第7羽「浮遊島の刻印(前編)」
それを見つけたのは、晴れ渡った朝のことだった。
街道の先、雲ひとつない青空の中に、ぽっかりと浮かぶ影があった。
最初は雲かと思った。
だがよく見ると、それは大地だった。
岩と土と木々を乗せた巨大な島が、静かに空を漂っている。
その上には、白い石造りの建物がいくつも並んでいた。
「……うそ」
フィーネは立ち止まり、青い瞳を大きく見開いた。
耳がぴんっと立ち、尻尾がぶわっと膨らむ。
「島が飛んでる!」
「浮遊島だな」
ミッツーは腕を組み、少し得意げにうなずいた。
「たまに見かける。珍しいが、そういう場所もある」
「たまにって何! 普通じゃないよ!」
フィーネはその場でぴょんぴょん跳ねた。
「行きたい! 絶対行きたい!」
ミッツーは苦笑する。
「言うと思った」
実のところ、彼も最初からそのつもりだった。
旅人にとって、浮遊島は一生に一度訪れられるかどうかの特別な場所だ。
そして、空に浮かぶ古代遺跡の街――そんな話を聞けば、冒険者としての血が騒ぐ。
「よし。今日はあそこを目指そう」
「やったー!」
フィーネの耳が喜びいっぱいに揺れた。
⸻
浮遊島への乗り場は、セレスティアの街の外れにあった。
大きな発着場には、翼の生えた小型のドラゴンたちが並んでいる。
体長は馬ほど。
鱗は艶やかで、背中には二人乗りの鞍がついていた。
看板にはこう書かれている。
空輸竜運行所 通称:ドラゴン便
「かっこいい……!」
フィーネは完全に目を輝かせていた。
ドラゴンの一頭にそっと手を伸ばす。
「こんにちは」
ドラゴンは鼻を鳴らし、フィーネの手の匂いを嗅いだ。
そのくすぐったさに、フィーネは楽しそうに笑う。
「仲良くなれた!」
「リンゴの匂いがしたんじゃないか」
「それもあるかも!」
否定しない。
⸻
鞍にまたがり、ミッツーが後ろからフィーネを支える。
「しっかりつかまってろ」
「うん!」
翼が大きく広がる。
次の瞬間、地面が遠ざかった。
「きゃあああああっ!」
悲鳴。
そして一拍おいて。
「すごーーーーい!!」
歓声。
フィーネの耳は風を受けて後ろへ流れ、灰色の髪がきらきらと舞う。
眼下には街が小さくなり、川は銀色の糸のように見えた。
「父さん! 空だよ!」
「ああ、空だな」
「雲が近い!」
「ああ」
「鳥さんと同じ高さ!」
「ああ」
「私、飛んでる!」
「飛んでるのはドラゴンだ」
「細かい!」
フィーネはずっと笑っていた。
こんなに楽しそうな顔を見ると、来てよかったと心から思う。
⸻
浮遊島の街、ラヴァルシオンは不思議な場所だった。
白い古代建築の柱の間に、新しい木造の店が建っている。
半ば崩れた塔の中で喫茶店が営業している。
石畳には数百年前の模様が残り、その上を今の人々が普通に歩いている。
「すごい……」
フィーネは何度も足を止めた。
「遺跡の中でみんな暮らしてるんだ」
「古いものを大切にしてるんだろうな」
市場で果物を見て、古代の噴水を眺めて、見晴らし台から雲海を見下ろす。
それだけでも十分に楽しかった。
だが、広場の掲示板で気になる話を聞いた。
<旧貴族城跡 一般探索可>
「城跡!」
フィーネの耳がぴんっと立つ。
「行こう!」
「そう言うと思った」
⸻
城跡は街の端にあった。
巨大な石壁。
崩れた塔。
ひび割れた階段。
かつてこの浮遊都市を治めた貴族の居城だったという。
今では内部の危険な部分は封鎖され、外周の一部だけ探索できるようになっていた。
フィーネはわくわくしながら石壁に触れる。
「昔の人も、ここを歩いてたんだね」
「ああ。何百年も前にな」
風が吹き抜け、静かな遺跡に草の葉が揺れた。
その時。
「あれ?」
フィーネが立ち止まった。
石垣の一角をじっと見つめている。
「父さん、これ……」
ミッツーも近づいた。
そこには、風化しながらもはっきりと残る刻印があった。
二本の長い線が上に伸び、その下に丸みを帯びた紋様。
さらに中央には、細長い楕円のような意匠。
まるで――
うさぎの耳と、人参。
「……」
フィーネの耳が、ぴくりと震えた。
青い瞳が刻印に吸い寄せられる。
「うさぎ……みたい」
「ああ」
ミッツーは低く呟いた。
「そして、この形……」
刻印の下には、ほとんど消えかけた文字が並んでいた。
かすかな輪郭を指でなぞる。
古い文字を読み解きながら、ミッツーの表情が変わった。
「……ラ……ビ……ッ……シュ……?」
フィーネが息を呑む。
「今、なんて……?」
ミッツーはもう一度文字を見た。
間違いない。
風化していても、そこには確かにその名が刻まれていた。
「ラビッシュ」
フィーネの名字。
十年間、ずっと探し続けてきた名前。
フィーネは石壁にそっと手を触れた。
冷たい感触。
けれど、その奥から何かが胸に響くような気がした。
「私の……家族?」
声が小さく震える。
ミッツーは答えられなかった。
喜び。
驚き。
そして、ついにここまで来てしまったという複雑な思い。
すべてが胸の中で入り混じる。
空の上を風が吹き抜ける。
雲がゆっくりと流れていく。
フィーネは刻印を見つめたまま、静かに立ち尽くしていた。
十年間探し続けた手がかりが、ついに目の前に現れたのだ。
それが何を意味するのか。
まだ誰にもわからない。
けれど、この旅が大きく動き始めたことだけは確かだった。
ミッツーはフィーネの肩にそっと手を置く。
フィーネは不安と期待の入り混じった表情で振り向いた。
「父さん……」
青い瞳が揺れている。
ミッツーは静かにうなずいた。
「ああ。ここで、何かわかるかもしれない」
フィーネはもう一度刻印を見上げた。
長い耳が風に揺れる。
そして、胸の奥で小さく脈打つ鼓動を感じながら、そっと呟く。
「……私の、声の始まり」
雲の上の古代都市で、失われた記憶の扉が、静かに開こうとしていた。
(後編へ続く)




