第8羽「浮遊島の刻印(後編)」
その日の夕暮れ、フィーネとミッツーは宿の窓辺に並んで座っていた。
雲海の向こうに、赤く染まる空が広がっている。
テーブルの上には、城跡で写し取った紋章の図。
うさぎの耳のような二本の線と、人参にも見える意匠。
そして、その下に刻まれていた文字。
――ラビッシュ。
フィーネは、羊皮紙をそっと指でなぞった。
「本当に、あったんだね」
「ああ」
ミッツーは短くうなずく。
十年間探し続けた名前。
夢でも幻でもなかった。
フィーネの家族につながるかもしれない、初めての確かな手がかり。
喜ばしいことのはずだった。
なのに、胸の奥には説明のつかないざわめきがあった。
「父さん」
「ん?」
「もし、本当に家族が見つかったら……」
言葉がそこで途切れる。
フィーネは視線を落とし、耳を少し伏せた。
ミッツーもすぐには答えなかった。
わかっている。
二人とも、同じことを考えている。
旅の目的が叶うということ。
それは、この旅の終わりかもしれないということ。
やがてミッツーは、いつもの穏やかな声で言った。
「まだ、何も決まったわけじゃない」
「……うん」
フィーネは小さくうなずいた。
それ以上は聞かなかった。
聞けなかった。
⸻
翌朝。
二人は街中を歩き回った。
冒険者ギルド。
古文書を扱う書店。
酒場。
古代遺跡の研究者。
誰に聞いても、答えは曖昧だった。
「ラビッシュ? 聞いたことがあるような……」
「ずっと昔の名家だったとか」
「今もその名を名乗る者がいるかは知らないね」
断片的な情報は集まる。
だが、決定的なものはない。
フィーネは期待するたびに、少しずつ肩を落としていった。
昼を過ぎ、午後になり、日が傾き始める。
広場の近くまで来た時だった。
⸻
どこからか、やさしい弦の音が聞こえてきた。
公園の噴水のそばで、一人の吟遊詩人が竪琴を奏でていた。
オルフェウス を思わせるような、古い物語を歌う旅の語り部だ。
周りには子どもたちや旅人たちが集まり、静かに耳を傾けている。
その歌詞に、フィーネの耳がぴくりと動いた。
遥か古の空の都
耳長き王は玉座に座す
禁じられた赤き果実を口にし
一族は大地へと追われたり
フィーネとミッツーは顔を見合わせた。
耳の長い王。
赤い果実。
地上への追放。
偶然にしては、あまりにも符合していた。
⸻
歌が終わると、フィーネはすぐに吟遊詩人のもとへ駆け寄った。
「今の歌、本当の話なの?」
吟遊詩人はやさしく微笑んだ。
「さあね。私は昔から伝わる歌を歌っているだけさ」
「耳の長い王って、うさぎの獣人?」
「そう考える人もいるだろう」
「ラビッシュって名前、知ってる?」
吟遊詩人は少し考えてから首を横に振った。
「歌の中に名は残っていない。ただ、この島の古い一族を歌ったものだと言われている」
それ以上のことは、誰にもわからなかった。
⸻
広場を離れながら、フィーネはぽつりと言った。
「赤い果実って……リンゴかな」
ミッツーは思わず吹き出した。
「たぶんな」
「リンゴ食べて追放されたの?」
「本当にそうなら、ずいぶん気の毒な話だ」
フィーネはしばらく考え込み、やがて真剣な顔で言った。
「……私だったら、たぶん食べちゃう」
「知ってる」
「だってリンゴだよ?」
「知ってる」
二人は同時に笑った。
張りつめていた気持ちが、少しだけほぐれた。
⸻
結局、その日も決定的な答えは見つからなかった。
フィーネの家族がどこにいるのか。
ラビッシュの一族がどうなったのか。
まだ何もわからない。
それでも。
フィーネの名前が、確かにこの世界のどこかに存在していた。
それだけで十分だった。
宿へ戻る途中、フィーネは夕焼けに染まる雲海を見つめながら言った。
「ちょっと残念」
「ああ」
「でも……少しだけ、ほっとした」
ミッツーは静かにうなずいた。
「俺もだ」
フィーネはミッツーの腕にそっと抱きついた。
「まだ、旅を続けられるね」
「ああ」
その一言に、胸の奥が温かくなる。
探し続ける理由もある。
そして、まだ一緒に歩ける時間もある。
それでよかった。
⸻
翌朝。
再びドラゴン便に乗り、二人は浮遊島を後にした。
眼下には白い雲が広がっている。
フィーネは風に髪をなびかせながら、遠ざかる島を見つめていた。
「ラビッシュ……」
その名を小さく呟く。
まだ見ぬ家族。
まだ知らない過去。
けれど、旅は続く。
いつかその答えにたどり着く日まで。
そして何より、隣にはいつも変わらずミッツーがいる。
それだけで、フィーネは前を向けた。
地上が近づいてくる。
風の中、フィーネは振り返った。
青い瞳をきらきらと輝かせ、いつものように満面の笑みで。
「父さん、次はどこ行く?」




