第22話「インクの滲み」
明け方の教会は鐘の余韻と蝋燭2本きりだった。
鐘綱の下にヴィムがいて、俺の角灯を見ると、綱を握ったまま顎で川下を指した。報せはついさっき、椀を運ぶ隣の男が雪道を走って届けたという。年寄りの口は重く、それでも要点は3つで足りた。誰が。いつ。どんなふうに。それを聞き終えるより先に、俺の足の指から、夜回りの冷えとは別の冷たさが上がってきた。ひと冬、鳴らずに済んでいた鐘だった。
死んだのは川下のアルマ婆さまだった。
咳の長引いていた、あの寝たきりの婆さまだ。咳の峠は越えていて、粥も前の晩まで食べていた。朝、隣の男が椀を持っていくと、床の中で息が終わっていたという。齢80。産婆の見立ては病み上がりの体が、眠りの中で静かに店じまいをした、というものだった。
報せを聞いたゲルダ婆さんが、弔いの席で言った言葉を俺は覚えている。あたしらの古い言葉でね、こういうのは、勘定の済んだ死に方と言うんだよ。椀は薄められちゃいない。床は温かった。粥を食って、咳を治して、それから寿命が来た。——飢えの冬の死に方と見てくれは似てるがね、騎士様、あれとこれとは帳面が違う。
帳面が違う。その言い回しの正しさを、俺はその晩、別の場所で思い知ることになる。
弔いの支度で、最初に問題になったのは穴だった。
地面は凍て切っていて、鶴嘴を立てても飛沫みたいな氷の欠片が散るだけだ。新しく掘るなら男手で2日かかる。ブレヒトが言いにくそうに切り出す前に、彼女の方から沙汰が出た。墓地の穴を使いなさい、と。秋に掘らせた、あの30の長方形の列。雪を被ったまま、ひと冬誰も入らずに済んだ空の穴。そのいちばん手前がひとつ、雪をどけられて口を開けた。
飢えに備えて掘った穴に、飢えではない死人が最初に入る。縁起の悪さを口にする者はいなかった。むしろ逆だ。墓掘りに出た男たちが、雪をどけながら妙にさばさばした顔をしていた、と聞いた。あの穴の列は掘った日から谷の喉に刺さった棘だった。最初のひとつが飢えではなく寿命で埋まる。棘の刺さり方がそれで少し変わったのだ。
ふたつ目の問題は振る舞いだった。
通夜には粥を炊いて人寄せをするのが、この谷の古い慣わしだという。ブレヒトが蔵から特配を、と願い出て、彼女は断った。
「蔵は開けません。量りは2割減のまま、弔いの日も変わりませんわ」
「し、しかし代官様、アルマ婆さまは谷の最年長で……人ひとり送るのに、白湯だけというわけには」
「蔵の麦は、生きている者の冬を測って積んでありますの。死者の席をそこから引けば、春に誰かの椀が欠けますわ」彼女はそこで、帳面を閉じた。「悼みたい者は、悼みなさい。各々の椀から」
各々の椀から。その言い方が触れの板に貼られると、谷は谷なりの読み方をした。通夜の晩、教会の隅の祭壇の前に欠け碗がひとつ置かれて、通りかかった者が自分の椀から粥をひと匙ずつそこへ移していった。誰の指図でもない。最初に移したのはゲルダ婆さんだったらしい。次が椀を運んでいた隣の男でそれからは列だ。グンナルの匙はひと匙でも嵩が違い、リナはフリッツの手を取って、ふたりでひと匙を半分ずつ移した。テオは碗の前で何か言いかけて、結局何も言わずに匙だけ動かす。ひと匙は誰の腹も減らさず、集まった一杯は婆さまの枕元に供えられた。
配給の量りを毎朝検めている谷が、量りの外で、自分の分をひと匙ずつ削る。仕組みの中で覚えた順番を、仕組みの外で初めて自分たちの方から使った晩だった。彼女もその碗の前を通る。立ち止まりはせず、自分の椀の粥をひと匙、他の誰とも同じ嵩だけ移して行った。蔵を開けろと願った村長は、その手元を黙って見ていて、後で俺にだけこぼした。蔵は開けない、椀は開ける、てえことですか。難しいお人だ——難しいのではない、と思う。蔵の麦は谷の数で椀の粥は自分の分。あの人の線引きは、いつも、そこのところだけ呆れるほど単純なのだ。
名前が書かれるのを見たのはその晩の執務室だ。
月次の報告が近くて、俺は写しの許しをもらいに上がっていた。彼女は机の上に、見慣れない帳面を開いていた。蔵の出納でも配給の量りでもない。着任の日からあの人が自分の手でしかつけない、名前の帳面だ。
ペンが止まっているのを見た。
書き終えて止まっているのではない。アルマと名前を書き、齢と日付を書き、死因の欄に寿命と書いた。その最後の一文字の上で、ペン先が紙に触れたまま、動かずにいる。蝋燭がひとつ揺れるあいだ。ふた揺れ。インクがペン先から紙に下りて、文字の終わりに、小さな黒い溜まりを作っていく。それから彼女は何事もなかったようにペンを上げ、吸い取りの砂を振って、頁を閉じた。
「写しは、蔵と配給の2冊からなさい」と、こちらを見ずに言った。「その帳面の写しは、要りませんわ。王都は、死者の名前を読みませんの」
写しの仕事は翌日の昼に持ち越された。
執務室には俺ひとりだった。彼女は葬儀の段取りで教会へ下りていて、机の上には帳面が3冊、紐で括られて置いてある。蔵の出納と、配給の量りと——いちばん下に、名前の帳面がそのまま重ねてあった。
写すべき2冊を写し終えたとき、俺の手は、3冊目の紐を解いていた。盗み見だ。言い訳の仕様はない。護衛が主君の帳面を検める法はどこにもなく、それでも指は頁を繰っていた。あの黒い溜まりが、一晩じゅう、目の裏に残っていたからだ。
帳面は名前で始まって名前で終わっていた。
最初の頁は着任の週の47人。教会の過去帳と聞き書きで集めた、秋に死んだ者たちの名前だ。次の頁には街道の行き倒れが3人。名前の知れない者は、人相と持ち物が名前の代わりに書いてある。継ぎの当たった外套、欠けた数珠、左の靴だけ新しい。名前のない者の欄が、名前のある者の欄より長い。誰だか分からないことを、分からないままにしないための長さだった。
そして、賊の頁があった。
処刑された者たち。楡の木の、あの縄の朝の名前だ。ヴェンツェルの口書きで名前の割れた者が並び、割れなかった者は、ここでも人相が名前の代わりをしている。敵の名前も領民の名前と同じ手で、同じ並びで書かれていた。殺した側が殺した相手を書き留める帳面というものを俺は他に知らない。騎士団の戦果の記録なら知っているが、あれは数えるのが手柄で、これは——何だろう。手柄の数え方ではない。
頁の組み立ても見れば見るほど、出納の帳面と同じ作りだった。月ごとの小計があり、年の繰り越しの欄があり、誤りを直した箇所には二重線と訂正の判。ひとつだけ、出納と違うところがある。書き損じがないことだ。蔵の帳面には走り書きの数字を後から直した跡がいくつもある。この帳面にはひとつもない。一字も急いでいない。インクも違う。配給の触れは薄墨で書く人が、この帳面にだけは、いちばん濃くいちばん高くつくインクを使っていた。蝋燭の割り当てまで紙に縛る人の、それが唯一の贅沢らしかった。
気づいたのは頁を半分も繰ったころだ。
どの名前にも終わりに小さな滲みがある。
大きさはまちまちで、ほとんど分からないものもある。だがある。生者の帳面にはないものだ。蔵の出納の数字は、走る筆で書かれて、インクの溜まりなどひとつもない。この帳面だけ、全部の名前の尻で、ペンが一度ずつ止まっている。アルマ婆さまの名前で見た、あの止まり方で。47人なら47回。賊の頁でも行き倒れの頁でも同じだった。
一枚だけ、紙の波打った頁があった。
秋の47人の、終わりの方の頁だ。インクの滲みとは別に、紙そのものが小さく円く、一度濡れて乾いた形に歪んでいる。蝋の雫が落ちたのかもしれない。屋根の雪解けが一滴、梁から落ちたのかもしれない。それ以外の何かかもしれない。確かめる術はない。歪みの真上にある名前は6つだった。同じ家の、同じ綴りの姓が6つ。
俺は紐を結び直して、帳面を元の順に重ねた。
手が写しを終えたばかりの自分の紙より、冷えていた。あの人の感情を俺は知らない。着任からこっち、笑うのも泣くのも怒るのも、一度も見たことがない。声は帳面を読む高さから動かず、顔は検めの顔から変わらない。それは今も変わらない。俺が知ったのはひとつだけだ。あの人のペンは生きている者の数字の上は走り、死んだ者の名前の上でだけ、止まる。一人につき、一度ずつ。誰も見ていない帳面の中で、誰に見せるためでもなく。
感情というものを、もし帳面のつけ方で書くなら、それで全部なのかもしれなかった。
彼女が戻ったのは、写しを清書し終えたころだ。
机の上の3冊に、彼女は一度だけ目をやった。いちばん下の帳面の、括り紐のあたりに。結び方が違ったのだと思う。あの人の紐は十字に掛けて縦に結ぶ。俺のは騎士団仕込みの横結びで、直しようもなく癖が出る。雪を払う手が半拍だけ止まった。それだけだった。咎めも問いもない。彼女は外套を掛けて、机に着いて、写しの検めを始めた。
「……死者の名前は、写しておりません」と、俺は言った。言わずに済ませる度胸が、なかった。
「ええ」彼女は写しの数字を目で追ったまま、頷いた。「言いましたもの。王都は読みません、と」
それきりだった。読まない王都と、読んだ俺と書いた本人。三者の間の勘定がどうついたのか、ついていないのか、あの人の顔からはいつも通り何も読めない。ただ、検めを終えた写しを返して寄越すとき、彼女は付け足した。横結びは解けやすうございますわ、荷紐には縦をお使いなさい——帳面の話はしないまま。紐の話だけが釘の代わりに打たれた。
葬儀は午後の引き上げ刻限に行われた。
ヨーゼフ司祭の祈りは古い式文のままで、雪の墓地に、香草を焚く細い煙が立った。煙は風のない空をまっすぐ上って、楡の梢の高さで薄れて消えた。会葬は思いのほか多い。アルマ婆さまをこの半年生かしたのは、椀を運んだ隣の男と産婆の貝殻の膏と配給の順番だと、川下の連中はみんな知っている。隣の男は空にした台の上の欠けた椀を、形見にもらっていいかと遺された縁者に訊いて、断られもしないのに何度も頭を下げていた。半年、毎朝同じ台で取り替え続けた椀だ。ああいう形見の選び方をする男がいる谷なら、まだ当分、大丈夫なのだろう。彼女は葬列のいちばん後ろにいた。配給の列と同じ場所だ。土が落とされるあいだ、頭ひとつ下げず目も逸らさず、最後まで立っていた。
引き上げる人垣の中で、司祭がひとり、彼女の前で足を止めた。
「代官殿。お願いがござる」
老人の声は葬儀の続きみたいに静かだった。
「あなたの、名前の帳面を——ひと晩、わしに貸していただきたい」




