片方は祈りに。橋のない両岸というのは、存外、橋のある岸より頑丈なのかもしれなかった。
教会を出ると、空の色が変わっていた。
北の稜線の上に、鈍い鉛色の雲が、壁のように立っている。風はまだ無い。無いのがかえって嫌な静けさだった。鵞鳥どもまで、館の裏で妙に固まって、首を羽に突っ込んでいる。彼女は空をひと目見て、歩く速さを変えずに、口の中で何かを数え始めた。薪、と聞こえる。それから、橇の組と留め置きの家と川下の年寄り——明日の朝の触れの下書きが、もう始まっているのだった。
詰所の前で、ハイラムが同じ空を睨んでいた。
「お頭にも言っといてくれ、騎士様」古傭兵は煙草を仕舞いながら言った。「こいつは来るぜ。南風の借りを、冬がまとめて取り立てに来る空だ」
取り立てという言葉の選び方が、いかにもこの谷に馴染んだ男のそれで、笑う場面でもないのに少しだけ笑った。冬が債権者なら、貼り紙と量りで応じるまでだ。応じられる谷に、ここはもうなっている——なっているはずだった。




