第21話「灯のともる音」
灯のともる窓はその晩、17あった。
数えるつもりはなかったのだ。手毬唄の節が頭に居着いてからこっち、夜回りの俺の目は勝手に数を拾う。秋の終わりの夜回りなら、この数はゼロだった。日が落ちれば谷は底まで暗くなる。暗いのは油がないからで、油がないのは、灯して起きている用事が誰にもなかったからだ。飢えた村の夜は早い。早いというより、夜しかない。
いまは窓の灯に、ひとつずつ音がついている。
機織りのエルゼの家の前を通ると、とん、からりと杼の通る音がする。ふた冬黙っていた機だ。経糸は古着のほどき糸で、織り上がるのは粗い混ぜ織りだ。峠向こうでは反物なら何でも値がつくと、塩売りが置いていった話が糸口になった。隣の納屋ではヴィムの組の年寄りが3人、囲炉裏を囲んで縄を綯っている。掌で藁を揉む、乾いた稲擦れの音。テオの小屋からは、こつ、こつと木匙の柄を削る音。教会の方からは字の教室の帰りに覚えたての綴りを唱える女房連中の声が、雪道の上を切れ切れに渡ってくる。
編み物の組の灯は、ゲルダ婆さんの口利きで増えた川下の婆さんたちの分だ。5人が一軒に寄って編むのは、灯と薪をひと所で済ませる婆さんたちなりの倹約でついでに口も動く。戸の外まで漏れてくる笑い声に、編み棒の触れ合う細かい音が混ざる。あの規則正しい小さな音を、俺はもう、ひと冬分は聞いて育った気がする。
マルコの家の窓も、近頃は遅くまで明るい。亭主が雪下ろしで稼いだ薪の灯で、身重の女房が産着を縫っている。腹はもう、外套の前が合わないほどになった。産婆が通いの行き帰りに寄るので、あの家の戸口の雪だけ、踏み跡が三筋に増えている。針を持つ女房の影が窓布に動くのを見上げた。ああ、春より先に増える名前がひとつあるのだ、と思い出した。帳面の生者の側に、書き足される名前が。
立ち止まって聞いていると、谷がひとつの仕事場みたいだった。誰も俺に気づかない。気づかれない夜回りというのは、つまり平穏ということで、騎士の手柄にはならない代わりに悪い気はしない。
もっとも灯が増えれば、揉め事も増える。
最初に来たのは薪の勘定だった。夜なべの家は囲炉裏を遅くまで焚く。焚けば、割り当ての薪が月の半ばで尽きる。尽きた家が隣に借り、貸した隣が足りなくなり、薪棚の境で女房同士の言い合いになった。持ち込まれた彼女の整理は、例によって紙が1枚だ。
夜なべは届け出ること。届けた家には仕事の中身に応じて薪と松根の割り増し。割り増しの代は出来た品が銭になった時に1割で返す。届けのない夜更かしに割り増しはなし。
「灯は、娯楽ではありませんの」と、触れの読み上げで彼女は言った。「織る灯、綯う灯、削る灯は、鍬と同じ道具です。道具には領が出資しますわ。——転寝の灯は、各自の薪でなさいませ」
縄綯いの年寄りが、夜の道具に領主が銭を出すという理屈に首を捻り、捻ったまま届けを出した。理屈はどうあれ、薪が増えるなら綯う手も増える。届けの紙は7日で23枚になって、パウルの綴じ紐がまたひとつ太くなった。
詰所の前で、夜番のヴェンツェルと立ち話になった。元賊は壁にもたれて、谷の灯を顎で指した。
「いい眺めだろ、騎士様。あれな、賊の目で見ると、もっといい眺めだぜ」
「……どういう意味だ」
「狙うならどっちの村だ、って話よ。日が落ちて真っ暗な村か、夜中まで灯と音のある村か」男は自分の問いに自分で答えた。「暗い村だ。暗い村は、弱ってて、寝てて、叫んでも誰も起きねえ。灯のある村は人が起きてる。起きてる人間の数だけ、目と耳がある。……俺たちが秋にこの谷を狙ったのはな、峠から見て、いちばん暗かったからだ」
聞き捨てならない打ち明け話を、男は天気の話の調子でした。つまりあの17の窓は、機と匙と縄の灯であると同時に、谷の外へ向けた見張りの灯でもあるのだ。彼女が夜なべに薪を出資する勘定の中に、その分も入っているのかどうか。入っているのだろう、と訊く前から思った。あの人の紙にはいつも、書いてある理由の後ろに書いていない理由が二枚ばかり重なっている。
枝沢の灯を見つけたのはその頃だ。
川下の見回りの戻り、尾根の切れ目から山手を見上げると、黒い山肌の途中に針の先ほどの赤がひとつ灯っていた。炭焼きの兄妹の竈だ。ゲルダ婆さんの小屋を継ぎ場にして、麦と炭が行き交うようになって、ふた月になる。竈に火が入っているということは、焼くものと焼く力と焼いた先の売り口が、あの兄妹の側にできたということだ。山の上の灯は里には一度も下りてこないが、下りてこないまま、勘定の中にはいる。あの距離の付き合い方も、この谷の流儀になりつつあった。
テオの咳に気づいたのは彼女が先だった。
夜なべの検めは彼女が自分で回る。届けの中身と灯の使い方が合っているかを見る、と言えば聞こえは固いが、回り方は商人の仕入れ見物に近い。エルゼの機の前では織り上がりの目を窓明かりに透かし、ヴィムの納屋では縄の縒りを指でなぞり、出来た品の数を帳面の隅に書き留めていく。春の市で何がどれだけ銭になるか、あの人の頭の中ではもう、売り台の上に品物が並び始めているのだ。
その検めの晩、削りかけの匙の山の向こうで、テオが拳を口に当てた。本人は木屑のせいだと笑ったらしい。翌朝、触れ書きの隅にひと組だけ名指しの沙汰が載った。テオ、夜なべ差し止め14日。日のあるうちの仕事は構わない。夜は寝ること。
テオは板の前から館へ怒鳴り込んできた。せっかく匙が銭になり始めたんだ、春の市までにひと箱こしらえる算段が狂う、咳なんぞ木屑のいたずらだ。——彼女は帳面から顔を上げて、怒鳴り込んできた男の言い分を最後まで聞いてから、短く返した。
「あなたの咳は、夜のたびに半音ずつ低くなっていますわ。胸に落ちる前の音です」
「……音で分かるってのか、そんなもん」
「夜回りは、灯と音を数える仕事ですの」彼女はペンを置かなかった。「テオ。匙はあなたが14日寝ても箱になります。あなたが胸をやられて寝つけば、箱にならずに、薪と粥を食む側がひとり増えるだけ。——倒れた削り手は、匙を1本も削りませんわ」
産婆の見立ては胸の風邪の入り口、だった。あと10日も夜の冷えに当たれば落ちていた、と。テオは不満を顔に貼りつけたまま14日寝て、15日目の晩から、こつこつという音が小屋に戻った。音は前より少しゆっくりで、咳は混ざらなくなっていた。後で聞けば、差し止めの14日分、薪の割り増しは止められていなかったという。仕事をしていない者に出る割り増しではないはずだ、と帳面好きのパウルが首を捻ったら、彼女の返事はこうだったらしい。あれは灯の出資ではなく、囲炉裏の出資ですわ。冷えた小屋で胸は治りませんの——理屈の立て付けだけは、どこまでも崩さない人だった。
夜なべの品は館の蔵のいちばん乾いた隅に集まっていく。反物が4反、縄の束が腰の高さまで、匙と椀の箱に編み物の籠。検めのたびに俺も荷運びを手伝わされるので、あの隅の育ち方は体で知っている。木屑と藁と毛糸の混ざった、貧乏くさいような頼もしいような、妙なにおいの隅だ。麦の蔵は減っていく一方で勘定するものだが、あの隅だけは増える一方で勘定できる。春に峠が開いたら、あれが種麦と端境の麦に化ける。谷じゅうの夜なべの灯が、ひと冬かけて、来年の椀を編んでいる勘定だった。
煙道の触れも同じ週に出た。
夜なべで火を長く使う家は、月に一度、煙道の煤を検めること。ふた冬使わなかった煙道に急に火を通すと煤が焼ける。屋根の雪が薄くなる春先がいちばん危ない、と触れの文句は素っ気ない。グンナルが鉄の煤搔き棒を6本打って、組ごとの回し道具になった。火事はこの冬、一度も出ていない。出ていないという手柄は、例によって、誰の目にも見えない場所に積んである。
寄せ合いの晩、賄い場の隅で、ヴィムが縄の最後のひと結いを締めながら言った。
「騎士様よ。わしらの里じゃ昔から、夜の音で村の腹具合が知れる、と言ったもんだ。腹の減った村はな、夜が静かなんじゃない。夜が、無いんだ。日が落ちたら、皆ただ目をつぶって朝を待つ。……いまのこの谷はどうだ。機だの匙だの、縄だの綴りだの。やかましいったらありゃせんわ」
「文句に聞こえないな」
「文句なもんかね」年寄りは結い目を膝で締めた。「夜眠れるってのが流行り言葉だがな、わしに言わせりゃ、その先よ。夜に起きていられる。眠るのは命の都合で、起きてるのは——明日の都合だ。明日の都合で夜更かしできる村まで、よくも戻ったもんだと思ってな」
蔵の検めの帰りの彼女と、夜回りの途中で行き合ったのはその晩だ。
雪の止んだ、よく冷えた夜だった。彼女は蔵の角で足を止めて、谷の方を見ていた。古毛糸の指なしの手が、外套の前で組まれている。視線の先には点々と窓の灯。何を数えているのか、もう察しはついたが俺は一応訊いた。
「灯を、数えていますの」と彼女は言った。「正しくは、消え方を」
「……消え方」
「仕事じまいの灯は、夜半にひとつずつ消えますわ。それは構いません。見るのは、夕方から一度もつかない窓。薪が切れたか、油が切れたか、起きている気力が切れたか——どれが切れても、帳面の仕事ですの」彼女は灯の点をなぞるように、ゆっくり首を巡らせた。「今夜は、つくべき窓が全部ついていますわ」
温かい眺めを、この人はどこまでも道具として見る。道具として見られた灯の下で人は機を織り、匙を削り、明日の都合で夜更かしをしている。どちらが欠けても、この眺めにはならないのだろう。俺は隣に立って、同じ灯を、たぶん違う数え方で数えた。17の窓と、山肌の針の先の赤がひとつ。
「いい音ですわね」
帰り際、彼女がぽつりと言った。どの音のことか、訊き返す前に、もう歩き出していた。杼の音か、縄の音か、削りの音か。あるいは全部まとめてか。あの人が勘定の外の言葉を漏らすのは珍しい。俺はその夜の報告の手控えに、灯17、と書いた。その横へいい音、と書き足したものの、我ながら報告にならないなと思って消した。消したが覚えてはいる。
明け方近く、谷の音がひとつ増えた。
教会の鐘だった。ゆっくりと、間を置いて、低く。配給の刻限の鳴らし方ではない。ひと冬、一度も聞かなかった数え方で鐘は鳴っていた。
弔いの鐘だ。
谷の灯はもうほとんど落ちている。鐘の音だけが灯の消えた窓の上を渡っていく。夜回りの角灯を提げたまま、俺は教会への雪道を上った。灯のともる音の話を書き溜めた手控えの、次の頁が白いままなのを、妙にはっきりと意識しながら。




